夏が来る。
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「昨日はありがとうございました、椿さん」
「いえ、私も楽しかったわ。あなたと一緒にお菓子を作るのは久しぶりだったし、それになんだか不思議な緊張感もあって、新鮮だったわ」
洋菓子クラブ部室の窓から見える、昨日とは打って変わって眩しく青い空を見やりながら椿は微笑み、朝霧のように輝く湯気を立てる紅茶へ口をつける。
確かに、昨日は本当に、まるでクリスマスのパティシエのように忙しかった。
椿の淹れてくれたカモミールの紅茶――リンゴのようにフルーティで優しい香りのする紅茶を、苦笑を浮かべつつシノが口へ含むと、椿が横目にこちらを見て尋ねてきた。
「それで? もちろん百合園さんには喜んでケーキを食べていただけたのよね?」
「ええ、それはもちろん。食べきれずに少し残した物も、けさ朝食から帰ってきた後に、デザートと言って食べてくれていました。椿さんにも、ありがとうと伝えてくださいと」
そう。と椿は満更でもなさそうな顔をして、その照れた顔を隠そうとするように再びカップを口元へ運んでから、小さく嘆息をした。
「喜んでいただけたのなら、こちらとしても幸いなのだけど……それで、あなたはどうするのかしら?」
どうするの、とは? 椿の言わんとすることを掴みかねてシノは小首を傾げたが、すぐに理解した。
「わたしとアオイさんの相部屋のこと、でしょうか?」
「ええ。どうするのか、あなたも少しは考えてみたんでしょう? ところで、今日はちゃんと眠れたの?」
「はい、今日はよく眠れました。昨日は疲れていましたから、朝までぐっすりと」
「そ、そう。それはよかったわね」
こちらの図太さに呆れるように椿は口元をヒクつかせ、シノはそんな椿の顔がおかしくて、思わず少し笑ってしまう。
男性と共同生活を送っているこちらのことを、椿は本当に心配してくれているのだろう。それは解るのだが、まるで我が娘を心配する親のようにワソワとしているところが、こちらからすると滑稽に見えてしまう。
そして、その不安げな面持ちは、昨夜目にしたアオイの顔とどこか似ているのだった。
「なんとなく……ですけど、アオイさんは何かを感じ取っていたような気がするんです」
「『何か』?」
「部屋を別にするのがよいのではないかと、そうわたしから言われるんじゃないかと不安がっていたような……そんな顔をしていた気がするんです。昨日の夜、わたしがケーキをプレゼントするまでは」
ふぅん。と椿は唇を尖らすようにしながら鼻を鳴らし、
「まあ、彼女も女子力の使い手だったわけだし、女の勘というか……そういうものが、まだ残っているのかもしれないわね。それで? つまりあなたは、百合園さんの可哀想な顔を見て、これからも情け深く相部屋を続けてあげようと思ったと、そういうことかしら?」
「いえ、そういうわけではありません。第一、わたしは彼女との相部屋を解消したいなんて思っていませんでしたから。椿さんに言われて、少しは迷いましたけど」
「……ふふっ。そう」
椿はやや意外そうな顔をしてから苦笑して、シノもそれに苦笑を返す。
紅茶のカップに手を添え、そのしみじみとした温かさを感じながら、陽光を受けてきらきらと金色に輝くその波紋を見つめる。
「椿さんに言われて……わたし、考えてみたんです。二十年後、三十年後……自分がすっかり大人になってしまってから、ふと今のわたしたちのことを振り返るというか……そういう時が来た時のことを」
「二十年後、三十年後?」
「はい。そういう時がいつか来たとして……きっとその時のわたしは、今この時、たくさんの時間をアオイさんと共に過ごせたことを嬉しく感じるんではないかと……そう思ったんです」
「それって……ひょっとしてノロケかしら?」
「はい。ひょっとして、そうかもしれません」
椿を真っ直ぐに見返しながら真剣にそう言って――それから、二人同時に噴き出した。
椿はテーブルに片肘をつき、その手に顎を載せて呆れ顔でこちらを見る。
「あなた、やっぱり変態よ」
「変態じゃありません。人を変態と言う椿さんこそ変態です」
「あら、言うじゃない。でも、なんだかどこかで聞いた憶えのあるような言葉ね。誰かの旦那様が仰っていたことだったかしら?」
「まあ。そんなはしたないことを言うなんて、恥ずかしい。一体どなたの旦那様なのでしょう」
「ぷっ。あははっ」
と、椿が珍しく大きく口を開けて笑い、
「もう、やめなさいよ、シノ。あなた、顔が真っ赤よ?」
「つ、椿さんが言わせるからじゃありませんか……! こんな会話、アオイさんには聞かせられません。聞かれたら、恥ずかしくて死んでしまいます」
まあ、それは大変。と言いながら、椿もまた顔を朱くしながら笑う。その笑顔を見て、シノもつられて笑ってしまう。
もうじきに夏が来る。大きな入道雲を引き連れたそんな青空が、突き抜けるように窓の外には広がっていた。
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