プロローグ。
狂ったように蝉が鳴いている。
空は鬱陶しいまでに青々と晴れ渡り、遠く東に見える山の上には真っ白な入道雲が綿アメのようにそびえ立って、緑の田が広がる平野を遥か高くから見下ろしている。
町外れの高台にあるこの墓場の周囲には、すぐ西側にある小高い山以外に視界を遮る物は何ひとつなく風通しはよさそうに見えるが、そよ風さえも吹いておらず、まだ午前中にも拘わらずうだるように暑い。
ただ立っているだけで、粒の汗が頬から流れ落ちてくる。喪服を着ているせいか、肩や背中はじりじりと焼かれているように熱い。母や、母方と父方の祖父母も、しきりにハンカチで汗を拭っている。
墓前では真っ黒な装束に身を包んだ住職が不憫なほどの汗を首筋に垂らしながら、一所懸命に念仏を唱えている。しかしその声も、周囲に溢れ返っている蝉の声にほとんどが押し潰されてしまっているからなお不憫だった。
――やっぱり、本州の暑さは違うなぁ……。
まさしく突き抜けるように青い空を、シノは目を眇めながら見上げる。
父が死に、葬式を済ませ、引っ越しと転校の準備をし、生まれ育った北海道を離れたこの一ヶ月と数日間……まるでずっと夢を見続けているかのような、ふわふわと地に足のつかない感覚が続いている。
どうして自分は今ここにいるのだろう? どうしてこんなことになってしまったのだろう? そんなことばかり考えながら、頭の奥では常にボンヤリと父の顔を思い浮かべていた。
父はとにかく寡黙な人だった。
せっかちな母に相槌を打ちながら、どこか遠くを見るような目で新聞やテレビを眺めているか、もしくは一日中、自分の書斎から姿を見せない人だった。怒ることもなかった代わりに、喜んだり笑ったりすることもない人だった。大学で政治学の教授をしていて、地方自治という分野の研究をしていたらしいが、それ以上のことはよく知らない。
父の死因は肝臓癌だった。
それが解ってたったの一ヶ月で、父は死んでしまった。
そのせいか、もう父はどこにもいないのだという実感は、こうして納骨の儀式を済ませている最中でも未だに湧かない。ただ気怠い暑さがあるばかりで、この一ヶ月と数日にあったこと全てが白い靄の向こうにあるように曖昧で漠然としている。
蝉の鳴き声が、思わず耳を塞ぎたくなるほどに喧しい。ただそう思っているうちに納骨は終わり、皆が顔に暗い影を作りながら駐車場へと引き返していく。
目元をハンカチで押さえ、祖母につき添われて先を歩いて行く母の白いうなじを見つめながらシノもその後に続き、だが不意にハッとして足を止めた。
自分でも初め、自分が何に驚いたのか解らなかった。けれど、自分が今、墓地の入り口傍にぽつんと一体立っている古びた地蔵の前を通り過ぎようとしていたことに気づくと、その瞬間、病室で父と交わした会話が突然、頭に蘇った。
「母さんから聞いたが、学校で色々あったみたいだな、シノ」
「……うん」
「こんなことを最期に言うのもなんだが……最期だからこそ、俺の人生観――というほどのものでもないが、俺がずっと思ってきたことをお前に伝えておこうと思う」
「思ってきたこと?」
「ああ……。いいか、シノ。この世を正気で生き続けられる人間は、よっぽど器用な人間か、神様に愛されたような幸せ者だけだ。
でも、そういう恵まれた人間はごく稀だ。だから、それ以外の人間はみんな天使か、悪魔か、もしくは地蔵の役になりきって、それで生きていくしかないんだ。そうしなければ、とてもじゃないが生きていけないから」
「それで、お父さんは……地蔵を選んだの?」
「……そうだ」
父はこちらから目を逸らして自らの黄色い手を見下ろし、硬い表情をしながらごく小さく頷いた。そして、今にも消えてしまいそうな弱々しい笑みをこちらへ向け、言ったのだった。
「お前は……どんな大人になるんだろうな」
真っ青な空を背景に浮かぶ入道雲も、騒々しい蝉の鳴き声も、気怠い暑さも、全てが曖昧になり、シノの世界から遠く彼方へと消え去っていく。
自分がなぜ今ここにいるのか。その理由を探し求めるように、シノの意識はいつしか一ヶ月と数日前へと飛んでいた。




