決別。
互いに何か口を利くでもなく黙々と歩いて、アーケード街を外れて五分ほどの所にある、高いビルに左右を挟まれた小さな神社へとやって来た。
石の鳥居をくぐり、拝殿の右にある舞殿――お祭りの時には神楽を踊るステージになる小さな建物の陰で鞄を下ろし、ビルから伸びる大きな影の中で二人並んで佇む。
「食べなよ、それ」
言われて、シノは汗を掻いたように湿ってきた紙袋をわたわたと開ける。ふわっと立ち上ってくる甘い匂いに、こんな時でも思わず空腹を感じながら、その中から鯛焼きを一つ取り出す。
「ゆらも……」
と、シノは紙袋をそのほうへ向けたが、ゆらは手を出そうとせず、足元に敷き詰められている砂利を爪先で弄りながら言う。
「あのね……うち、伊藤くんが――シノにラブレター渡した人のことが、好きなの」
それはもう知っている。しかし、余計なことは言うべきではないだろうから、ゆらの横顔をただじっと見つめる。
「だから、シノが伊藤くんからラブレター貰ったってことが認められなくて……ついカッとしちゃったの。……ごめんね」
「う、ううん、わたしこそ……」
「別にシノは何も悪くないじゃん。――でも、そういえば、あの手紙に書いてあった場所にはホントに行かなかったの?」
「うん。だって、やっぱり、全然知らない人だから……」
だんだんと冷えてきた夕風に冷まされて、表面はもうほとんど冷たくなってきた鯛焼きを見下ろしながら言うと、ゆらは「そっか」と憑き物が落ちたような顔で笑い、
「ま、そうだよね。うん、それでよかったんじゃない?」
言って、シノが抱えている紙袋に手を突っ込んで鯛焼きを掴み出し、それを頬張る。目を細め、ニコッと屈託なくこちらへ笑みかける。
シノはどうにかそれに笑みを返しながら、思わず手が震えそうになるのをどうにか堪えていた。
ああ、自分はやはり間違えていた。
今更、ゆらを罠に嵌めようとしていた下谷を止めなかったこと、半ばそれに加担してしまったことを深く後悔して、それと同時に恐怖が頭を埋め尽くした。
もし本当に下谷がゆらの靴箱にあの偽ラブレターを入れていたら、自分は許されない罪を犯すことになる。自分の間違いを認めて謝ってきた人間を騙し、深く傷つけるという、人として許されないことをすることになる。
足元の砂利をじっと見つめながらシノはそう恐怖してしかし、自分がとあることをすっかり考え忘れていることに気がついた。
下谷は本当にゆらの靴箱に偽のラブレターを入れたのだろうか? もし入れていたとして、ゆらはそれを信じてしまっているのだろうか?
この二点に全てが懸かっていることに気がついて、シノはどうにかそれを知ろうと思考を巡らせた。どのような会話を振り、どのような質問を振れば、怪しまれることなくその話題に触れることができるだろうか。
シノは乾いた口の中にぬるい鯛焼きを無理やり含みながら、妙に上機嫌なゆらの話にうんうんと相槌を打つ。と、唐突にそれは目に飛び込んできた。
ティッシュが欲しかったらしいゆらが、足元のバッグへと屈み込んでそれを開いた。するとその中に、ノートとノートの間に挟まりながら、それはあったのだった。
『図書だより 十二月号』
その文字を見た瞬間、それまで掻き乱れていたシノの心が急激に冷たく静まった。
この季節外れのプリントは、確か下谷が図書委員の男子生徒から貰った古紙ではなかっただろうか。下谷がその裏面に偽のラブレターをしたためたプリントではなかっただろうか。
いや、そうとは限らない。偶然に偶然が重なって、たまたまゆらもこれを持っているというだけのことかもしれない。
シノはそう冷静を保とうとしたが、鞄を閉じて立ち上がったゆらのやけに明るい笑顔を見て、ああ、と気づいてしまった。
間違いない。これは下谷の書いた偽ラブレターだ。下谷は本当にあれをゆらの下駄箱に入れていたのだ。そして、これを受け取ったゆらは、これを本物のラブレターだと勘違いしているのだ。だからこそ、今ゆらはこんなにも機嫌がいいのだ。
シノはゆらにどうにか笑みを返しながら、いま手に持っている紙袋だけでなく、食べてしまった鯛焼きごとゆらに返したいような嫌悪感に襲われていた。ゆらという少女の人間性を、心底憎悪していた。
とにかくいつでも、グループの中では自分が一番、報われていたい。誰よりも上の立場でいたい。だから、誰かが自分よりも報われていれば機嫌を悪くしてその人を貶め、それで自分の優位が確保できたり、あるいは運よく自分だけが報われる結果になれば、コロリと機嫌をよくする。
機嫌をよくして、どこまでも周囲の人間を見下しにかかる。反省を装いながら貶めた者に手を差し伸べ、その手に縋る相手の瞳に映る自分の姿――惨めな者にも救いの手を差し伸べる、聖母のように清らかで優しい自分の姿に酔いしれる……。
善意も悪意も気まぐれで、しかしそのことに自分自身では決して気がつくことがない。なんて自己中心的な人なんだろう。なんて愚かで、くだらない人なんだろう。
思わず声を荒げたくなるほどの怒りが、シノの胸には湧き起こっていた。無邪気なほど機嫌よく楽しそうなゆらの笑い声がいっそう癇に障り、下谷の言葉が耳に蘇る。
『いやいや、いいんだよ。アイツはクラス全員にとっての害なんだから。今のところ困ってるのは私たちだけだけどサ、このまま放っておいたら、あのバカ、間違いなく今よりずっと調子に乗り出すよ? アイツの将来のためにもサ、ちょっとは痛い目に遭わせておかないとダメだよ』
そのとおりだ。確かにゆらは一度、痛い目に遭っておかねばならない。それは、ゆらの将来のためでもある。そう思うと、シノの口元に思わず自然な笑みが浮かんだ。
ゆらが受け取ったのは偽のラブレターであることを教えるのはやめておこう。清々した気分さえ感じながらそう決め、シノはゆらの言葉に黙って頷き続けた。
――恥を掻けばいい。
心から、シノは目の前の人間に向かってそう思ったのだった。




