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女子ノ聖域  作者: 茅原
多部市子の冒険
53/81

丑三つ時、始まりの目撃。(プロローグ)

 枕元のスマートフォンへ手を伸ばし、閏佳奈(うるう かな)は今の時刻を確認する。


 眩い画面に目を眇めながら見たその画面には、午前二時を少し過ぎた時刻が示されている。当然だが、いくら一年のうちでかなり日の出が早いこの季節でも、まだ辺りは深く闇の中に沈みきっている。


 この学校は森の奥深くの、小高い山の麓に建っているせいか、夏でも夜風はひんやりとして肌寒いから、真夏の少し手前である今の季節でも、寝る前にはしっかりと窓を閉め切っている。


 だから、同じ部屋の向こう側――本棚で仕切られた隣のスペースで眠っている多部市子(たべ いちこ)の微かな寝息さえも聞こえるほどに、世界のあらゆるものが眠りに就いたような静けさが部屋には満ちている。


 だが、澄んだ水に満たされたようなその静寂の中に、先ほどから妙な波紋が走っているのだった。


『ガァー』


 と、再び静寂が乱される。それから数秒の不気味な静けさを挟んで、また一つ、『ガァー』と、カラスがその慎みのない鳴き声を響かせる。


 一、二週間前から、夜中にカラスの鳴き声で目が覚めるということがしばしばあった。しかし、だからなんだというのだ。人の眠りを妨げるその傍若無人な鳴き声に、佳奈は思わず舌打ちをしながらタオルケットを頭まで引き上げたものだった。


 だが、『とある噂』を耳にしてしまってからは、まるで何かを叫んでいるようなその鳴き声が聞こえ出すと、濃い闇の澱んでいる部屋の隅や、ドアで仕切られたキッチンのほうから聞こえる――ような気のする微かな物音に、感覚を研ぎ澄まさずにはいられなくなってしまったのだった。


遠くで、またカラスが鳴いた。


 一体、どこでカラスは鳴いているのだろう? 噂の通りに、『あの部屋』の前で鳴いているのだろうか?


 怖くて、自分には確認できない。だが、ほとんど毎夜毎夜、こうして夜中に目を覚まして、一人でビクビクしながら息を潜めているのはもう懲り懲りだった。


 限界だ。佳奈はそっとベッドから起き出すと、思わず頭に来るほど健やかな寝息を立てているルームメイト――市子のもとへと向かった。


 ギシッと床を軋ませた自分の足音にまでビクリとしながら、穏やかな寝顔を天井へ向けて眠っている市子の枕元まで行って、闇よりも黒々とした長い髪で隠されたその肩を揺する。


「おい、市子、市子……」

「んぁ?」


 当たり前なのだが、市子はそのいつにも増して眠たげな、とろんとした目を微かに開けてこちらを一瞥し、しかしまたすぐに長い睫毛を伏せて、ゴロリとタオルケットの中でこちらへ背を向ける。


「何よ、佳奈……。まだ真っ暗じゃない……」 

「い、いや、そうなんだけど……カ、カラスが鳴いてるんだよ」

「だから何よ」


 こちらへ背を向けて目を瞑ったまま、やや苛立たしげに市子は言う。


「別に、それでどうしたってわけじゃないんだけどさ……ここしばらく、ずっと夜中に鳴いてるから……」

「知らないわよ、そんなこと……。カラスなんて、どーでもいいじゃない……」


 そう言い終えるか、市子の口からは再び静かな寝息が漏れ始める。また一つカラスが鳴くが、それにもまるでお構いなしである。


だが、このふてぶてしいまでに堂々とした寝姿を見ていると、不思議に勇気が湧き出てきた。


 本当にカラスが『あの部屋』に集まっているのか、確かめてやろうじゃないか。半ばやけっぱちになったように、そんな気がムクムクと佳奈の胸に湧き起こってきたのだった。


 ――よし……!


 意を決して、佳奈は市子の学習机の前に立った。


 カーテンをそっと開くと、そこには月も星々も見えない、暗い夜がある。


 やっぱりよしておこうかという考えがチラと頭をよぎるが、動き出した好奇心はなかなか止まらない。


 恐る恐ると手を伸ばし、両開きの窓の右片側をそっと押し開ける。そして、机の上に俯せになるようにしながら窓の外へと顔を出し、『あの部屋』――寮の一階、南側の角部屋を覗き込む。


 すると、前庭の路地沿いに置かれている外灯では照らしきれていない、その角部屋の前あたりで、小さな何かが、二つ三つ、飛び跳ねるようにして動いているのが見えた。


『ガァ』


 と、壁を伝うようにして、やはりそこからカラスの鳴き声が響いてくる。


 ――やっぱり、噂は本当だったんだ……!


 自分以外にも、窓から顔を出してその部屋のほうを見ている人が数人いるのを見回しながら、首もとからシャツの隙間に入り込んでくる夜気のためだけではなく寒気を覚えて、佳奈は窓から頭を引っ込める。と、


「え? ど、どこに行くのさ、市子」


 いつの間にかベッドから起き上がっていた市子が、まるで誰かに呼ばれているように滑らかな足取りで部屋を出て行こうとしている。市子は玄関へと向かう扉を開きながら言う。


「カラスがうるさいから、石でも投げてきてやるわ。こんな時間にガーガーガーガー……人間様を舐めきったカラス共に、この市子様が直々に鉄槌を下してやろうじゃない」

「やめろって、バカ!」


 キャミソールとホットパンツという、その格好で部屋から出て行こうとしているらしいことにも慌てて佳奈は市子を引き止め、その腰を抱きかかえてベッドのほうへ引き戻す。


「わ、解った! もうあたしも寝るから! 窓も閉めるから!」

「……そう」


遠い目で前方を見つめたまま市子は扉を静かに閉め、右回れをしてベッドへ戻ると、そのままタオルケットの中へ身体を滑り込ませた。


「はぁ……」


 怖いもの知らずの市子のせいで、なぜか自分がヒヤヒヤさせられてしまった。これ以上、市子の眠りを妨げては、本当に外へ飛び出して行きかねないから、佳奈は開け放していた窓を閉めるべく、再びその前に立った。と、


「……え?」


 学校の周囲を囲む森の中で、キラリと何かが光ったのが見えた。


 見間違いかと思ったが、そうではない。やや黄色がかった、小さな二つの輝き――それらは時おり明滅しながら、ゆっくりとではあるが確かに、南の方角へと向かって木々の中を動いていた。


まるでこちらを睨むようにしながら、前庭の外に広がる森の中を漂っているその燐光を目にして、佳奈はしばし呆然としていたが、


『ウォォォォォォォン……』


 という、どこか悲しげな、しかし腹の奥まで響いてくるような遠吠えを耳にしてしまった瞬間、全身が泡立つような悪寒を覚えながら、弾かれたような勢いで市子へ駆け寄った。


「市子っ! おい! 起きろって、市子! オオカミだっ、あそこにオオカミがいるぞ! 『あの怪談』はホントにホントだったん――」

「うるさい!」

「あいたっ!」


 跳ね起きてその振り向きざまに、市子は佳奈の頭に容赦のないチョップを振り下ろした。


 視界が縦に震動するほどの衝撃が頭蓋骨を突き抜け、熱いような痛みがジンと染み渡る頭のてっぺんを抑えながら佳奈は屈み込むが、市子はまたすぐベッドに横になってこちらへ背を向ける。


「オオカミなんて、もう日本にいないでしょ。バカなこと言ってないで、さっさと寝なさい。お母さんも、そろそろ怒るわよ」

「誰がお母さんだよ……。い、いや、でも、違うんだよ、市子。今、ホントにあたしは……」

「『でも』も何もないってば……」


深く溜息混じりに言って、市子はのそりとこちら側へ顔を向ける。薄目を開けてこちらを睨み、


「あなたは下に三人も弟妹がいるんでしょ……? こんなことで夜中に大騒ぎしてたら、その子たちに笑われちゃうわよ……」


 妹がいようがなんだろうが、怖いものは怖い。しかも、自分は現に今、見てはいけないものを見てしまったのだ。学校に昔から伝わる怪談が事実であることを、この身をもって体験してしまったのだ。


 そう訴えたかったが、市子はもうすやすやと寝息を立てて眠りに落ちている。次に起こせば、寝惚けて手加減も忘れた跳び蹴りの一つでも飛んでくるだろう。


それもまた、いま目にした怪現象と同じくらいに怖いので、佳奈はまるで行き場を失ったようにその場で立ち尽くすほかなかった。


 ――あの怪談、ホントだったんだ……。


カーテンを閉めたいが、怖くて窓に寄ることができない。目が冴えきって、到底ねむれそうにもない。


 どうしようかとオロオロしていると、丑三つ時の静寂に、再びカラスの鳴き声が響き渡った。


 背に腹は代えられない。佳奈は市子の足元からそのベッドへそっと滑り込み、柔らかく温かい市子の背中と壁との隙間で、じっと息を潜めた。


 市子の長い髪から漂う、佳奈が好きな市子の匂い――バニラ系の甘い匂いのせいで、余計に胸がドキドキして眠れる気がしない。


 それでも、市子のなで肩にそっと手を添えて目を瞑っていると、いつの間にか佳奈は眠りに落ちていたのだった。

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