透明な薄い膜のこちら側。
六月の、からりとした涼しく心地よい風が窓から入ってきたのにつられて窓の外を見ていると、名前を呼ばれたような気がした。
え? と、シノが休み時間の教室の中へと目を戻すと、
「だから、シノは日曜日のテイエン、行くの? って」
机に肘を立てて頬杖つきながら、友人の朝岡ゆらが少し怒ったような顔で、その真正面に立っているこちらを見上げていた。
「テイエン……あ、定期演奏会のこと? 吹奏楽部の」
「それ以外に何があんのさ。で、シノは行くの? うちとユーカとリナは行くって、もう決めたんだけど」
ゆらは前髪を揃えたボブカットの耳元の髪を指で弄りながら、机の横に並んで立っている友人二人を見上げる。
「えーと、わたしは……」
と、シノはこちらを見つめる二人と目を合わせつつ困惑する。
休日は家でゆっくり過ごしたいというのが本音で、そもそも自分はあまり吹奏楽に興味がない。というか、実はユーカとリナも自分と同じであることを、シノは以前、二人の口から聞かされて知っていた。
なら、どうしてこのような話になっているのかというと、なんでも吹奏楽部にはゆらが密かに想いを寄せている男子がいて、ゆらはどうやらその晴れ舞台を一目見たいらしいのだった。つまり、この中で誰ひとりとして吹奏楽の演奏には興味がないのである。
それなのに、どうしてわざわざそこまで出向かねばならないのだ。馬鹿馬鹿しい、そんなことに休日を潰されたくない。そう思ってしまう自分は冷たい人間なのだろうか? シノがそう思っていると、
「あの、私もそれに――」
ユーカとリナの後ろに立っていた、スラリと背の高いクラスメイトが口を開く。しかし、それに声を被せるようにしてゆらが言う。
「シノも来なよ。だって、普通に買ったら八百円するチケット、吹部の人から四枚もタダで貰ってんだよ? せっかく招待されてるんだから、行ってあげないとアレじゃん」
ね? と、ゆらは先程何か言いかけた、ボーイッシュな短い髪型をしたクラスメイト――下谷果歩を一瞥もせず、にこにこと愛想のいい笑みをじっとこちらだけへ向ける。
「う、うん、それは……そうかも。じゃあ、わたしも行こうかな……」
他の返事を許さない笑みに圧されて、シノは小さく頷く。横目に下谷の様子を伺うと、その一重の目と一瞬、視線が合うが、悲しげに顔を伏せ、こちらへ背を向けてとぼとぼと扉のほうへと歩いて行く。
「アイツ、マジでキモくない?」
下谷が廊下へと姿を消すや、ゆらがぐっと背中を丸めながら、刺々しい、しかし妙に輝いた目で皆を見回す。
「一人でいるのが怖いからって、いっつもうちらの周りうろうろして……幽霊みたいじゃん」
うん……。と、リナが困ったように笑いながら頷き、ユーカもシノもそれに曖昧に続く。おそらく皆も、『また始まった』とうんざりしているのだろう。
ゆらは明るく社交的で、ワガママなところもあるけれど、基本的には一緒にいて楽しい少女である。自分が高校に入学して一番最初にできた友人がゆらだし、それからおよそ二ヶ月の間、こうして上手く友人を作りつつ高校生活を送れているのは、ゆらのおかげでもあるから、とても感謝している。
しかし、この裏表の激しさにはつくづく閉口する。ゆら本人にとっては、こうして悪口を囁き合うことは、今ここにいる人間の繋がりを確かめ合う大切なことなのかもしれない。だが、その考えの裏には、
『うちに嫌われたらどうなるか、解るでしょ? 悪口を言われたくなかったら、頑張ってうちの機嫌を取りな』
という、人を見下し、支配する快感への陶酔がありありと潜んでいて、ゆらは実際、それを隠そうともしていなかった。
だが、ゆらほど上手く立ち振る舞うことができない自分たちは、そのご厚意に甘えさせていただくしかなく、日々、聞きたくもない悪口に一所懸命、頷きながら、じりじりと自己嫌悪へ追い込まれていくのだった。
だが、いつもそれに黙って堪えているというわけにはいかない。ユーカとリナ曰く、この中で、唯一、ゆらが一目置いているという自分には、それを軽くたしなめる義務があった。なぜなら、そうしなければ二人の不満が今度はこちらへ向くからである。
小さく息を吸って、シノは恐る恐る言う。
「ま、まあまあ、ゆら……そういうこと、あんまり言わないほうがいいよ。ここ、教室だし……」
「え? ……はは、シノはホントにいい子だね」
ゆらの表情から温度が消える。口元に笑みは残っているが、こういう時のゆらの目は氷のように冷たい。しかし、それはほんの一瞬のことである。
「いい子で、しかもこんなに可愛いって! 反則じゃん! この! ぷにぷに!」
明るく笑みを弾けさせて、ゆらは手を伸ばしてシノの頬を両手に挟む。刃物を見せて脅すように冷たい目つきを見せて、それからすぐにおどけて見せて相手を安心させる。これが、ゆらのお気に入りのやり方なのだ。
弄ばれた頬をさすりながら、シノはふと、一人の生徒へと目をやる。
ゆらの席から四つ後ろの、窓際最後尾のその席には、水越かなたという一人の女子生徒が座っている。
窓から吹く爽やかな風にセミロングの髪を揺らしながら、何を見るでもないような目をやや雲のかかった青空へと向けている。まるで彼女の周りを透明な薄い膜が覆っていて、そこだけは静かで穏やかな時間が流れているようだった。
シノはそんな水越に、どういうわけか以前から親近感のようなものを覚えていて、その秋の空のように澄んだ横顔を見ていると、どこか安心したような気分になるのだった。




