薄氷の取引。
「ちょうど今からそちらへ伺おうと思っていたのに、まさかそちらから、しかもこんなに早く来てくださるなんて思わなかったわ」
夜の古城のように暗い部屋、その中央あたりにあるテーブルの椅子に座っていた宮首は、薄い唇を微笑の形に歪めながらこちらを向き、細い足を組み替える。
その金色の燭台が置かれたテーブルには、おそらくユキがアオイから奪っていったケーキが、既に食べかけの状態で皿に置かれてある。宮首はテーブルに肘をつきながら、握っていた銀のフォークを指揮棒のようにユラユラと揺らし、
「でも、あなた方をおもてなしする準備はもうできているのよ。ねえ、ユキ?」
と、その先端を傍らのユキへ向ける。
「はい、椿様」
ユキは順従に頭を下げ、軽く頭を下げたままこちらに酷薄な笑みを向ける。すると、危険を察したように、シノがアオイの半歩前へ出て口を開く。
「いいえ、椿さん。わたし達はあなたと戦うためにここへ来たのではありません」
「ふぅん……じゃあ、謝りに来たということかしら?」
「はい、そうです。わたしのルームメイトが、あなたのご友人に手を上げてしまった。それは監督者である上級生の、わたしの責任です。申し訳ありませんでした」
「も、申し訳ありませんでした」
シノが率先して頭を下げてしまったことに慌てながら、アオイも頭を下げる。が、シノはすぐに頭を上げて、さらりと話を進める。
「それと、こうして謝りに来たのとは別の用でも、今日はここへ来させていただきました」
「別の用?」
「はい。わたし達は、これから久々原生徒会長を倒しに行きます。ですから、どうか椿さんには、それを邪魔しないでいただきたい。そうお願いをしに来たのです」
「え……?」
と宮首は唖然としたように目を丸くしながら、組んでいた足を解く。
だが、驚いたのはアオイも同じだった。シノは、宮首を上手く説得する方法があるというようなことを言っていたが、果たしてこれがそれなのだろうか。アオイがそう戸惑っていると、宮首がギッと歯を食いしばりながらシノを睨んだ。
「あなた、わたくしを侮っているの? そんなことを言われて、わたくしが大人しく生徒会長のもとへ行かせると思う?」
「ですから、こうして頼んでいるのです」
シノはその語気をやや強め、強硬に訴えかける。
「わたしはあなたとは戦いたくありません。わたしはまた、あなたと親しい友達になりたいんです。久々原さんを生徒会長から下ろせば、きっとまたわたし達は――」
「ふふっ、よく言うわね、白々しい」
と、宮首はシノの切実な眼差しを一笑に付す。
「人を裏切り、恩に仇を返すような真似をしたあなたが、またわたくしと友達になりたい? たわごとね、全く」
「ところで、宮首さん」
と、アオイはどうしても我慢できずにシノと宮首との間に入る。
「シノさんは、一体あなたにどんなことをしたんですか? それは、そんなにも深く心を傷つけられることだったんですか?」
「ええ、そうよ。その人は、わたくしの大切な友人を一人、この学校から追い出したの。ありもしない濡れ衣を着せてね」
口元には笑みを浮かべながら、宮首はその目を薄闇で抜かれたナイフのように光らせてシノを睨みつける。アオイはシノを見やり、不安げに首を振ったシノに小さく頷いて見せると、追って宮首に尋ねる。
「ちなみに、それはなんという名前の人ですか?」
「名前……? そんなこと、あなたに教える必要などないわ」
「あります。大事なことなんです。どうか教えてください」
「おい、君。椿様はその件で深く傷を負っておられるのだぞ。しつこく尋ねるのはマナー違反じゃないか」
「いえ、いいのよ、ユキ」
宮首は割って入ったユキを制し、テーブルの上、小皿に載せられて宮首の前に置かれてあったケーキへ憂いげに視線を落とす。
「彼女は、これがとても大好きな子だった。わたくしが彼女にこれを食べさせてあげたら、彼女はとても気に入ってくれたわ。やがて彼女も洋菓子クラブの一員となって、わたくし達二人で、どうにかしてこれと同じくらいに美味しいケーキを作りましょうねと……厳しい努力の日々を送りながらも、いつも楽しく笑い合っていたわ」
「その人も、洋菓子クラブに入っていたんですね?」
「そうよ。ああ、そうそう。うふっ。思い出したわ。わたくしの力がまだまだ未熟だったものだから、『金剛穿貫』(エンジェル・ブレイク)で生クリームを混ぜると、それがとても飛び散ってしまうの。だから彼女は、それがわたくしにかからないように、その女子力でよく防いでくれたものだったわ。わたくし達はそうやって、お菓子作りをしながら、お互いに女子力も高め合っていたのよ」
アオイは黙って宮首の話に耳を傾け続ける。宮首はふと夢から覚めたように、恍惚としたような笑みを浮かべていた顔に怒りの色を戻しながら言う。
「もういいでしょう? 彼女はそんな、わたくしにとって唯一無二の親友だった。まるでわたくしが妄想の友人を作り上げたかのようにあなたは訊いてくるけれど、彼女は間違いなく現実に存在していた一人の女の子よ」
「いや、私はあなたのその思い出が妄想だなんて思いません。もう解っていましたけど、やっぱり間違いない。宮首さん、あなたが親友と言う、その女の子は――」
シノに任せようと思っていたのに、つい気が逸ったアオイの腕をシノが掴んだ。アオイを見上げながら首を横に振って、それからアオイの腕を放して宮首へと視線を向け直す。
「椿さん。これから、わたしとアオイさんは二人で久々原さんと戦いに行きます。そして、もしもわたし達が彼女に勝って、それでもあなたがわたしを憎く思ったなら、その時はどうとでもしてください。ですから今だけは、その……言い方は悪いのですが、邪魔をしないでいただきたいのです」
「それはできないわね」
切り捨てるように宮首は言う。
「あの方は今のわたくしにとって最大の理解者であり、それにとても尊敬をさせていただいているお方よ。生徒会副会長としても、またわたくし個人としても、わたくしはあの方をお守りしなくてはならないの。だから、わたくしはあなたを行かせないわ、絶対にね」
「……そうですか」
「シノさん?」
戦うのか? それはダメだ。とアオイがシノを見やると、その瞳は冴えた輝きを宿しながらも不思議に落ち着いていた。薄氷を渡るように集中を研ぎ澄ました面持ちで、シノは言った。
「では、取引をしましょう」
「取引……ですって?」
「はい。もし椿さんが、今日一日だけで構いません、わたし達との戦いを待ってくだされば、わたしは椿さんに、そのテーブルの上にあるケーキを十個――いえ三十個、買ってお渡しします。これで、どうでしょうか?」
「は? ケ、ケーキって……」
驚きを越えて呆れながら、アオイはシノの横顔を見る。が、シノはその表情を強張らせたまま、息を凝らすように宮首から視線を逸らさない。
と、宮首がガタンとイスから立ち上がった。
「さ、三十個……三十個ですって!?」
「ええ、三十個です」
「な……あ、あなた、本気なの!?」
――あれ? なんか凄い動揺してる。
向き合う両者を、アオイはただポカンとしながら見比べる。すると、同じく呆然とした顔をしていたユキが言った。
「椿様、どうなされたのですか? そんな、たかがケーキごときで……」
「たかが!? たかがケーキですって!? あなた、今そう言ったかしら!?」
「あ、いえ……も、申し訳ありません!」
卒然、激しい剣幕で怒鳴り始めた宮首に、ユキはわたわたと頭を下げる。下げた頭に向かって拳を振り下ろすように、宮首は叱責を続ける。
「これはわたくしにとって神聖な食べ物で、それにお菓子というのは、女子にとっての命そのものなのよ! 解っているの!? あなた、それでも洋菓子クラブの副部長なの!?」
「は、はい、申し訳ありませんでした、椿様!」
「どうでしょうか、椿さん」
シノは強気と弱気の間で揺れ動くような笑みを浮かべつつ尋ねる。宮首はその笑みに狼狽えて声を失うようにしばし沈黙し、やがて強張った笑みを口元に貼りつける。
「ふっ。流石ね、希司。あなた、根っからの悪人だわ……」
「そうですね。自分でもそう感じるかもしれません」
「でも、これを三十個なんて……正気なの? 一体いつ入荷されるのもかも解らない、酷い時には週に一つだけ、いえもっと酷い時は月に一度、たった三個しか入荷されない時だってあるような、人気ナンバーワンのデザートなのよ? それを三十個だなんて……ひょっとしたら、あなたは卒業まで一度もこれを口にできなくなるかもしれない。それでもいいの?」
「ええ、構いません」
「そんな……!」
岩のように動じないシノに、宮首はあからさまに戸惑った。二人の蚊帳の外で、アオイとユキも戸惑った。何がなんだか解らない空気の中、宮首が口角泡を飛ばすように叫んだ。
「な、なら、五十個よ! 五十個、わたくしに渡しなさい! それが取引の条件よ!」
「はい、解りました」
まるでロボットのように粛然と、シノは即答する。
「必ず五十個、お渡しします」
「え……!?」
宮首は目を剥きながらテーブルに手をつき、腰を抜かしたようにイスに座り込む。
しかし、シノの隣にいるアオイへとふと目を向けて、下級生の前で情けない姿を見せるわけにはいかないと自らを律したのか、ぐっと奥歯を噛み締めるような顔をしながら背を伸ばす。
ケーキの隣に置かれていたティーカップを持って、微かに震える手でそれを口へ運んでから、苦虫を噛むような顔でこちらを睨んだ。
「解ったわ。約束をしてしまった以上、今は見過ごしてあげる。でも、勘違いしないで。別に、あなたを信じてみようと思ったわけではないわ。わたくしはただ洋菓子クラブの部長として、美味しいケーキに命を懸けているだけよ。それに見過ごしてあげるのは絶対に今日一日だけよ」
「ありがとうございます、椿さん」
冷然とした態度を保ったまま、シノは淑やかに頭を下げた。そして、行きましょうとアオイにそっと耳打ちして、洋菓子クラブの部室を後にしたのだった。




