灰色の朝、禁忌の影。
「どうしたのかな、みんな。やけにどんよりした顔して」
と、混み合う玄関で靴を履き替えながら言った市子に、佳奈は思わずムッとしながら外靴を下駄箱にしまう。
「だから、昨日の夜中も言っただろ。いま学校で噂になってる怪談があるって」
カイダン? と市子は生まれて初めてその言葉を聞いたような顔をして、
「何? どっかの階段を工事でもするの?」
「その階段じゃなくて、『怪談』だよ。怖い話のほうの……」
と、一足先に上履きへと履き替え、自分たちを待っていたショートヘアの小柄な少女――実は少年なのだが――栗戸ミサキが、両手で身体の前に提げた鞄とこちらとを交互に見ながら言う。
「怖い話? 何、それ?」
と、中分けにした前髪の下で、垂れ気味の目をパチパチと瞬きする市子に、
「二日くらい前にも話しただろ。憶えてないのかよ」
そう文句を言いつつも、佳奈は自分の知っている怪談について、教室へと歩き出しながら再び話をしてやった。
この菫山女子高等学校には、いつからなのかも定かでないくらい昔から、とある怪談があるのだった。
「聖域の巫女がね、オオカミとカラスを連れて、夜中に学校の敷地を歩き回るんだって。しかも、ただ歩き回るだけじゃない。聖域の巫女たちは、学校で誰かが禁忌を犯そうとしてるのを警告してるんだってさ」
「『禁忌』って?」
「自殺とか、放火とか……それに人殺しとか、そういう、人の命に関わるようなことらしい」
空は一面、灰色を塗り込めたような曇り空で、朝だというのに廊下は薄暗い。
そのせいか、教室へと向かう生徒たちや、立ち話をしている生徒たちが大勢いるというのに、校舎はどこもひっそりとしている。もう間もなく真夏へと入っていこうとしている時節であるにも拘わらず、肌に触れる空気はどこか寒々しい。
「ふーん、人の命ねぇ……」
興味なさげに言い、それから大あくびまでする市子に、佳奈はなぜだか負けたような気分でムッとしながら続ける。
「巫女は夜中に学校の敷地内を歩き回って、オオカミはじっと何かを狙いを定めたように森の中を彷徨うんだって。それで、カラスはだな……その禁忌を犯そうとしてる生徒の部屋の窓に、夜な夜なやって来るんだってさ。
しかも不思議なことに、カラスが来るその部屋は昔から決まってるんだって。一階の、南西の角部屋、『101号室』……あの部屋の地下には死体が埋まってるって噂があって、その噂のせいか、いつも大体そこは空き部屋になってるんだ。でも、部屋割りの関係とかそういうので、しょうがなくそこに誰かが入ることになったりしたら、巫女とオオカミ、それにカラスが学校に現れるんだって……」
「うん? 禁忌を犯そうとしてたら出て来るんじゃなかったの?『101号室』に人が入るだけでも、それは出てくるの?」
「い、いや、詳しいことはあたしにも解んないけど、その部屋に入った人は、呪いっていうか……そういう不思議な力で心がおかしくなって、それで禁忌を犯しちゃう……みたいな感じじゃないか?」
「『みたいな感じ』って言われても……ねぇ?」
と、市子が失笑に似た笑みを浮かべながらミサキに視線を流すと、ミサキはその円らな目を戸惑ったように泳がせる。
「え? う、うん……。きっと、ただの噂なんだろうけど……でも、この噂がこんなに広まったのって、確か生徒会長が巫女を見たから……なんだよね?」
「ああ、そうらしい」
佳奈は背筋に寒いものを感じつつ頷き、ゴクリと生唾を飲み込んでから、
「なんでも、あの希司さんが、巫女を見ちゃったんだってさ。噂が大きくなったことに慌てたらしくて、今は『見てない』って言ってるらしいけど……でも、やっぱり希司さんは見たらしいんだ。いや、っていうか、ミサキ、あたしも昨日の夜――じゃなくて今日の夜中に、見たんだよ」
「え? み、見たって……?」
「あたしのこの目で、『101号室』のトコにカラスが集まってるのも見たし、オオカミが森の中を歩いてるのも見たんだ。あたしも信じたくないけど、噂は――」
ホントなのかもしれない。いや、ホントなんだ。そう言おうとしたのを、佳奈はすんでのところで堪えた。
なぜなら、もう間もなく着きかけていた自分たちの教室の中から、噂の渦中にいる人物、つまり『101号室』の住人が、ふらりと姿を見せたからであった。
小学生のように小柄な背丈で、肌は青白いほどに白く透き通っている。髪はショートカットだが、前髪だけがほとんど目を覆い隠すくらいに長く、やや俯き加減で歩いているため、少女の表情はほとんど窺い知れない。
花の茎のように細い足を早足に動かして、その少女――倉水真希は佳奈の脇を通り過ぎていき、どうやらトイレのほうへと向かっていった。
いくら怖い思いをしたからと言って、自分は少し無遠慮だったかもしれない。倉水が現れるや囁き声がピタリと止んだ廊下で、佳奈が居心地悪くそう反省していると、倉水の後を追うようにして一人の生徒が廊下へと出て来た。
「あ、おはようございます、安田さん」
と、佳奈は慌てて、市子、ミサキと共に頭を下げた。
その生徒――一つ年上の上級生で、自分たちと同じ生徒会員である安田という名のその生徒は、「あ、おはよー」とセミロングの髪をふわふわさせながら、にこやかにこちらへ挨拶を返してくれる。
なぜこんな所に安田さんが? 佳奈がそう訝っていると、安田は倉水の背中に声をかけ、倉水と何やら立ち話をし始めた様子である。
――安田さんと倉水さんって、知り合いなんだ。
安田にぺこぺこと恥ずかしそうに頭を下げている倉水を見やりながらそう驚きつつ、つい今しがた倉水が出て来た教室の中へ足を踏み入れる。
と、そこは、むしろ今この瞬間から堰を切ったようにヒソヒソと噂をし合う、棘のある声で満ちているのだった。
「ああ、くだらない」
と、市子はやや苛立ったような様子で鞄を自分の机に起き、重く嘆息しながら席に腰かける。
「何が怪談よ、馬鹿馬鹿しい。そんな噂してる暇あるなら、もっと勉強しなさいよ。そんなだからみんな、いつまで経ってもお馬鹿さんなのよ」
こういうことを偉そうに腕組みしながら大きな声で口にしても、誰もムッとしたような顔をしないのは、いつどんな時でも変わらない、市子らしいと言えば市子らしい人柄を皆がよく知ってくれているからだろう。だが、それ以上に、市子の成績が誰よりも悪いことを、皆よく知っているからに違いなかった。
『全教科赤点スレスレのあんたに言われたくないっての』
皆の気持ちを代弁して、佳奈はそうツッコんでやろうかと思ったが、それよりも早く、
「そうですよねっ!」
教室のほとんど中央、市子のすぐ後ろの席に座っていた少女が、ガタンと勢いよく席から立って声を張り上げた。
その大声で、市子やミサキを含め教室中の生徒が目を丸くしながら、その不意に立ち上がった少女――新田ゆめを見やる。
新田は、耳の後ろで結んだ短いツインテールをピョコンと跳ねさせながら両手で自らの口を押さえ、リスのようにクリクリした目で教室を見回し、
「あ……す、すみません、すみませんっ!」
四方八方に頭を下げてから、耳まで顔を真っ赤にして席に座り直す。
その、慌てて巣穴に引っ込んだリスのような新田を、皆は目を丸くしてしばし見つめたが、ほどなく思い出したように再び噂話に没頭し始める。
今日の空模様のように陰鬱な話し声がひしめく教室の中、新田は机の木目をじっと見つめながら囁いた。
「わたしも、多部さんと同じことを思います。こんなの、何もかもくだらないです。真希が可哀想です……」
「真希って……ああ、倉水さんの名前だっけ?」
「それくらい憶えとけよ。クラスメイトなんだから」
とぼけた顔で呟く市子の脇に立ちながら佳奈が言うと、市子の机の前へやってきたミサキが、やや戸惑った様子で新田に微笑みかける。
「新田さんと倉水さんって、確か昔から友達だったんだよね?」
「は、はい、そうです。ここに来るずっと前の、幼稚園の時から……。だからっていうわけじゃないですけど、一人の人間を、学校の生徒全員で、その……こんなふうにするのなんて、おかしいです」
周囲の囁き声よりも小さな声で、しかし噛み締めるような口調で新田は言い、それからその臆病そうな目を上げて、じっと市子を見つめる。
「多部さんも……そう思うんですよね?」
「ん? んー……まあ、そうねぇ。でも、そこまで深刻に考えることはないんじゃない?」
「え? どうして……ですか?」
と、まるで裏切りを受けたような顔で新田は問い返す。
「わたし、友達から聞いたことがあります。多部さんって中学時代にも、こういう噂の真相を色々と突き止めてきたんですよね?『トマト事件』とか、『森の影事件』とか、『角田事件』とか、わたし、ぜんぶ聞いたんです」
「あー、懐かしいねぇ、トマト事件。トマト猫は今でも元気にしてるのかねぇ」
「あはは……いやいや、新田さん、それ全部、事件なんていうほどのもんじゃないよ。『角田事件』なんて、ただ市子が偶然、角田先生の財布を拾って、それで先生がアニメオタクなのを知ってただけなんだから」
「それでも、凄いと思いました。みんなが混乱したり笑って騒いでるのに、多部さんだけは冷静に色んなことを考えて……だから、きっと真希のことも、多部さんは――」
「大丈夫、大丈夫」
言葉に熱を込めて語る新田に、市子は気怠げに頬杖つきつつ言う。
「何も心配しなくたって、どうせみんなすぐ飽きちゃうわよ。人の噂も七十五日って言うし、こんな嘘っぱちなんて、みんなすぐに忘れちゃうものよ。怪談だか猥談だか知らないけれど、夏だからそういう話がしたいだけなのよ、みんな」
「まあ、そうなのかもしれないけど……でも、あんまり長引くようだと、生徒会としても放っておけないよな。ミサキもそう思う……」
だろ? と訊こうとしたが、つい今までミサキが立っていた場所には誰もいない。
見れば、いつの間にかミサキは窓際にある席の前に立って、いつの間にか教室へ来ていた少女――百合園アオイと、何やら神妙な顔で話し合っている。
「と、ともかく、いざとなったら生徒会でどうにかするからさ、安心してよ、新田さん」
「はい、すみません……」
――あたしがしっかりしないと。
生徒会員としても、また怪談が事実であると知る人間としても、自分は倉水というこの学校の生徒を守ってやらなければならない。
友を憂い、心細げに俯く新田を見下ろしながら、佳奈はそう決意を固めたのだった。




