良心。
放課後になるとすぐ、シノは帰路へ就いた。もちろん、今朝受け取ったラブレターに書かれていた呼び出し場所へは行かなかった。
それに、下谷には、『六時半少し前に音楽室の傍に集合』と言われたが、シノは流石にそこまでのことをする気にはなれなかった。それはただ単純にその場へ行く度胸がないためでもあったが、下谷の計画があまりにも悪趣味すぎるように感じられたというのもまた事実だった。
本当に下谷はあの手紙をゆらの下駄箱に入れたのか。本当にゆらはあの手紙を信じて、言われた場所へやって来るのか。ゆらが恥を掻くことになることを心の底で望みながら、それでもやはり、そのような悪事をなすべきではないという良心がシノの胸にはあったのだった。
時間がなくて、下谷はゆらの靴箱にあの手紙を入れられなかったかもしれない。明日、学校へ行ってみれば、ゆらがいくらか機嫌を直していて、また元どおりの学校生活を送れるようになっているかもしれない。
そんな淡い願望を抱きつつ、それでも同時に心の別の場所では、ゆらが大恥を掻いて傷つくことを心待ちにしている……。
自分でも、自分が何を望んでいるのかよく解らない。自分で自分を理解できず、シノはただボンヤリと、夕空に浮かぶ黄色い羊雲を見上げて帰途を歩いた。
だが、なんとなく真っ直ぐ家へ帰る気にはなれず、少し遠回りをする道を選ぶ。平日には滅多に来ないアーケード街をぶらぶらして、そのとある一角にふわりと漂っていた甘い匂いを嗅いだ瞬間、シノはずっと以前に母に言われたことを思いだした。
『人の悪口を言いたくなったら、お腹が破れそうになるくらいたくさん物を食べなさい。そうすれば口を開くのがイヤになるし、眠くなって余計なことも考えられなくなるから』
近頃、母はこちらのことを太った太ったと言うが、その原因の一つが自分の言葉であるなどとは思ってもいないに違いない。が、その言葉はどうやら正しくて、つい悪口を言いたくなった時や、イヤなことがあって頭を上手く切り替えられない時などは、これまで何度もシノはそれを実践してきていた。
だから、今日もとにかく食べ物をお腹に詰め込んで、それで寝てしまおうか。そう思ったが、
『あなた、この頃ホントに赤ちゃんみたいに丸くなってきてるわよ。そんなんじゃ、許嫁にフラれちゃう』
昨夜、母が口にしたこの言葉もまた不意に頭をよぎって、シノは鯛焼き屋の露店へと向かいかけていた足を止める。
許嫁なんて知ったことではない。そんな時代錯誤なもの、自分には関係ない。シノは心からそう思ったが、しかしどういうわけか足が重い。どうにか足を踏み出しても、そちらのほうへと身体が向かってくれない。
見えない何かと戦いながら、シノは鯛焼き屋の露店の前を行ったり来たりする。そうして、一体何度目の往復をしていた時だろうか。ふと後ろを振り返ると、そこに思わぬ人物が立っていた。
夕時のアーケード街を歩き過いでいく人の流れの中、その少女――ゆらはどこか青い顔をしながらその場にじっと佇み、こちらを睨んでいた。
が、肩に提げた鞄の持ち手をギュッと握り締めながらこちらから目を逸らすと、一直線に鯛焼き屋の露店へと歩いて行く。
鯛焼き屋で注文をするゆらの背中を、シノは何も考えられないほど呆然としながら見つめ、やがてゆらが鯛焼きをいっぱいに詰め込んだ紙袋を抱えながらこちらへ歩いてきた時も、身動き一つ取ることができなかった。そんなシノに、
「ん」
と、ゆらはその紙袋を押しつけるように差し出してくる。少し頬を染めながら、まるでこちらの機嫌を伺うように、ちらちらとこちらの顔を見てくる。
がしかし、状況が呑み込めない。シノが困惑してそれを受け取れずにいると、ゆらはその温かい紙袋をシノの胸に押しつけて無理やり渡してくる。
「たまたま通りかかったらシノがずっとここウロウロしてるから、代わりに買ってあげたんじゃん。これ、食べたいんでしょ?」
「え? う、うん……」
自分が鯛焼き屋の前を行きつ戻りつしていたのをずっと見られていたのか。その恥ずかしさが思わず顔を熱くさせたが、しかしそれでもまだ、ゆらが唐突に目の前に現れた驚きのほうが勝っていた。
頭が真っ白で、上手く言葉が出て来ない。そんなこちらの様子を見て何を感じたのか、ゆらはどこか恥ずかしそうに苦笑する。
「な、何、顔朱くしてんのさ。うちに会えたのがそんなに嬉しいの? うちはシノの彼氏じゃないんだよ」
「うん……」
「えーと……ホントにうちがここに来たのはたまたまっていうか、ただの暇潰しで、その……だけど、ちょうどよかった。あのさ、シノ……今日はごめんね」
え? と、ゆらの思わぬ言葉にシノが驚くと、ゆらは耳まで朱くなっている顔をついとこちらから逸らしながら、
「シノが貰ったラブレター勝手に読んだりして……ごめんって言ってんの」
小さくそう言うと、駅から離れる方向へと向かって歩き始めた。
「ねえ、ちょっと話しよう。近くに神社あるからさ、そこ、行こうよ」
ゆらは肩越しにこちらを見てそう言う。ぶっきらぼうな言い方だったが、その声に刺々しさは全くない。しかし、それだけにむしろ困惑してしまいながら、シノは慌ててゆらの後をついていったのだった。




