聖域の核へ。
――そうか。そういうことだったのか。
これまでにあったあの目眩も、そういうことだったのだ。あれは別に頭部を蹴られたことが原因の目眩ではなく、女子力によるものだったのだ。自分の中にまだ微かに残っていたらしい男が抵抗をしてくれていなければ、きっと今ごろ自分も、シノをド変態と罵り嫌う人間になっていたことだろう。
なんて恐ろしいことだ。そう慄然としながらシノの半歩後ろを歩いていたアオイは、ふと疑問を感じて尋ねる。
「あれ、シノさん? 理事長室に行くんですか?」
「そうですよ」
「でも、彼女はあっちにいるんじゃ……?」
「いいえ、いいんです。むしろ、生徒会室でなければダメなのです。何より、あっちには椿さんもいます」
「そうですけど、でも……」
「問題ありません。間違いなく、彼女はこちらへ来ます。そういうふうになっているはずなんです」
そういうふうに? とハテナマークを頭上に浮かべるアオイに構わず、シノはその黒髪をマントのようにたなびかせながら、薄暗くなりつつある廊下をズンズンと進む。やがて辿り着いた理事長室の木製の扉を、躊躇いなくノックする。
「どうぞ」
と、すぐに室内から理事長の声が返ってきた。
失礼します、とシノは扉を押し開き、その中へと足を踏み入れる。アオイもその後に続くと、正面に大きな木の机があり、その向こうに大きな窓を背負って座っている理事長の姿があった。
理事長は机へ顔を向けながら目だけでこちらを見ると、眼鏡の奥で鋭くしていた目をパッと明るくしながら顔を上げた。
「あら。意外なお客さんね。何か用かしら? 申し訳ないけど、まだ百合園さんの件については何も解っていないわ。一応、色々と調べてはいるのだけど」
「はい。それは、ありがとうございます。でも、今日はそれとは違う用件で来たんです」
今はそんなことについて話している場合ではない。そうアオイが率先して切り出し、傍らのシノを見やると、シノはその意を受けたように毅然と言った。
「理事長、どうか生徒会長に会わせてはもらえないでしょうか」
「生徒会長に……?」
理事長はその目を丸くする。だが、すぐにその表情の温度を下げ、職務中の淡々としたような目つきでシノを見据えた。
「ちなみに、生徒会長とは久々原さんのことかしら」
「いいえ」
シノは当然のように首を振る。
「ユキ・ラモリエールさんです」
先程、ミサキはこう言ったのだった。
『久々原さんは生徒会長じゃありません。みんなはそう思ってるみたいなんですけど……でも、違うんです。書類を見ても、それに生徒会名簿を見ても、生徒会長のところにはちゃんとユキ・ラモリエールさんの名前が書いてあるんです。なのに、みんなは久々原さんが生徒会長だって思っていて……』
ここまで来て、ミサキを信じないという道はない。だが、久々原が生徒会長であることを信じて疑いもしてこなかったのだから、どうしても不安が拭えない。
そして、それはシノも同じようだった。シノは理事長に面と向かってその名を断言したが、やはり不安らしい。その手は強く握り締められ、いつも以上に白くなっていた。
「……そう」
と理事長は溜息混じりに微笑み、両肘を机に載せ、その手を組む。
「こんなにも早く、そこまで辿り着いてしまったのね」
「お願いします、理事長。その扉……なんですよね? 私達に、そこを通らせてください」
心底、ホッとした。ホッとしながら、いよいよ戦いだとアオイが気を急かすと、理事長は微笑を崩さずに言った。
「お願いする必要なんてないわ。あなた方が入りたいと言うのなら、私はただ通すだけ。私にあなた方を止める権利など与えられていないし、そもそも止めるつもりもないわ。何しろ、希司さん、あなたが生徒会長となりうる資質の持ち主であることを、私はとうに知っているのだから」
でも――と、組んだ手に顎を載せてアオイへ目を向け、
「百合園さん、あなたを男性に戻す確かな方法がまだ見つかっていないのだし、あなたにはなるべく大人しくしていてもらいたいのだけど……そんなこと、お願いしても無駄よね。あなたもお母さんと同じで、一度決めたら、自分がどうなろうがひたすら突き進む人なんでしょう?」
「ああ、はは……そうかもしれません」
言われてみると、意地を通すところが自分は母とそっくりだ。やっぱり親子だなとアオイが苦笑すると、理事長は垣間見せていた砕けた表情を引き締める。
「ならば、私もぜひ応援させてもらいます」
「応援、ですか?」
シノが驚きつつ訝るような顔をすると、理事長は小さく頷いた。
「私はずっと、彼女を倒そうとする者が現れるのを待っていた。私達教師側の人間が誰かに肩入れをすることは許されていないのだけど、これ以上、彼女の好き勝手にさせれば、将来的には学校運営に支障が来しかねないと危ぶんでいたの。彼女は、会長になるべき器ではなかった。彼女はその自らの願望を、皆の幸福に繋げることができなかった。いやそもそも、そんなことなど彼女の眼中にはなかった」
単なる教師ではなく、この学校の元生徒だからだろうか、理事長の声には憎しみさえ見え隠れするような、愛するものを傷つけられた悲しみのようなものがこもっていた。
しかし、どうにか理性でそれを抑え込んだように事務的な表情を作って、真っ直ぐにシノを見る。
「ですから、希司さん。この学校の行く末を、私はあなたに任せようと思います。もしあなたが生徒会長を倒して新たなそれとなり、山岳の巫女(山ガール)による祝福を得られれば、あなたの女子力は今の数倍、数十倍のものとなるでしょう。私はこの学校の理事長として、あなたがその力を、どうか人として正しく使ってくれることを祈ります」
「人として……」
緊張した面持ちで、シノは理事長の言葉を反芻する。
重圧を一人で背負わないでほしい。そう願いながら、アオイはシノの左手を握り締めた。自分も呼吸が浅くなるほど緊張していたのだが、こういう状況でシノを支えることこそが、男である自分の役割なのだ。
「アオイさん……」
ふっと、表情に少し柔らかさを取り戻したシノを見て、そのおかげでアオイも楽になることができた。そうして微笑み合っていると、理事長が席を立って、何も言わずに、机からちょうど右に進んだところにある白い扉を開ける。
「行きましょう、アオイさん」
シノはアオイの手を離れて足を踏み出し、アオイは硬い膝を伸ばしてその後に続いた。理事長に会釈をしてから扉をくぐり、シノは言う。
「ここから先、いつユキさんが来るとも限りません。ですから、絶対にわたしの傍から離れないでください。ブラジャーも身につけて、アオイさんに眠る女子力を限界まで引き出している今、今度こそ記憶を操作されてしまうかもしれません」
長く、急で、狭く、窓もない。まるで秘密の地下アジトに続いているような階段を、石壁に点々と設けられている暖色の明かりを頼りにゆっくりと降りていく。
「そうですね。でも……シノさん、もし私が記憶を操作されてしまっても、戦いはやめないでください。シノさんが諦めたら、私はずっとシノさんのことが嫌いでいることになっちゃうんですからね」
「え……? ああ、そうですね、それは困ります」
シノは肩越しにこちらを見ながら声を潜めて笑い、再び前を向く。
「解りました。じゃあ、もしも逆にわたしが記憶を操作されてしまったその時は……どうか一人で逃げてください」
え? とアオイは立ち止まる。すると、シノも足を止めてこちらを仰ぎ見て、寂しげに微笑むのだった。
「でも、わたしはいつか迎えに来てくれるのを待っています。だから、見捨てないでくださいね。アオイさんが強くなって、一人でもしっかり戦えるくらいになったら、絶対にわたしを助けに来てください。アオイさんなら、きっとできるはずです」
「あ、ああ……それはもちろん。って、私達、戦う前に何を縁起でもないことを喋ってるんでしょうか」
「ふふっ。それもそうですね」
緊張を隠し合うように互いにくすくすと笑って、再び階段を下りる足を動かす。
それから程なく、地下一階くらいの深さ辺りに見えていた階段の終着点に到着すると、その左手の壁に、この階段の入り口として理事長室にあった扉と全く同じ扉が一枚、ぽつんと佇むようにあった。




