プロローグ3
「……はぁ」
またか。小さく嘆息して、アオイは横たえていた上半身を気怠く起こす。
あれから、いつもこうなのだった。少しでも油断すると、いつの間にかあの時のことを思い出して、ぼーっとしてしまう。
『あなたのお母さんは、おそらく過度のストレスが原因で心臓に不調を来しています。このままでは……正直、危険です。いつまたこのようなことになるか解りません。というか、また発作が起きてしまった場合、果たして今日のように軽く済んでくれるものか……』
あの悲愴な響きを持った言葉が、耳から消えてくれない。病室の清浄な匂いと静けさ、窓の外に広がる空の青さ、それとは対照的に沈鬱に沈む医師の表情までも鮮明に思い出させながら、あの言葉は今でもアオイの胸を深く抉る。
「……やるしかないんだ」
アオイは小さく、しかし力強く呟いた。
そう。自分はやるしかないのだった。自分が立派な女子になるしか、それしか母を救う手段はないのだ。
覚悟はした。覚悟はしたが、それでも女性モノの下着を着けることはアオイにはできなかった。家事手伝いの鉄子さんが買ってきてくれた薄ピンク色の花柄ショーツではなく、自ら購入した赤いボクサーパンツを箪笥から掴み出すと、
「くぅっ、なんで俺がっ……!」
穿いていたトランクスを脱ぎ捨てて、それを装着した。
ここはあえかな最後のプライドとして、どうにか勘弁してほしい。我と我が身を哀しみつつも、親の望みどおり健気に女子高へ行くのだから、これくらいは許してくれたっていいはずだ。
許嫁? そんなものはどうだっていい。全ては、ただ母のためだ。
アオイは歯を噛み締めて、部屋の隅に置いておいた菫山女子高校指定の茶色い革の鞄を掴むと、決然と部屋を飛び出す。
「行ってらっしゃい。気をつけてね、アオイさん」
玄関で新品の革靴に足をねじ込んでいると、わざわざ見送りのために待っていてくれたのか、台所のほうから鉄子さんがパタパタと駆け寄ってきた。
「はい、行ってきます。鉄子さん」
新品の革靴と同じくらいに頬を硬く強張らせながら挨拶を返し、アオイは玄関の戸に手を掛ける。すると、
「待って、アオイさん」
鉄子さんが、堪えられずといった様子で、サンダルを突っかけてアオイの傍へと駆け寄ってきた。アオイの手を取り、その手にギュッと布を握らせる。
「これだけ、持って行きなさい。念のために、ね?」
「え? いや、お金はもう……」
と、お金を挟んだハンカチと思われるその布を見下ろすと、それはハンカチではなく女性用の下着だった。布面積はやや広めだが、ドぎつい赤が目に刺さる下着一式である。
「お母さんの下着、これを持っていれば、いざという時安心かもしれないから……」
「……い、行ってきます」
いったい何が『安心』なんだ。ガックリして、そう尋ねる気にもならない。
鉄子さんに別れを告げ、アオイは自分の気が変わらぬようにと後ろを振り向かずに家を出た。思わず握り締めたまま出て来てしまった下着は、適当に鞄の中へ突っ込んだ。
自分はもう女なのだ。門を一歩出ると、アオイは端然と背筋を伸ばして楚々と歩いた。
まるで女子として転生したアオイを祝い迎えるかのように初夏の空は青々と晴れ渡り、早朝の空気は清らかに輝いていた。
だが、なぜかアオイの視界は冷たい雨に晒されたように滲んでいたのだった。
○ ○ ○
一口すすると、豊かな香りが鼻腔を蕩かす。程よい渋さを舌に残しながら、心地よい熱さと共にさらりと喉を通っていく。カップを目の前に掲げると、その湯気は朝陽を反射してキラキラと宝石のように輝いた。
よい紅茶は湯気まで美しい。そう陶然と湯気ごしの朝の街並みを見下ろしていると、落ち着かなさげにベッド脇の椅子に座っていた男性医師が、どこか恐る恐ると顔を上げて訊いてきた。
「今日が入学の日ですか、黄梅さん」
「ええ、そうね」
「あんなことをしてしまって……本当によかったのですか?」
「だって、ああでもしないとあの子、行ってくれないから」
自分も、できるならこんなことはしたくなかった。百合園琴葉――代々受け継ぐ諱を黄梅という――はティーカップをベッド備えつけのテーブルへ置いて、頭を下げた。
「それより、本当にありがとうございました。お忙しいのに、わざわざ看護師さんの方々にまで協力していただいて……」
「い、いえ、お礼などいりません。黄梅さんには妻と、それから娘もとてもお世話になっておりますので、このくらいはなんとも……。し、しかし、息子さんには本当に……」
「ふふっ。心配などいりませんよ」
琴葉は思わず表情を崩す。紅茶をまた一口すすってから、
「あの子には私の、百合園家の血が流れているんだもの。どんな厳しい環境の中でも上手くやって、きっと立派になって帰ってきてくれるに違いないわ」
「は、はあ……」
窓から見下ろす街には、希望の象徴のような朝陽が煌めき満ちている。
琴葉はベッドから立ち上がり、床に置いておいたラジカセの電源を入れて、日課のラジオ体操に元気よく取りかかる。
「さあ、守ってあげなさい、アオイ。その人は、あなたの大切な人よ」
○ ○ ○