譲れない戦い。
翌日。
帰りのホームルームが終わると、アオイはすぐに教室を出た。
長居をしても意味がないというのもあったが、それ以上に、ミサキと顔を合わせているのが気まずくて居たたまれないのだった。
――ミサキちゃんは男だ。それは間違いない。でも、どうして? どうして男のミサキちゃんがここにいるんだ? 私と同じ、何か自分ではどうしようもない理由が……?
訊きたいことはたくさんあるのだが、ミサキの傍ではいつも佳奈と市子が目をギラつかせているせいもあって、上手くそのきっかけが掴めない。掴めたとしても、どうやって切り出せばいいか解らない。
「はぁ……」
今日半日、アオイを苦しめ続けたそのモヤモヤから逃げるように寮へと戻ると、思わずホッと溜息が出た。
――購買、寄っていこうかな。
少し軽くなった気の向くまま、アオイはその足を購買へと向ける。ケーキを買って、シノと一緒に食べよう。いい気晴らしになるはずだ。暢気に、そう思ったのだった。
どうやら購買は、あちらが閉じればこちらが開くというように、教室棟内の購買と連動するようにして経営されているらしい。開店したばかりで、まだ全く客のいない店内へとふらふらと入っていき、
――えーと、シノさんが買ってくれたケーキは……。
早速、目当ての物を探し始める。すると、
「あった」
あにはからんや、あっさりとそれを見つけてしまった。
『このケーキは滅多に食べられるものではない』というようなことをシノは言っていたから、きっと置かれていないだろうと期待はしないでいた。しかしその予想に反し、冷房棚の中にたった一つだけあったそれを見つけて、思わず独り言を発してしまいながらそれを手に取った。
――やった。シノさんも喜んでくれるかなぁ。
シノの輝くような笑みを思い浮かべながらレジで会計を済ませて、無意識に鼻歌を口ずさみながら部屋へ向かう。しかし、
「うぇっ?」
階段の少し手前までやって来た時、ぬっと不意に背後から伸びてきた手が、アオイが大切に右手の上に載せて運んでいたケーキをさらりと掠め取っていった。
その一瞬の出来事に、アオイはキツネに摘まれたように空っぽの掌を見下ろして、それからギョッと後ろを振り返る。するとそこには、幽霊のように音もなく現れていたユキの姿があった。
「な、何をするんですか、返してください!」
アオイが買ったケーキの入っているビニール袋を手に微笑むユキに、上級生への配慮から、アオイはまず穏便にそう言う。ユキは白々しく微笑む。
「いや、ご苦労。君はこれを椿様への貢ぎ物として購入してくれたんだろう? なら、これから先は私に任せたまえ。私が椿様へこれをご謙譲しておくよ」
「何を言ってるんですか。それはシノさんと私のものです。宮首さんにあげるつもりなんてありません。返してください」
「ふん、君こそ何を言っている? 前回は希司がこれを買ったじゃないか。だから持ちつ持たれつというやつで、次はこちらに順を譲るのが自然の摂理というものだろう」
「そんな摂理は知りません。っていうか、もうお金を出して買ったのは私なんだから、それはわたしの物です。勝手に持って行ったら強盗と同じですよ」
「強盗だろうがなんだろうが知ったことではないよ。椿様はこれが大好物で、特に近頃は非常にこれを食べたがっている。なら、私は何をしてでもこれを手に入れるまでさ。もし私が法に裁かれることになろうが、椿様がこのケーキを召し上がって幸福に浸ることができるのなら、私はそれで何も構わないよ」
「私は構います。返してください」
「それにね、もし私がこれを手にできなければ、法の裁きなんてものよりもずっと恐ろしい椿様のお仕置きが私を待っているんだ。君も見ただろう? あの鞭打ち刑だよ。別に、アレが嫌だというんじゃない。ただ、週に一度くらいがちょうどいいという話さ」
「そんなことは知りません」
平然と微笑み、舞台の二枚目俳優のように長広舌を振るうユキに、アオイは呆れながら言い返す。
「あなたが宮首さんに鞭打ち刑にされようが、私にはどうでもいいことです。ケーキを譲ろうとは思いません。返してください」
「ほう。ならば、私から力尽くで取り返すがいい。受けて立とう」
ユキはそう言い、青い瞳でこちらを見つめながら挑発的に口の端を吊り上げる。身構えもしない。まるで少しでも本気を出せば指一本でこちらを倒せるとでも思っているかのように、一切の力みなく棒立ちするのみである。それならば、
「ふっ!」
その油断に甘えさせてもらって、さっさと勝負をつけさせてもらうまでだ。アオイは間違ってケーキを殴ってしまわないようには気をつけながら、容赦なく全力でユキの腕を掴みにかかる。が、
「ふふっ、遅い遅い」
と、ユキはまるで蝋燭の火のようにユラユラと掴み所なくアオイの手を躱し、あくまでも涼しげな微笑を崩さない。と思いきや、
「ぐっ!?」
一転して素早くアオイとの間合いを詰め、その右足をアオイの顔面へ叩き込んだ。
全く不意を衝かれたアオイは、それをまともに喰らってしまった。顎が上がって身体が後ろへと反り返り、一瞬、気が遠のきかける。しかし、ダウンは意地でもしない。鼻の痛みで自然と潤み出す目をキッと前へ向け、足を踏ん張り、相手が女であることも忘れて、
「こん――のっ!」
その拳を振るった。
「なっ!?」
ユキは驚いたようにその目を見開き、後ろへ飛び退いたが、アオイの拳はその頬を捉える。勢いはかなりいなされてしまったが、当たったことに変わりはない。ユキは左の頬を押さえながら、憎悪を燃やすようにその表情を歪める。
「やはり……君はちょっと考えられないくらいにタフだね。その闘争心、まるで男のようだ」
男? とアオイはドキリとして、それと同時だった。蹴られたダメージが後になって効いてきたのか、急にくらりと目眩を感じた。堪え切れずに床へ膝をつくと、
「君は……君の女子力は一体なんなんだ? 非常に気になるが……今は椿様にケーキをお届けするのが先だね」
ユキはまだ左の頬を押さえながらも、高級レストランのウェイターのように優雅な笑みは保ったままアオイに背を向ける。肩越しにこちらを振り向き、
「ああ、ちなみに、このことは椿様に報告させてもらうよ。この私の顔を殴ったこと、深く後悔するがいい」
と言い残して歩き去っていった。
――ひょっとして私、かなりマズいことしたんじゃ……。
玄関から人が数人、歩いてきたので慌てて涙を拭いながら、アオイは先程までの浮かれ気分も忘れて早足に自室へと向かったのだった。




