雨の臭い、別れの予感。
ひょっとしてシノは、自分が遊びに誘おうとした気配を察知して、それで急いで逃げたんじゃないだろうか。
食堂から部屋へと帰って、することもなく机の前に座りながら、雨音もなく寂しげに濡れそぼる外の景色を眺めていると、ふとそんな考えが頭をよぎった。だが、
「いや違う。ちょっと待て」
アオイは勢いよく椅子から立ち上がって、その不安を振り解こうと小さな円を描いて部屋の中を歩き回る。
――まだそう思い込むのは早いだろ。ちゃんとシノさんを遊びに誘う。落ち込むのも何するのも、話はまずそれからだ! 男らしくないぞ、俺!
うむ。部屋の隅っこに追いやられながらも、確かにそこで自分の出番を待ち続けている漢・アオイと頷き合い、アオイはジャージを脱ぎ捨て再び制服へと着替え直した。
携帯電話で連絡ができれば楽なのだが、生憎シノはそれを持っていない。だから、とにかく足でシノを捜すしかないのだった。
だが、きっとシノと会うのはそう難しいことではない。シノが向かう所はおおよそ限られている。そのうち最もシノが足繁く通っている場所である洋菓子クラブ部室へと、アオイはまず足を向けた。
寮内には、友人らと一緒に歩いている私服姿の生徒が少なからず歩いている。その手に手には、色とりどりの傘が握られている。おそらく、これから街へと遊びに行くのだろう。
アオイはそんな人の流れに逆行して、玄関ではなく部室棟へと続く裏口へと向かって歩き、吹きさらしの渡り廊下を生臭い雨の臭いを嗅ぎながら通り、靴脱ぎ場で外靴を脱ぎ、下駄箱に整然と並べられているスリッパに履き替えてから部室棟へと上がった。
スリッパがペタペタと床を打つ音が、やけに冴え冴えと響き渡る。
遠くから人の声は聞こえてくるがそれもわずかで、人とすれ違うこともない。
どこか不気味でさえあるほどひと気がなく薄暗い部室棟を三階まで上り、雑草が伸び盛って池も緑色に濁った、いつにも増して陰気な中庭を見下ろしながら『洋菓子クラブ』部室の前に立つ。
さて、と心の準備をしてから、木の扉にノックをする。ノックをしてから、
「失礼します」
ドアノブを捻る。が、
「ん? あ、あれ?」
ドアノブが回らない。二度、三度と繰り返してみるが、やはり同じである。
――珍しいな。鍵がかかってるってことは、椿さんもいないのか……。
ここじゃなかったか。第一の捜索ポイントのアテが外れて、アオイは徒労感に溜息をつきながら来た道を折り返す。
明け方のように静かな部室棟を出て寮へと戻り、第二の捜索ポイントである椿の部屋へと向かってみる。
椿の部屋は二階にある。
午後のバス第一便が発ったせいか、先程までと打って変わり、寮内もまた部室棟と同様ひっそりと静まり返っている。
まるで嵐で外界と隔絶された山深くの洋館にいるような雰囲気に寒気を感じつつ階段を上っていると、
「アオイちゃん」
ふと、階下から声をかけられた。
見ると、そこにはミサキ、佳奈、市子の姿がある。購買へ行ってきた帰りなのか、三人とも小さな白いビニール袋をぷらぷらと片手に提げている。
花柄をした半袖のトップスにオーバーオールという服装のミサキが、階段を軽快に上ってアオイのいる踊り場までやってきながら言った。
「アオイちゃん、これから何か用事でもある? ないなら、あの……わたしの部屋に、来ない?」
「ミサキちゃんの部屋に?」
「うん。これからね、みんなでわたしの部屋に集まるんだけど……」
「そうなんだ。うーん……私は――ひぃっ!?」
「えー? どうして? いいじゃない、みんなで楽しいコトしようよ、アオイちゃん」
いつの間にか背後に回っていた市子が、アオイの耳に吐息を吹きかけながら囁き、その右手でアオイの尻を下から撫で上げる。
「なな、何するの、市子ちゃん!?」
「どうしたの? いいじゃない、別に。だって女の子どうしなんだから」
そうだよね? と、市子はそのやや垂れた優しい目に、怪しげな光を宿しながら微笑む。と、
「コラ。あんまりアオイを困らせるなって、カワイソーに。ていうか、お尻を触るなよ」
白いブラウスの上に真っ赤なフードつきパーカー、デニムパンツという装いの佳奈が、ビニール袋を肩に担ぐようにしながら踊り場まで上がってきて、苦笑するようにアオイに笑みかける。
「なんか用事があるなら無理しなくてもいいよ。でも、アオイも暇になったら来なよ。別に、ただ喋ったりしてるだけだけどさ」
うん、とアオイは頷いて、それからふと三人に尋ねてみた。
「ところで、みんなに訊きたいんだけど、どこかでシノさん、見なかった?」
「希司さん? いや、あたしは見てないけど……」
と佳奈はちょっと首を傾げ、ミサキと市子へ目を向ける。ミサキはふるふると首を振り、
「わたしも、見てないよ。どうしたの? 希司さんがいなくて部屋に入れない、とか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「私、さっき見たけど、希司さん」
と、黒とグレーのストライプ柄のロングTシャツに、藍色のチノパンというラフな服に身を包んだ市子が、手を後ろに組みながら平坦に言う。
「さっきみんなでコンビニのほうに歩いてた時、なんとなく後ろを見たら、希司さんが宮首さんと一緒に歩いてたよ? 玄関のほうに曲がっていったから、二人で街にでも行くのかなって思ったけど……アオイちゃん、何も聞かされてないの?」
「宮首さんと……。そっか。そうなんだ」
――なるほど。シノさんは友達と二人で出かけたかったのか。だから、俺が誘おうとしたら逃げたんだ。
そう解ってがっかりしたような、しかし行方が解って安心したような、どちらともつかない気分でアオイは納得し、後で遊びに行くかもしれないと言って三人と別れ、自室へと向かった。
すると、アオイの部屋の扉に寄りかかるようにして、誰かが廊下に立っているのが見えた。
いや、誰かではない。遠目からでも、それが誰なのかはすぐに解る。
まるで外国の映画女優のようなセクシーな体つきと、それを誇示するような、ほとんど水着と変わらない布面積の迷彩服。炎のようにふわりとウェーブした、赤茶色の長い髪。
大きく盛り上がった胸の双丘の下で腕を組みながら、眠るようにじっと目を伏せていたその女教師――五百雀火恋、通称『軍曹』は、アオイの足音に目を上げると、ぐっと眉間に力を込めながらアオイを睨んだ。
「どうした? 希司は一緒じゃないのか?」
「シノさん? シノさんに用ですか?」
「いや、用があるわけではないのだが……」
と、軍曹は鋭くしていた目を急に不安げにさせながら伏せる。なんだろうと訝りつつ、
「シノさんは、椿さんと街に遊びに行ったみたいですよ。だから、五時半まで帰ってこないと思います」
街からこの菫山女子高等学校へ帰ってくるバスは、夕食時間三十分前のものが最終便で、街へ出かけた生徒の大半はそれに乗って帰ってくる。だから、きっとシノと椿もそれで帰ってくるのだろう。
未成年には買うことのできない雑誌の表紙を飾っていそうな格好をしてはいるが、五百雀はれっきとしたこの学校の女教師だ。そんなことは解り切っているだろうから、皆まで説明せずアオイがそう言うと、
「……そうか」
五百雀は天井の吊り電灯へ目をやって、少し考えるような顔をしてから、
「それならいい。いや、ちょっと希司の様子を見に来ただけなんだ。宮首が一緒なら、まあ大丈夫だろう」
そう言って用は済んだとばかりに、バスケットボール二つを並べたような大きく弾む尻を震わせながら、スタスタとどこかへ去っていった。
――五百雀先生も、宮首さんも……みんな、シノさんを気に懸けてるんだ。
『自分が一人でシノを守っているんだ。シノの味方は自分だけなんだ』
そう意気込むのはもう間違っている。それはもう薄々と解っていた。解っていたが、どこか認めたくなかったそのことについて、もっとよく考えるべき時が来たのかもしれない。
親離れしていく子を見送る親は、こんな気持ちなのかなぁ。
などということを思わず考えてしまいながら部屋へと入り、ジャージへと着替えてから、歩き回って疲れた身体をベッドに投げ出した。




