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女子ノ聖域  作者: 茅原
シノ物語
71/81

悪夢。蠢くもの。part1

 あっという間のことだった。

 

 朝、登校して自分の下駄箱の扉を開けると、上靴の上に一封の白い封筒が載っていて、なんだろうとそれへ手を伸ばした直後、横から飛び出してきた手がそれを掴み取っていった。

 

 見ると、いつの間にか横に立っていたゆらが、冷やかすような笑みを浮かべながらその手紙をじろじろと眺め回していたが、不意にその表情が血の気が引いたように凍りついた。


「ちょっと来て」

 

 と痛いほどの力で手を引かれ、教室とは逆の方向である体育館のほうへと連れて行かれた。ゆらは歩きながらユーカに電話をし、既に登校していたらしい彼女とリナを体育館前の渡り廊下に呼び出した。

 

 渡り廊下へ着くと、ゆらに封筒を突き返され、


「開けて」

 

 と命令された。その封筒の裏には、どうやら男子生徒らしい名前が手書きで書かれてあったが、その名に見覚えはなく、ひたすら困惑しながらその封を開いた。


『初めまして。一年C組の伊藤です。今日の放課後、ホームルームが終わったらすぐ、屋上入り口の所に来てください。大切な話があります。よろしくお願いします。』


 そこに書かれていたのは、ただそれだけの文章だった。しかし、その薄緑色の高そうな便せんや、丁寧な紙の折られ方、几帳面に並べられた文字を見れば、これが単なる連絡の手紙ではないことはすぐに解った。


「貸して」

 

 案の定というか、やはりラブレターだと解った直後に、再びゆらにそれを掻っさらわれた。

 

 ゆらはやけに白い顔で、しかし燃えるような目つきで食い入るようにその手紙を黙読すると、駆け足にここへ来ていたユーカとリナの二人にそれを渡した。


 そして、興味津々に目を輝かせている二人がそれを読み終えぬうちに、刃物のような目をこちらへ向ける。


「シノ。あんた、どうする気?」

「どうする気って言われても……。や、やっぱり断る……かな。だって、その人が誰なのかも全然知らないし……」

「……あっそ」

 

 ゆらは刺々しく言ってこちらへ背を向け、


「いいわね、美人は贅沢で。行こ、ユーカ、リナ」


 と二人を連れ、シノだけを残して教室のほうへと歩いて行った。

 

 気まずそうにリナに返された封筒を見つめながらシノは呆然とその場に佇み、やがてこれはマズいことになったと気がつく。

 

 このラブレターを読んでいる時のゆらの目は普通ではなかった。ひょっとしてこの男子生徒は、ゆらが恋をしているという吹奏楽部の男子生徒なのではないだろうか……。

 

 シノはなんとなく直感的にそう思って、そしてそういう嫌な予感ほど的中するものなのだった。

 

 玄関にいた顔見知りの吹奏楽部の友人に、封筒に書かれてあった名前をそれとなく訊いてみると、やはりこの人物は吹奏楽部に所属している男子生徒で、それも吹奏楽部に所属している一年生の男子生徒は三人しかいないとのことだった。

 

 あれきり声もかけてこないゆらの様子から考えても、間違いない。気づけば自分は、悪夢のような事件の渦中にいたのだった。




ゆらの機嫌を損ねたということは、ユーカとリナの機嫌も損ねたということ。


 三人の機嫌を損ねたということは、誰かしらの口からこの件の話――ゆらの口から語られるこの件の話がクラスに伝わり、クラスの女子全員がゆらの味方につくということ。


 ゆらがこちらを無視するなら、クラスの女子全員がこちらを無視するということ……。


これはほとんど様式美のような決まった流れだから、容易く予想することができた。


 しかし、そうなることが解っていたからといって、何か先手を打てるわけでもない。自分より五倍は早く口が回るゆらを敵にした時点で、結果は決まっていたのだった。

 

 案の定、ホームルームの最中から、噂は女子たちの間を鼠のように素早く密かに駆け回っていたらしく、朝からクラスメイトの誰ひとりとして自分に声をかけてくれず、目を合わせてもくれない。


 ――もう終わりだ、わたしの高校生活……。


 本当に目の前がぐらぐら揺れて見えるほど絶望し、授業の内容など一切、頭に入らなかった。昼休みになるとすぐ、自分の弁当を持って逃げるように教室を出た。

 

 明らかに自分のことを噂している囁き声と、教室中から刺すように飛んでくる視線が心に痛くて、堪えられない。


 それに、いつもはあまり喋っていないクラスメイトにも囲まれて、まるで被害者のように弱々しく落ち込んだふうを装っているゆらを見ていると、今まで感じたこともなかったイヤな何かが胸の奥底で蠢いて、その気持ち悪さにも堪えられなかった。

 

 学校に食堂などなく、他の教室に親しい友人がいるわけでもない。だから、昼休みにはひと気の消える、特別教室の傍にあるトイレで手早く弁当を食べると、まだだいぶ残っている休み時間を消化するために図書室へと足を向けた。


 まだ入学して二ヶ月ほどしか経っていないが、昼休みの図書室はあまり人がおらず、居心地がよさそうなことは既に知っていた。


 行ってみると、やはりそこは閑散としていた。テーブルに本を広げて読んでいる人もいなければ、居眠りをしている人もいない。自分と同じように、ただ暇潰しをしに来たような様子で本棚の間をぶらぶらと歩いている人が、二、三人いるくらいである。

 

 窓から差し入る午後の柔らかな陽射しが、窓の傍に並べられているテーブルの木目をふんわりと黄色く照らしている。耳を澄ますと、カウンター席にいる男子生徒が本のページを繰る音と、本棚の間を泳ぐようにぶらぶらと歩く生徒のゆったりとした足音だけが微かに聞こえてくる。

 

 シノは今日、初めて学校で呼吸をしたような気分で息をつき、何を探すでもなく本棚の間を歩き出す。本棚と本棚に挟まれた狭い通路は、周りから身を隠せているためだろうか、妙に居心地がよかった。しかし、


「ねえ、希司さん」

 

 なんの気なしに、とある小説の背表紙に指をかけた、その時だった。不意に後ろから名を呼ばれて、シノは息を呑んで振り返る。


 と、本と本の隙間からこちらを見ている一重で切れ長の目と目が合い、さらにギョッとした。

 

 だが、その人物はおかしそうに目を細めて、それから足取り軽くシノがいる通路へとやってくる。


 下谷果歩。


 ゆらに毛嫌いされて、何かとつまはじきにされているその少女は、シノにしてみれば羨ましいほどスラリと長い足を静かに運びながらシノの隣に立つと、ニヤニヤと楽しげに笑いながら耳打ちをしてくる。


「なんかサ、大変なことになっちゃってるね」

「え……? あ、うん……」

 

 ほんの数分の間ではあったが忘れていたイヤなことを唐突に思い出させられた驚きと、普段はほとんど話すこともない下谷が急に話しかけてきた驚き、その二つの驚きに襲われて、一瞬、ポカンとしてからシノは頷く。


 下谷はシノと肩を並べて本棚を見つめ、重く溜息をつく。


「そっか……ホントなんだ。希司さんが、朝岡の好きな人からラブレター貰ったっていう噂……」

 

 やはり思っていたとおり、あの男子生徒はゆらが想いを寄せていた男子生徒だったらしい。既にそう確信はしていたが、心のどこかで、全て勘違いであってほしいと願っていた。そのあえかな希望が思いがけず砕かれて、シノは口の中に苦い味が広がるのを感じる。

 

 と、下谷は妙に馴れ馴れしくシノの肩に手を載せて言う。


「希司さんが落ち込む必要なんて全くないよ。だって、希司さんは何も悪くないじゃん。向こうから告白してきたのにサ、それで希司さんが責められるのはおかしいよ。要するに、これって単なるモテない朝岡の嫉妬じゃん。希司さんが自分より可愛いことも含めて嫉妬してんのサ、アイツ」

 

 下谷は普段から、口を開けばズバズバと何かを斬り捨てる少女だった。皆がその言葉に苦笑すると、


『私は優しくない女だから』


 と自らのサバサバした性格をまるで誇示するように言うので、それで皆からあまりよく思われていなかった。

 

 シノも、その性格はどこかで他人に甘えているような気がして、好きではなかった。しかし、今日ばかりはその容赦ない物言いが嬉しかった。下谷の言葉は、まさに一つの言い漏らしもない自分の心そのもののように感じられたのだった。

 

 けれど、だからといってあからさまに調子を良くするのは恥ずかしい。シノは目を伏せながら言う。


「あの……下谷さん、これまでゴメンね。ゆらが、その……下谷さんを悪く言うから、わたしもしょうがなく同じことを……。でも、違うの。わたしは本当は、下谷さんのことはなんとも――」

「いやいや、そんなことは解ってるって。だって、アレを怒らせたら、誰でも私みたいに仲間外れにされちゃうんだもん。悪いのは全部、あの女王様気取りのバカだよ」

 

 ぷっ、と、シノは下谷の歯に衣着せぬ物言いに思わず噴き出してしまう。


「そんなふうに言うのは可哀想だよ……。でも、確かにそうかも。ゆら、自分はクラスで一番偉いって、本当にそう思ってると思う」

「ホントにバカなヤツだよねえ。大して可愛いわけでも頭いいわけでもないし、ただよく口が回るだけなのにサ。ねえ、希司さん、知ってる? アイツって、本気で将来はモデルになろうと思ってるらしいよ」

「え? モデル……?」

「うん、アレと同じ中学から来てる子が言ってた。一回だけたまたま雑誌に載れたことがあってサ、それからずっと自分はいつかモデルになるって思ってるらしいよ」

「モデルなんて……そんなの無理だと思う。ゆらよりお洒落な人なんていっぱいいるし……」

「そうそう。私も街でアレの私服見たことあるけどサ、なんなの? あのゲームに出てくるヒゲのオジサンみたいな格好。あれで自分がお洒落って思ってるなら、ちょっと頭おかしいよ」

「ふふっ、そんな……。でも確かに――」

 

 と、シノはまた思わず笑ってしまいながら、下谷の勢いに載せられて、これまで溜め込んできていたゆらへの不満をついつい口にしていってしまう。


 母は人の悪口は言うなと言った。しかし、実際、これまでゆらがやってきていたように、こうして悪口を口にすることで人と繋がれることだってあるのだ。

 

 悪口を一方的に聞かされるのは確かに不快でも、こうして共通の話題にできるのなら、そう悪いことではない。第一、この悪口の対象は、こちらの悪口をクラス全体に向けて言っているような人間なのだ。


 自分は悪くない。

 

 その思いが、余計にシノの口を滑らかにさせた。


 普段、少なからず鬱陶しく感じていた人間の悪口を言うのは思った以上に気持ちがよく、自分でも驚くほどに次から次へとゆらを罵る言葉が出てくる。声を小さく抑えるのに苦労するくらいに、楽しくて堪らないのだった。


「そうだ、いいこと思いついた。これまで私たちがやられてきた分、アイツに復讐してやろうよ」

 

 と、下谷がシノの言葉を断って言う。

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