靄の中。
食欲がまるで湧かず、シノはその日は文字どおり部屋にこもり続け、親が寝室へ入った気配がした後に風呂とトイレと歯磨きを済ませ、脱衣場の洗面台でコップ一杯の水だけを飲むと、部屋へと戻ってまたベッドに横になった。
夕方からずっとベッドでうつらうつらとしていたせいか、まるで眠気はない。しかし、このままベッドの中へずぶずぶと沈み込んでいきたいような心地に任せていると、いつの間にか眠っていたようだった。
父が出張へでも行くのだろうか、まだ七時にもならないのに家の中にはドタドタと忙しく歩き回る足音が響いていて、その音で目が覚める。
しかし、鉛のように身体が重く、ベッドから起き上がることができない。時刻は気づくと七時半を過ぎていて、そろそろ起きなければ遅刻になる。
今日は体調が悪いと言って学校を休もうか。ほとんどもう心の中でそう決めかけていた時、階下で母が何かを大きな声で言った。
どうやらこちらへ向けて、どこかへ行ってくるというようなことを言ったらしいが、よく聞き取ることができなかった。バタンと玄関の閉められる音がして、それきり家の中は無人の静けさに包まれた。
娘が部屋に籠もって食事も摂っていないのに、何も心配せず家を出て行ってしまうなんて、なんて冷たいんだろう。
できれば学校を休みたかったということもあって、シノは子供らしくそんなことを思ったが、しかし、やはり親の詮索を避けられたという安堵感のほうが大きかった。
自分は自分の思った以上に、今のこの状況を親に知られるということを恐れていたらしい。とりあえず、今日の夕方まではその心配がなくなったと思うと、心も身体もわずかながら軽くなった。
部屋を出てリビングへと行くと、食卓には自分の朝食が用意されていたが、まだ何も食べる気にはなれない。牛乳だけをどうにか飲んで、身支度をして家を出た。
このまま学校ではなく海にでも行こうかという思いがちらと頭を掠めたが、一晩経ってかなり頭も冷えてきたらしい、そんな馬鹿げた現実逃避を笑う余裕が今日のシノにはあった。
学校で一人でいることにも、周囲から冷たい眼差しを向けられることにも少しは慣れてきた。それは、もう何もかも自分にはどうにもできないという諦めのためでもあったが、それよりも自分自身に対する取り返しのつかないような失望のためとも言えた。
まだ重く霧がかかったようにボンヤリとしているものの、いくらか冷静になることができた頭で考えてみると、全ては自分が招いたものに違いなかった。
母は正しかった。人の悪口など、言うものではなかったのだ。思えば、下谷に漏らしたゆらの悪口から、全ては始まったのだ。
『人の悪口なんて言うもんじゃないって、昔から教えてきたでしょ。悪口を言ってたら、気づけばそればっかりしか言えない性格の人間になっちゃうわよ、って』
全くそのとおりだ。あの時、ゆらへの悪口を口にした瞬間、自分は、自分自身と良心とを繋いでいた糸を切ってしまったのだ。
それからは自由に落ちていく楽しさとスリルに身を任せるように、下谷を利用してゆらを傷つけさせ、ゆらが傷つくことになるのを知りながら、まさに悪魔のようにただ笑っていた。
自分は自分の手でゆらを傷つけたわけではなかったが、よくよく考えると、そこにこそ自分の浅ましさがあるような気がした。
全てを他人にやらせ、自分では一切、手を汚さずに利益を得たい。その思いは、自分がゆらから感じて嫌悪した『自己中心的』、そのものではないだろうか。
そう気がつくと、昨日にも増して何もかもに嫌気が差した。目を開けているのさえ面倒なほど気怠く、頭が重い。こちらへ冷笑を向ける名も知らない生徒たちを見ても、悲しみなど感じない。むしろ、そのとおりだと隣へ行って頷きたいくらいだった。
「希司さん」
不意に名を呼ばれて、何を見るでもなく机を見下ろしていたシノは顔を上げる。と、隣には下谷が立っていた。
次の時間は移動教室だっただろうか、気づけば誰ひとりいなくなっている教室で、下谷は隣の机に軽く腰かけながらニヤニヤとこちらを見下ろす。左手に提げている、何かが入った白いビニール袋を軽く揺らしながら尋ねてくる。
「私のこと、怒ってる?」
シノは黙って首を振る。すると、下谷はやや目を丸くして、
「そう? まあ……そうだよね。初めに攻撃してきたのは朝岡と希司さんのほうだもんね。別に何をしたわけでもないのにハブかれてた私とは感じ方が違うか」
下谷は腕組みをして、静かに唸りながら頷く。黒板右の時間割を見てみると、次の時間は体育だった。
「でも、この先、私に腹が立ってきたならサ、躊躇しないでやり返してくればいいよ。初めはそっちからだったけどサ、希司さんは確かに私に攻撃されたんだから、またやり返す権利があるよ」
「悪いのはわたしなんだから、そんな権利なんてない。それに、もしそんなことをしたら……」
「あははっ。流石は希司さん、頭の悪い朝岡とは違うね。――うん、そのとおり。あなたが何かしようとし続ける限り、私はいつまでも、永久に、あなたにやり返すよ。私はそういう人間だからサ」
言って、下谷はひらりとスカートを揺らして教室の後ろのほうへと歩き出す。そして、教室最後尾の窓側にある水越の机の前に立つと、その中に入っていた教科書を勝手に机の上へと出して、持っていたビニール袋をその中へ詰め込んだ。
シノが怪訝にそれを見ていると、下谷は楽しげに笑いながら口の前に人差し指を立て、鼻歌を口ずさみながら教室を出て行った。
彼女が一体、何をしたのか気になりはしたが、それを確かめる気にはなれなかった。まるで熱があるように頭が重く、全てがどうでもいい。
体育の授業になど到底、出る気にはなれなかったから、今日も学校が終わるまで保健室で寝ていることにした。流石におかしいと感じた養護教諭と担任の教師が親に連絡をするかもしれないが、最早それすらもどうでもよく感じられた。
保健室のベッドから見る空は、秋の空のように遠く静かで、青かった。




