迷宮(ル・ミエル)。1
シノは一度アオイを見て、アオイが頷くのを見てから、そのドアをノックした。返事はない。もう一度、シノはアオイを見てから、慎重な様子で扉を押し開く。すると、
「ユキ? なんか用? 今読書をしているところだから、後でもいいかしら。……ん? どうしたの、ユキ? って!」
教室ふたつを並べたほど広々とした畳敷きのその部屋は、古びた六つの吊り電灯で明かりが採られている。
テレビ、エアコン、冷蔵庫、テーブル、ソファ。
家具一式と呼んでもいいほどの設備が、部屋の前方に密集するように揃っていて、それらに囲まれるようにしながら、部屋の最も奥の一段高くなった所には、壁の一面を占めるようにして大きな神棚がある。
家具や家電は畳の上に容赦なく直接、置かれており、久々原はそれらに囲まれながら、制服姿でソファに寝そべって漫画の単行本を開いている。どこを探しても、神棚に対する畏敬の念など見当たらない部屋なのだった。
アオイだけでなくシノも、まずは何より部屋の中の状況を確認するのが先と思ったようである。二人黙って部屋の中を見回していると、久々原は口に咥えていた磯辺焼き煎餅を落とすほど動揺を露わにしながら、バッとソファから立ち上がった。
「なっ、き、希司さん!? どうしてあなたがここに!?」
「……どうしますか、シノさん」
部屋の中を見回し、ユキがどこかに潜んでいるかもしれないと警戒しつつアオイは尋ねる。すると、シノは「しっ」と唇の前に右手の人差し指を立ててアオイを見る。
「な、なんなのよ! なんとか言いなさいよ、気持ち悪いわね! 早く出て行きなさい! 出て行かないと……!」
ツーサイドアップにした長い髪を振り乱すようにしながら、久々原は額に青筋立ててがなり立てる。それから、ふと思いついたようにテーブル上の携帯電話を取り上げ、電話をかけ始めた。
「ユキ! 今すぐ生徒会室に来るのよ! 反逆者が――希司さんが生徒会室へやって来たの!だから、ここに早く来なさい! 緊急事態よ、緊急事態!」
――本当だ。ユキさんがここへ来る、『そういうふうになっている』んだ。
シノの読みどおりにことが進むことに、アオイは驚きと感嘆の吐息を漏らす。電話を切った久々原が、ニヤリと勝ち誇ったように笑う。
「ふふっ。けれどまあ、よくもここが解ったものね。生徒会の幹部でもないのにここへ入ったのは、あなた方が初めてよ。だから、そのことは褒めてあげる。でも、うふっ、残念ながら無駄よ。わたしの記憶操作があなたには効かないとしても、それにあなたの女子力がどれだけ優れたものなのだとしても、所詮、数には勝てないわ。じきにユキがたくさんの仲間を連れてここへ来る。解るでしょう? もうあなた方の負けは決まっているの」
「シノさん……」
大丈夫なのか? 思わず不安になってアオイがシノの横顔を見ると、シノは久々原を見据えたまま、アオイの手をそっと握って言った。
「大丈夫です。わたしを信じてください」
その声は、覚悟を決めたように澄み切っている。アオイの手を握ったのも、どうやら自分も不安だったというためではなく、単純にアオイを気遣い、守ろうとしてのことのようだった。
「では、ユキさんが来るのを待たせていただいてもよいでしょうか?」
ふてぶてしい程に平然とシノは言う。
靴脱ぎ場で靴を脱ぎ、その靴をぴしりと揃えてから、畳の上へ上がっていく。アオイも手を引かれてついていき、持て余したように広く放置されているスペースにシノと並んで正座する。
久々原はそんなこちらの行動を、大いに侮辱と感じたらしい。顔を真っ赤にして、ものも言えなくなるほど頭に来た様子でわなわなと立ち尽くす。
シノはそんな久々原と、端然と正座しながら静かに見つめ合っている。それはまさに女と女の意地のぶつかり合いというべきもので、女になってたった数日のアオイが割って入ることのできるものではないのだった。
ユキさん、早く来てくれ。そんなことまで思ってしまうほど背中に冷や汗を掻いていると、ふと背後の扉が静かに開かれた。
フッ、とこちらを見て苦笑しながら、そこに姿を現したユキは部屋の中へと足を踏み入れる。カシャンと扉に鍵をかけてから靴を脱ぎ、悠然と畳へ上がる。
「理事長が君達をここへ通したということは、生徒会長が本当は誰なのか、知っているということだね。しかし、いつから気づいていたんだい?」
「つい、さっきです」
シノはアオイと共に立ち上がり、アオイを守るようにその前に立つ。
「わたしもずっと騙されていました。あなたの女子力によってではなく、単純に、あなたの策によって」
「ということは、今しがた誰かから私の正体を聞いたということかな? いったい誰だろう。私の記憶操作――『甘き迷宮』をすり抜けていた子は」
「何を言っているの、ユキ?」
と、シノとユキの会話をポカンとして聞いていた久々原が声を上げた。
「よく解らないことを喋っていていないで、さっさとその二人をここから叩き出しなさい! そして二度とここへ来られないように――」
「黙れ、人形」
と、冷然とユキは久々原を睨みつけて、
「お前はただの人形だ。何も見えないし、何も聞こえないし、何も言えない。何も覚えていないし、何も感じない。ただ床に転がっているだけの、一つの人形だ」
そう言うと、久々原はまるで魂を抜かれたように、目を開いたままソファの上へ倒れ、そのまま人形のように動かなくなった。
「久々原さんは、本当に女子能力者じゃなかったのか……」
「もう知っていたんじゃなかったのかい?」
驚いたアオイに、ユキは休めのポーズをするように背後で腕を組みながら平然と微笑む。その飄々とした様子が、なぜか堪らなく恐ろしい。まるでこちらの弱みを既に握られているような感覚を抱いてしまいながら、アオイは訊き返す。
「でも、もし本当に彼女がその記憶操作の女子力の持ち主じゃなかったとしたら、なんらかの疑問は抱くはずじゃ……」
「いいや、そういう心配はないよ。私のいない所でそれを使おうと思えないように、ちゃんと毎晩、躾けてあるからね」
人を人として扱わないことになんの罪悪感も感じないというようにユキは鼻を高くし、そんなユキと対峙しながらシノは言う。
「ですが、解りません。あなたがその身を守るため、偽の生徒会長を仕立て上げたことは理解できます。しかし、なぜアントとして椿さんに仕える必要があるのですか?」
「ん? それは当然、私が椿様のお側にいさせていただきたいからさ。それ以外、なんの理由もないよ。というか、私が生徒会長になったのもそのためだ。希司、お前よりも椿様のお側にいるためには、そうするしかなかったんだ」
「どういうことですか?」
シノが怪訝そうに返すと、ユキは失笑を漏らすように笑う。
「全く、その鈍感さに腹が立つんだよ、希司。なあ、お前は露ほども知らないだろう? お前のせいで、私が身を裂かれるような孤独を味わっていたということを」
「孤独を……わたしのせいで?」
「ああ、そうだ。お前が現れる前までは、私が椿様の親友だったんだ。中等部に途中から編入して、しかもフランス人とのハーフという理由で周囲に受け入れてもらえず孤独だった私に、椿様だけがいつも親切にしてくださった。
誰もが私を遠巻きに見る中で、椿様だけが私に話しかけてくださり、何か困っていれば、心の声が届いたように助けに来てくださった。
それだけでなく、クラブ活動へも誘ってくださった。そうさ、椿様はお前にしたこととほとんど同じことを、私にもしてくださっていたんだ」
全く知らない事実であったのか、シノは言葉を失った様子で、のめり込むようにユキの話に聞き入っていた。ユキはそんなシノを見て気をよくしたように、滑らかに語る。
「私と椿様はどんな時にも一緒で、それは高等部へ進んでからも何ひとつとして変わりなかった。だが――お前が現れてからだ、全てが一変したのは。椿様はお前と知り合って以来、まるで死にかけの捨て犬でも拾ったかのように、お前にばかり気を懸けるようになった。私にはほとんど見向きもしなくなり、お前とばかり過ごすようになった。
だから私は、この女子力を身につけたんだ。学業もそっちのけで催眠術を学び、同時に美しさも磨いて、それを女子力にまで昇華させた。身につけた『甘き迷宮』を使い、前生徒会長を名もないアントに引きずり下ろした。
そうして私が生徒会長となり、目を見るだけで相手の記憶を操作する力を得た。そのおかげで、私はまた無事に椿様のお側にいることができるようになったのだ。椿様に、お仕置きをしていただけるようになったのだ!」
「…………」
それは違うだろ。硬く拳を握って勝ち鬨を上げるユキにアオイが苦笑すると、ユキは目ざとくそれを見つけ、自らの悲劇に酔いしれるように微笑むのだった。
「哀れと思うかい? なら、希司、お前がここから出て行ってくれさえすれば全て済むんだ。お前さえいなくなれば、私ももうこの女子力を使う必要がなくなるかもしれない。だって、私が大切に思うのは椿様だけで、生徒会長なんていう地位にはまるで興味がないんだから」
「わたしが、いなくなれば……?」
「そうだよ。お前が意地を張らずにさっさとここを出て行ってくれていれば、ここも今よりずっと過ごしやすい場所になっていたはずなんだ。つまり、今この学校が、互いが互いを憎み合うような場所になってしまっているのは、全てお前のせいなんだよ。皆を苦しめているのは、結局お前なんだ」
まるで優しく諭すようにユキは言い、シノはそれに返す言葉を見つけられないように沈黙した。
――いや、違う。これは全くの、くだらない詭弁だ。
アオイはそう感じて、シノの肩に手を触れた。だが、それと同時、
「え? シノさん?」
不意に、シノがユキのほうへと歩み出した。まるで夢遊病患者のようにふらふらと、だが一直線にユキのほうへと歩いて行き、その隣に並ぶと、虚ろな目でこちらを向いた。
「う、嘘ですよね? そんな、あっさり……」
だしぬけに訪れた絶望に、アオイは言葉を失う。呆然とユキを見て、しかし慌てて目を伏せる。すると、ユキは場違いなほど無邪気に笑った。
「あははっ。全く、本当にくだらないくらいにあっさりしたものだね。これだけのことをするのに、なんとも長い時間がかかってしまったというのに」




