土曜日、雨降りの午後。
ノートを取っていた手を止めて、ふと黒板上の時計を見る。
時刻は既に正午を少し過ぎていて、間もなく授業終了の時刻だった。いつもは眠くなってしょうがない古典の授業も、土曜の半日授業の日だと不思議に集中できてしまう。
「こんなことなら、毎日、半日授業にしてくれればもっと効率よく勉強ができるのに」
程なく授業も、軍曹による簡潔な帰りのホームルームも終えると、アオイはそんなことを友人たち――中でも、最も勉強を忌み嫌っている市子と話し合いながら校舎を出る。
「わたしね、勉強が本当に嫌いなのよ。好きな科目なんて、一っつもないもの!」
長い黒髪に大人しそうな顔立ちという一見ごく真面目そうな市子が、慷慨憤激してそう熱く語っているのがなんだかおかしくて、アオイは佳奈とミサキと一緒になって笑った。
もう六月の初旬だというのに、いやに寒い日だった。
空はどんよりと厚く曇り、晩秋のような糸雨がしとしとと校舎を、校舎のすぐ傍を囲む山々を、冷たい薄もやの中に包み込んでいる。
身体の芯に凍み入るような冷気に腕をさすりつつ寮へと入ると、そこには既に暖房独特の少し油臭いニオイと暖かさがこもっていた。
まるで冬に逆戻りしたかのようだと思いつつ友人たちと別れて自室へと向かい、既に鍵の開いている扉を押し開けてそこへと入る。
「ただいまです、シノさん」
そう言いながら、玄関扉の先にもう一枚ある扉を押して、リビングにあたる部屋へと入ると、
「えっ? あ、お、おかえりなさい!」
部屋の左側、シノのスペースのほうから慌ただしい挨拶が返ってきた。直後に『バタン!』という、何かを打つような大きな音を立ててから、シノは小走りに本棚の影から姿を見せ、
「では、食堂へ行きましょうか」
落ちつかなさげにその真っ直な黒髪を撫でつけながら、パチパチと目をやけに瞬き、妙に明るい笑みを作ってそう言う。
「シノさん、私服に着替えないんですか?」
いつもは寮に帰ったらすぐに着替えているのに。部屋中央のテーブルに鞄を置きつつアオイが訊くと、
「あ、はい。今日はまだ、ちょっとこのままで……」
やはり、どこかそわそわと言う。
――なんだ?
親に黙って遊びに行こうとしている子供のような、シノがそんな落ち着かない顔をしているように見えて何か気に懸かるが、これ以上深く尋ねるのもなんなので、「そうですか」と会話を流して、自分は着替えてから食堂へ行くことにする。
親しき仲にも礼儀あり。
親しい間柄であるからこそ、注意して相手のプライベートは尊重するものだ。自分とシノには男女という違いもあるのだからなおのこと、不注意に『聖域』に踏み込んでしまわないように気を遣わねばならない。
楽しいことばかりではない。女性との共同生活というのは、中々に難しいものなのだ。
アオイはつくづくそう思いながら制服を脱ぎ、女性用下着とは別れを告げた己が肉体に赤いジャージを纏い、シノと共に食堂へ向かった。
食堂へと向かう生徒たちの流れに乗ってそこへと着くと、やかましいほどの賑やかさに出迎えられる。
シノがこの学校から女子力を消して、まだ少しばかりしか経っていないが、それによる変化は目に見えて出始めていた。周囲の席からは、
「これから街へ行って何を買おうか?」
というような話し声が、明るく楽しげに聞こえてくる。お互いが監視し合うように睨み合い、テーブルの料理も三秒で冷たくなってしまいそうな空気に満ちていた、つい数週間前までのここの風景が信じられないほどである。
シノが生徒会長となり、自分が副生徒会長となって、やったことと言えばまだ校舎裏の花壇の水やりくらいだったが、それでも今ここに溢れている笑顔は間違いなくシノと、ほんの少しは自分のおかげなのだ。
そう思うと、周りの笑顔を見ているだけで、アオイはなんだか嬉しいような、誇らしいような気持ちになってしまうのだった。
『美は力なり』
シノの美の力によって築き上げられたこの平和の時代に、アオイは心から満足していた。
しかし、友達と連れだって街へ遊びに行っている人の姿も増えるにつれて、アオイの心には密かにモヤモヤとした欲求が溜まりつつあった。
――羨ましい。
自分も、シノと一緒に出かけたい。そんな、下心に満ちた欲求である。
こんなに薄暗くて寒い雨の日だが、雨が降っている中を二人で歩くというのもまた絵になっていいじゃないか。
――よし、今日こそ……今日こそシノさんをデートに誘うぞ、俺!
垂れる黒髪を左手で押さえながら、一心不乱に焼きそばを啜っているシノの横顔を盗み見しつつ、アオイは決意した。親の敵のように熱くて飲めるものではない中華風卵とじスープをトレイに置き、
「あの、シノさん。よかったら今日、これから私たちも――」
「すみません。午後は少し用事があるので、わたしは先に行きますね。あ、鍵はアオイさんに預けますから、よろしくお願いします」
え? とアオイが面喰らっているうちに、シノは熱々のスープを平気な様子で黙々と口へ運び、マンゴー三切れを次々口に放り込み、そのままトレイを持って食堂のカウンターのほうへと歩き去っていってしまった。
――用事って……どんな用事だ? っていうか、食うの早いな!
いつもなら一つ一つの食材を愛撫するように味わい、幸せそうな顔をしながらそれがいかに美味であるかを解説してくるシノが、まるでトラック乗りのオヤジのごとき早食いを見せたことにアオイは戸惑い、戸惑っているうちにシノの姿は忽然と食堂から消えてしまっていたのだった。
賑やかな笑い声の中で、アオイはひとり寂しくズルズルと焼きそばを啜った。




