レイニー・サークル。
茅屋の雨とはかくのごとく、外には静かな雨が降り続き、部屋の中には暖房が入れられていてじんわりと暖かい。
なんだか眠くなって来た。そう思っているうちに、案外深く眠りに就いてしまっていたらしく、ふと瞼を開けると部屋の中はほとんど夜のような薄闇に包まれていた。
暗くて、机上の時計もよく見えない。昼寝後の重たい身体を起こして机の明かりを灯し、あと数分で五時になりかけている時計の針を見つつ、どっかと椅子に腰かける。
――シノさん、やっぱりまだ帰ってきてないか……。
一つ大あくびをしながら背伸びをして、
――そういえば、ミサキちゃんが遊びに来いって言ってたな……。いや、でも、部屋の鍵は俺が持ってて、シノさんはたぶんあと三十分くらいでここに帰ってくるし……。
机の上で組んだ腕に頭を載せながらぼんやりと考えて、ふと、英語表現の宿題が中々のボリュームで出されていたことを思い出す。
どうせ何もすることがないんだから、こういう時にやっておこうか。そう決めて、まずは頭から眠気を振り払うために紅茶でも飲むことにする。
キッチンへと向かい、その上にある棚からシノが綺麗に洗ってしまってあるヤカンを取り出し、それに冷水を注ぎ込んで、ガスコンロに置く。一度、二度と点火に失敗するが、三度目でボッと音を立てて火が点く。
「…………」
――静かだな。
ヤカンの注ぎ口から湯気が立ち出すのを壁に寄りかかって待ちつつ、アオイは寝惚け頭のままぼーっと立ち尽くす。
人の話し声も、足音さえも聞こえない。
ヤカンの外面を伝って落ちた水滴が、ジュッと火に当たって蒸発するのを見ていると、やがて煙突から上がる白煙のような湯気が、ヤカンの注ぎ口からうっすらと立ちだしたのでコンロの火を止める。
そういえば、カップの準備を忘れていた。今更そう気づいて、蛇口上にある小棚に伏せられているカップを取って、カップの横に置かれている茶葉の缶も手に持ったが、
「…………」
――これ、どうやって淹れるんだ?
しばし黙考してしかし、『よく解らん、というか面倒くさい』という結論に至って、湯の入ったカップを持って机に戻った。
まるでこの先一年は降り続きそうなほど、雨はひたすらしとしとと校舎を、周囲の山々を濡らしている。
暗い鉛色が濃淡もなく空を埋め尽くし、その雲の中へ黒々とした山の頭が微かに入り、その稜線を墨が滲んだようにぼやけさせている。
部屋の中は暖かいが、見ているだけで寒々しくなってくるそんな景色から目を逸らすようにアオイは小豆色のカーテンを閉じ、机の椅子に腰を下ろす。
当然だが、ただ熱いだけで風味も何もないお湯を飲み、机の脇に置いていた鞄から英語表現の教科書とノート、ワークブックを取り出して、勉強に取りかかる。
取りかかって、参考書と辞書を開いて矯めつ眇めつしながら懸命にワークブックの答えをノートに羅列していくが、頭の中では、
――シノさん、今日の夕食には何が出るって言ってたっけ?
などということを、何気なしに考えていた。
すると窓の外から、ふと車のエンジン音が聞こえてきた。時計を見ると、時刻はもう午後五時半を少し過ぎている。
街からのバスが帰ってきたのだろう。ということは、シノもまた帰ってくるということだ。
帰ってきたからと言って特に用事があるわけではないのだが、そう思いつつワークの答えを黙々とノートに並べていき、
――あれ?
と思いつつ目を上げると、いつの間にか、既に五時四十五分、つまり夕食十五分前になっている。
――もうこんな時間だ。食堂に行かないと。っていうか、シノさん帰ってきてないぞ?
と思った矢先だった。鍵を開けっ放しにしていた玄関の扉がガチャッと大きな音を立てて開けられ、それから誰かが小走りに部屋へと上がってきて、この部屋の扉を開けた。シノである。
「す、すみません、アオイさん、遅れてしまって……! では、夕食へ行きましょうか……!」
百メートルを全力で走ってきたように息を切らせているシノに唖然としながらもアオイは頷き、シノと共に部屋を出る。
部屋に施錠をして、鍵をシノに渡しつつ人の波に乗って歩き出す。
「シノさん、街に行っていたんですよね? 椿さんと」
えっ? とシノはやけに驚いた顔でこちらを見上げ、
「え、ええ、そうですが……どうして知ってるんですか?」
まだやや乱れている息と黒髪を整えつつ問い返してくる。
「友達から聞いたんです。椿さんとバス停のほうに歩いて行った、って。今も、椿さんの部屋に行っていたんですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
そういうわけではなく、なんなのだろう。何やら奥歯に物が挟まったよう言葉を途切れさせ、シノはそれきりじっと口を閉じてしまう。
あまり質問をされたくないのか、シノの足はいつもより少し早足で、食堂に着いても言葉少なだった。
自らのトレイにマカロニグラタンやコンソメの野菜スープを載せていく時も、シノらしくなくただ淡々とそれを受け取って、自らの席へと向かっていく。
昼頃にも増して様子がおかしい。もしかして、とアオイは尋ねる。
「あの、シノさん……? 椿さんと、何かあったんですか?」
「椿さんと? いえ、何もありませんよ」
別に嘘を吐いている様子はない。食欲がないわけでもないらしく、箸やスプーンの動く速度はいつもよりむしろ速いくらいだ。
しかし、やはりどういうわけか、こちらへ話しかけては来ない。どことなく、こちらを見ることさえ避けようとしているような気がする。
妙な不安がアオイの胸を締めつけ、アオイはその焦燥感から努めて明るく口を開く。
「椿さんと、どういう所に遊びに行ってきたんですか? カラオケとか、ですか? 楽しかったですか?」
「カラオケ? いえ、そんな所には行っていませんよ」
シノは食器を持ってコンソメスープを飲み干してから、ちらりとだけこちらを見る。
「というか、ちょっと買い物をして、すぐに帰ってきましたから。わたしも椿さんも、人が多い所があまり好きではないので」
「そうなんですか? じゃあ、どうして部屋に帰ってくるのがあんなに遅く――」
「すみません、アオイさん」
ごちそうさま、とシノは手を合わせ、ポケットから部屋の鍵を出してアオイに無理やり手渡してから、自らのトレイを持って立ち上がる。
「わたし、まだこれからちょっとだけ用事があるので、行きますね。お話は、また後でゆっくりと」
まくし立てるようにそう言って、本当に一人で先に行ってしまう。
その背中を目で追っていると、シノは食器返却口のほうへ行く途中に、どうやら椿に声をかけて早く食べろと急かしているようだ。程なく椿も周囲より一足早く腰を上げて、一緒に食堂を出て行く。
アオイはまたも、賑やかな食堂の孤島となった。




