感謝の気持ちと……。
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「あら? あなた、一人でいらっしゃったの?」
洋菓子クラブの扉を押し開くと、部屋の真ん中にポツンと置かれた丸テーブルの前に座っていた椿が、ティーカップを下ろしてこちらを向いた。
部室内にも、既に明かりが灯されている。以前は卓上や壁の燭台だけが明かりという薄暗い部室であったこの部屋も、今は他の部屋と同様、天井の電灯がつけ直され、その暖色の電球の明かりで、部屋の中は暖かく柔らかな光に満ちている。
その光を金色の髪に受けながら、制服のスカートから伸びる細い足をゆったりと組んで座っている椿の隣へと歩き、
「はい、一人で来ました。今日はアオイさんはいません」
そう答えながら椿の隣席を引いて腰を下ろすと、椿はその人形のように小さな顔を今日の天気のように曇らせる。
「あなたは、そうあまり一人になるべきではなくってよ。女子力を取り戻すために、あなたの隙を狙っている人たちだって少なからずいるのだから。だから、なるべくカレ――ではなくて、彼女と一緒にいないと危ないわよ、本当に」
「ええ、それはもちろん解っているのですが……ところで、ユキさんは?」
尋ねると、椿は口元へ運びかけていたティーカップをコースターへ下ろし、
「……まだ、ダメね」
その長い睫毛を憂いげに伏せる。
「あの子、まだわたくしには会ってくれようとしないわ。おかげで、今日のお昼ご飯は抜きね。土曜日はいつもユキがここへ運んできてくれていたから、もしかしたら……と思っていたけれど」
「そうですか……」
「確かに、ユキはわたくしを騙していた。けれどね、わたくしは本当に怒ってなどいないのよ? ユキはわたくしの話を聞こうとはしてくれないけれど……でも、本当なの。だって、わたくしも等しく過ちを犯した人間だから……。わたくしの心の弱さが、あなたを、そしてユキを、苦しみへ引き込んでしまったのもまた事実なのだから……」
「椿さん……」
自分はこの学校の体制に戦いを挑み、自らの聖域を手に入れた。女子力のない、誰もが平等に笑い合える生活を手に入れた。
しかしその陰には、必ず涙を流している人がいる。世界が変わったことで傷ついてしまった人もいて、椿やユキもその一人であることに違いはないのだった。だが、
「いいえ、椿さん。きっと大丈夫です。時が彼女の心を癒してくれれば、また一緒にいられる日が来ると思います。椿さんがそうやってユキさんを心配しているように、きっとユキさんのほうでも椿さんを心配しているに違いないんですから」
「……そうね」
と、椿は眉間に皺を作って俯いたまま囁き、紅茶に手を伸ばして、一口それに口をつけると、肩から力が抜けたようにふわりと笑った。
「あなたがわたくしに対してそう信じ続けていてくれたから、わたくしたちは今こうしていられるのだものね。今度は、わたくしがユキを信じる番なのよね」
「ええ、ともかく何事も気長に、です」
アオイが自分に教えてくれた言葉を、シノは半ば自分自身に対しても言い聞かせる。
これは、自分にとっては思い出すだけで自然と口元に笑みが浮かんでしまう、魔法の言葉なのだった。
時にはせっかちで思い詰めてしまうこともある自分だったが、近頃そんな時には胸の裡でこの言葉を呟くようにしている。そうすれば自然と心が穏やかになり、落ち着いて考えることができるようになるのだった。
そして、この魔法の言葉の効果は、どうやら椿にもあるらしい。椿は穏やかな笑みを浮かべたまま小さく吐息を漏らし、表情だけではなく、その金色の巻き髪、はたまた纏う雰囲気までも、軽やかな色合いに変えながらこちらへ目を向ける。
「それで、今日は何を作るのかしら? わざわざそんな分厚い本を抱えてきて、まさかまだ決めていないというわけじゃないでしょうね?」
「いえ、もちろん決めています。今日は、その……甘さ控えめのチョコレートケーキを作りたいなと思っていまして……」
言いながら、シノはずっと膝の上に載せていた、図鑑のように分厚いレシピ本をドスンとテーブルに置いて、付箋を貼っておいたページを開いて見せる。
「甘さ控えめ? どうしたの、シノ? あなたにしては珍しいわね」
「え? そ、そうでしょうか……」
思わず椿から目を逸らしてしまいながら言うと、椿は鋭くもこれだけで全て悟ったように、
「ああ、ふぅん、そういうこと……」
白い犬歯を見せながらにたりと笑って、胸の前に垂れる巻き髪の下で、鷹揚に腕を組んだ。
「なるほどね。ええ、いいわよ。流石のこのわたくしでもウェデング・ケーキを作るのは初めてだけれど、あなたのためだもの、無論全力で取り組ませていただくわ」
「ウ、ウェデング・ケーキなんかじゃありません! そんなものではなくて、単なるアオイさんへの感謝の気持ちとして――」
はいはい、解っているわよ。と椿はあしらうように言い、レシピ本をずいっと自らへ引き寄せる。
「ノンビリしている暇なんてなくってよ。さっそく準備に取りかからないと。ええと、チョコホイップに、クルミ、スウィートチョコレート……街へ買いに行かなきゃいけない材料もあるようだし、それにわたくしの『金剛穿貫』も使えないんだもの。急がないと、時間が足りないわよ」
と、飲みかけの紅茶もそのままに椅子から腰を上げ、使命感に衝き動かされるような決然とした足取りで、洋菓子クラブの部室を出て行く。
どんよりと陰鬱な空模様のせいもあるが、もともと薄暗い部室棟の廊下を、シノは椿に遅れまいとせっせと歩きながら、全くの不意に、
「ふわぁ……」
と、大きなアクビをしてしまった。
「あら。暢気なものね。それとも、わたくしといるのは退屈ということかしら?」
「い、いえ、そういうことじゃ……!」
と、シノは思わず顔を熱くしながら首を振る。
「そうではくて、実は……この頃、よく眠れなくて……」
え? と、椿ははたと足を止め、なぜか妙に顔を朱くしながら、細い眉を顰めた苦々しい顔でこちらを見た。
「それは……もしかして、ノロケ話というものなのかしら。あなたたち、いくら許嫁だからといって、流石にそれはどうかと思うけれど……」
「ち、違います! 別に変な意味ではありません! 変な意味ではなくて、ただ、その……どうしても気になってしまって」
寝返りの音、トイレや水を飲みに起きた時の足音や、微かに聞こえる寝息。アオイの立てるそれらの音が、いちいちどうしても気になってしまう。
音がストレスになっているというのではない。しかしどういうわけか、眠りの底にいたはずの時でさえ、ゾクリとしながらその音に耳をそばだててしまう。
自分はアオイを信じている。信じているのに、不安でしょうがない。
それは『絶対聖域』という防御手段を失ってしまったせいもあるのかもしれないが、そうではないということを自分自身がよく知っている。
この不安は、要は自分に対する不安なのだった。自分で自分が何をしでかすか解らない、自分でも考えられないような想像が頭を満たし、自ら喜んで不安に震えているような気さえしてくる。
そんな、今まで感じたこともなかった自分がさらに不安になり、不安に不安が重なって眠れない。そういうことなのだった。
「そう」
板張りの廊下に再び足音を鳴らして歩き出しながら、椿がどこか呆れたような口調で言った。
「だったら、部屋を変えてもらうのがいいんじゃないかしら」
「え……?」
「だって、しょうがないじゃない。やっぱり、あなたと百合園さんは『違う』んだもの。あなたは健康な女なんだし、色々と思ってしまうのも当然よ。あなたたちは、別々の部屋でいるのが普通なのよ」
「……そう、かもしれませんね」
自分はおかしくない。そう言われてどこか安心しながらもしかし、シノは大きく頷くことはできなかった。
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