『ある』と『ない』。
「ごめんね、アオイちゃん」
ミサキが手招きしてくれた扉の間へアオイがするりと身を滑り込ませて、そのドアが閉まった直後、まだ制服姿のミサキは、うるうると瞳を潤ませながらアオイを見上げた。
その急激な展開と、ミサキとの距離の近さにアオイは驚くが、ミサキはアオイの手を掴んで、その距離をさらに縮め、まるで縋って懺悔をするように続ける。
「アオイちゃんがわたし達に変なことをしたって、佳奈ちゃんと市子ちゃんが怒って……! でも、わたしは解ってるの。アオイちゃんは、何も悪いことなんてしてないよ」
「え? それって、つまり……その……」
と、アオイは冷静な対応で申し訳ないと思いつつも、立ち聞きを防ぐため、ミサキの様子からしてどうやら人のいないらしい室内のほうへ入っていきながら尋ねる。
「ミサキちゃんは生徒会長の能力で騙されてない、っていうこと?」
「うん……」
小学生のように華奢なその肩を窄めながら、ミサキは上目遣いにアオイを見て頷く。
「ごめんね。わたし、全部ちゃんと解ってるのに……なのに、何もできなくて……!」
「いや、いいんだよ。あの人の力の怖さは、私もよく知ってるから。それに、ミサキちゃんはこうして私に打ち明けてくれたでしょ? だから謝らないで、ミサキちゃん」
「アオイちゃん……」
と、ミサキは今にも大粒の涙が溢れかかっている目を見開いて、それからようやく少し落ち着いたように、強く掴み続けていたアオイの手を放す。
今度は、アオイがミサキの肩を掴む。
「でも、どうして? なんでミサキちゃんは、生徒会長の記憶操作にかからないの? それはミサキちゃんの女子力のおかげなの?」
「そ、それは……」
うん、とアオイは相槌を打ってミサキの言葉を促すが、ミサキは困ったようにオロオロとして、急に口を噤んでしまう。
「ああ。ごめん、そうだよね」
人に女子力を教えることはつまり、自らの弱点を晒すことでもあるのだ。弱点を見せればお終いのようなこの場所で、そのようなこと安易に教えられるはずもない。アオイは思わず夢中になって掴んでしまっていたミサキの肩から手を放して、
「でも、よかった」
と、微笑みかける。
「え……?」
ショートカットのよく似合う、どこかボーイッシュでありながらも、可憐な妖精のように繊細であどけないミサキの顔立ちを見下ろして、アオイはその敵意のなさに改めてホッとする。
「ミサキちゃんみたいな友達がいて、本当によかったっていうこと。みんなに嫌われてさ、それが生徒会長の力のせいだとは解っていても、やっぱりけっこう辛かったんだ。これから私はどうなるんだろうって、心細かったんだよ。でも、大丈夫。ほんの少しでも自分のことを気遣ってくれてる友達がいたら、それだけで安心できるんだよね。やっぱりさ」
「わたしが、友達?」
「うん。って……もしかして、違った?」
つれない反応のミサキに、先走ったかとアオイはヒヤリとする。だが、ミサキもまた慌てたように首を振った。
「う、ううん! 違わないよ! わたしは、アオイちゃんとお友達……そうなれたらいいなって、ずっと思ってたよ」
「そっか。ありがとう。嬉しいよ、ミサキちゃん」
「うん!」
と、ミサキは再びその大きな目を宝石のようにキラキラ潤ませながら、しかし今度は顔一面に笑みを弾けさせる。
ミサキのそんな笑顔を見られたことが嬉しくて、つられてアオイもニカリと笑いながら、
「あ、そうだ、ミサキちゃん。携帯の番号、交換しようよ。電話とかメールなら、誰の目も気にしないで話せるしさ」
「う、うん、そうだね! ちょっと待ってて!」
言いながら、椅子の脚を蹴っ飛ばすほど慌てた様子でミサキは机のほうへと走って行き、その上にあった折りたたみ式携帯電話を取って戻ってくる。
こんなにも簡単に、女の子と携帯電話の番号を交換してしまった。これも自分が女になったことの証だろうか。嬉しいような悲しいような、しんみりした気分で赤外線通信で番号を交換しつつ、アオイはなんとはなしに尋ねた。
「ミサキちゃんって、一人部屋なんだね。ずっとそうなの?」
ミサキが常日頃つかっているらしい部屋の右側、そことは本棚を挟んだ向かい側は、少し覗いてみると文字どおりガランとしている。明かりが点いておらず、ベッドはただベンチのようにその床板を晒している。なのにカーテンはきっちりと閉められていて、まるで長年、誰も足を踏み入れていない屋根裏部屋のようにひっそりとしているのだった。
ミサキはアオイの視線を追ってそのほうを向いて、
「う、うん。入学した時から、ずっと……。だから、ちょっとだけ寂しいかな」
と、翳りのある笑みを浮かべながら目を伏せ、アオイと番号の交換を終えた携帯電話を胸の前で握り締める。
――う……。
なんて『儚い』という言葉の似合う子だろう。もしこの子が、今二人きりでいる自分が実は男なのだと知ったら、どうするのだろう。
と、アオイは自らの中の何かを掻き立てられるような気分でミサキの微笑を見下ろして、これじゃマズいと慌てて目を逸らす。すると、鏡や時計、化粧品などの小物置き場のようになっている本棚のとある段に、思わぬものを発見した。
「ん? あれって……?」
『横滑りしても切れない!』
という、ミサキにはおよそ縁遠いはずのキャッチフレーズが書かれた、T字型カミソリの袋である。なんだか懐かしいというような気分で、アオイは本棚に歩み寄ってそれを手に取る。
「あ、ダ、ダメっ!」
突然、色を変えて、ミサキがまるで襲いかかるようにアオイへと飛びついてきた。
わっ、とアオイは驚きながら飛び退き、反射的にミサキを躱す。だが、ミサキはそれでいっそう慌てたように再びアオイへ飛びかかってきて、
「わ……ととっ!」
と、ほとんど二人抱き合うような形で、ちょうど背後にあったベッドへと倒れ込んだ。すると、
「「――――」」
気づけばアオイは、ミサキの上に覆い被さっていた。まさに目と鼻の先という近さにまで、顔を近づけてしまっていた。
こちらの顔が映って見えるほど大きな、澄み切った瞳。二重の瞼と長い睫毛。取っ組み合いのようなことをしてしまったせいか、その頬は軽く桃色に上気して、小さな唇の間からは熱い吐息が漏れている。
ふだん使っているシャンプーの匂いだろうか、香水ではない甘い匂いが鼻をくすぐり、その熱っぽい瞳と甘い香りに絡め取られるように、アオイはミサキから視線を剥がせなくなる。
「……ん?」
自分が女になっているせいなのか、それともほとんど真っ平らだったせいか、アオイはミサキのちょうど胸の上に片手をついてしまっていることに今さら気づいて、そしてまた別のことにも気がついた。
『ある』はずのふくらみが全くなく、『ない』はずのふくらみが確かにある。
覆い被さるようにミサキの上へ倒れ込んでいたアオイの左太もも――ちょうどミサキの股間の上に載るようになっていた太ももに、『何か』があった。それはむにむにと弾力があって、またどこか懐かしいような感触でもあった。
「ア、アオイ……ちゃん?」
大きな目をさらに大きくしながら身体を硬直させていたミサキが、おずおずとその花びらのような唇を動かす。それでようやくアオイはハッとして、弾かれたように起き上がって本棚まで後ずさる。
「ご、ごめん、ミサキちゃん! 大丈夫!?」
「う、うん……」
頬染め目を伏せつつ、恥じらう乙女然とスカートの裾を押さえながらミサキは身体を起こす。
互いに怯えるように沈黙して、その沈黙の重苦しさに押し出されるように、アオイは床へ落としていたカミソリの袋を拾ってテーブルに置いておく。
「ま、まあ、アレだよね。私達も年頃なわけだし……お、お手入れとかでこういうのも必要だよね。私も同じの持ってるよ、う、うん」
「そ、そうなんだ……」
「うん……。あ、じゃ、じゃあ、私はこれで! また明日ね、ミサキちゃん!」
もう何も、何も解らない。アオイは心を千々に乱しながら、逃げるようにその足を玄関へ向ける。だが、
「あのっ、アオイちゃん!」
と、すぐにミサキに呼び止められた。
アオイはビクリと振り返るが、呼び止めたはずのミサキは、何か言いたげにパクパクと口を動かすだけで言葉を発さない。やがて、諦めたように顔を伏せる。
「う、ううん、なんでもない……」
そう、とアオイは狼狽えながら返事をして、再び別れの言葉を言ってからミサキの部屋を後にした。
――馬鹿な! いや、きっと勘違いだ! でも、ミサキちゃんが久々原さんの記憶操作にかからないのは、もしかしてミサキちゃんも男だから……。
頭に雷が落ちたような衝撃に打たれながら、アオイは一目散に自室へと逃げ帰ったのだった。




