男として。女として。
「アオイちゃん、なんだか顔色がよくないよ?」
結局、放課後まで保健室のベッドの上で過ごし、鞄を取りに教室へと戻ると、まだそこには多くの生徒が残っていた。
それらの生徒達と目を合わせることもなく、アオイが淡々と帰り支度をしていると、ミサキがアオイの机の前へやって来て、か細い声で話しかけてきた。
「え? あはは……そ、そうかな? 私は別になんともないよ」
「本当? でも、ずっと保健室にいて……。あのね、アオイちゃん、わたしは――」
「だ、大丈夫だよ。私は本当になんともないから、なんとも……っ!」
ミサキのいたわるような目に見つめられていると、自らの不憫さがいっそう胸に満ちてきて、目に熱い物が込み上げてきた。それを隠すために、アオイは歯を食いしばりながら風のように教室棟を走り出る。
脇目もふらずに寮の自室の前まで来て、それから、そういえば部屋の鍵が開いていないのではないかと気がついた。たった一つだけある鍵は、上級生であるシノが管理しているのである。
試しにドアノブを回してみると、意外にもそれは音もなく回った。だが、鍵が開いているということは、中にシノがいるということだ。
女になってしまったこと、目に涙を溜めているということという二重の気恥ずかしさで、アオイは部屋へ入るのを躊躇した。もう、そのどちらの姿もシノに晒してしまっているのだが、シノにこんな姿を見られるのは、やはり漢のプライドが許さない。
そう躊躇っていると卒然、扉がすっと中へ引かれた。開かれたその扉の先には、淡い水色のTシャツと白いスカート姿のシノが立っていた。
「やっぱり……」
シノは少し戸惑ったような顔で呟き、それからにこりといつものように微笑んで、
「おかえりなさい、アオイさん。さあ、入ってください」
そう言ってアオイの手を掴み、部屋の中へと引き入れる。
「今、アオイさんが帰ってきたら一緒に紅茶でも飲もうと思って、お湯を沸かしていたところだったんです。購買で美味しいプリンも買ってきましたから、一緒に食べましょうね」
「……はい」
靴を脱がずに玄関に立ち尽くしたまま、アオイは自分の手を握るシノの温かな手を見下ろす。すると、
「え……?」
自分でも思いがけず、その白い手にぽたぽたと涙を落としてしまった。
「アオイさん……?」
「ち、違うんです。私――じゃなくて俺、本当はこんな泣き虫な人間なんかじゃないんです。なのに……どうしましょう、シノさん。私、どんどん心まで女みたいに……」
恐怖と不安のない交ぜになったような自分でもよく解らない感覚の中で、アオイは声を震わせた。膝から力が抜けてその場へ崩れ落ちると、どうにか堪えようとしていた涙も、堰を切ったように溢れ出す。
「アオイさん……。ごめんなさい、アオイさん。わたしが悪いんです。わたしがあなたをこうさせたんです」
シノは張り詰めた声で言いながら、アオイの肩を掴みながらその前に屈み込む。
そうではない。シノのせいではない。そう言いたかったが、シノの女子力が一つの原因かもしれないことは否定できないのだった。
コンロにかけられたヤカンの湯が沸騰する、カタカタという細い金属音だけが静寂に流れ、その音の中に自分のか弱くすすり泣く声が混じる。
だが、肩を握るシノの手に力がこもり、その白いスカートにぽたりと濃い点が落ちた瞬間、アオイの中で何かが目覚めた。ビリッと電流が走ったように背中に力が入り、忘れかけていた闘志とでも言うべき感情に火が点いた――ような気がした。
「い、いや、シノさん。私はまだ諦めません。諦めたら、それこそきっと二度と男性に戻ることができないと思います」
「アオイさん……」
迷子のように弱々しい瞳で、シノはアオイを見上げる。自分がメソメソしていたせいで、シノにこんな顔をさせてしまっているのだ。そう思うと、自分の女々しさに腹が立ってきた。
「諦めたら終わりです。母さんも、こんな私の姿を見たら、またショックで倒れてしまうかもしれません。……いや、もしかしたら、あの人は喜ぶのかもしれませんけど」
「まさか。そんなはずはありません」
――いや、あの人なら充分にありうる。
むしろ、こうなることを初めから狙っていたのではないか。そうとさえ思えてくるのだった。
これは母の策略、母はこうまでして自分を女にさせたかったのだ。確信的な程そう思えてくると、悔しくて仕方がなかった。そんなにも俺が男じゃ気にくわないか。心臓が悪くなって倒れる程、俺が男であることがストレスなのか。
怒りは坂を転がる雪だるまのように膨らんでいき、アオイは女々しく頬を濡らしていた涙をごしごしと腕で擦って立ち上がった。傍らのコンロの火を消してから、
「私は――じゃなくて、俺は絶対に男に戻ってやる! 意地でも、絶対に!」
と、以前より一回り小さくなった気のする拳を固く握り締める。すると、シノはその意気に引き上げられたように立ち上がる。
「そ、そうですね。わたしも、アオイさんが男性に戻るためならなんでもします! 一緒に、頑張ってその方法を探しましょう!」
「はい、お願いします! 一緒にキンタマを取り戻しましょう!」
「はい! キン――た……が、頑張りましょう!」
わざとではないのだが、勢いでシノに変なことを口走らせそうになる程アオイは決起してしかし、握り締めていた拳を見つめた瞬間、ふと、とある不安がアオイの胸をよぎった。
「あの、シノさん、ちょっといいでしょうか?」
「は、はい、なんでしょう?」
「私と腕相撲、してくれませんか?」
腕相撲? とシノはまだ顔を赤らめながら不思議そうな顔をしたが、すぐにこちらの意図に気がついたように部屋の中へと入っていく。
「解りました。でも、わたし、力だけは少し強いですよ」
「はい。どうぞ本気でお願いします」
共有スペースの丸テーブルを、おおよそ対極に挟みながら向かい合う。互いに手を伸ばして握り合い、肘を天板へつけて、
「じゃあ、三、二、一でお願いします。――三、二……一っ!」
というアオイの合図で、戦いが始まる。
自分で言うだけあって、シノは中々の力の持ち主だった。二の腕はふっくらしたお餅のように柔らかそうだが、実はその下にちゃんと筋肉も備えているらしい。
などと余裕をもって観察できたのは、始まってほんの二秒くらいだけだった。『中々』強いと思われたシノの力はそれどころではなく、『かなり』であった。アオイのお願いした通り、シノはその膨らませた頬が真っ赤になる程本気でアオイを負かしにかかり、アオイもまたおそらく同じくらいに顔を赤くさせながらそれを押し返した。結果、
「っ……らぁっ!」
と、かろうじてアオイが、まさに薄氷の勝利を収めた。関節が反対に折れ曲がるかと思った肘を押さえながら、アオイはぜぇぜぇと息切れして俯く。
「そんな、まさか、こんな……! どうしましょう、シノさん。こんなんじゃ私、シノさんの力になれません」
また涙の込み上げそうになってきた目を上げると、シノはアオイ以上に息切れしながら苦しげに首を振った。
「そ、そんなことは気にしないでください。今はわたしのことなどより、アオイさんのことを第一に考えるべきです」
「そういうわけにはいきません。シノさんだって私と同じくらい大変な目に遭っています。久々原さんの記憶操作で、私も友人を失いました。だから、シノさんの苦しみが今ならよく解るんです。こんな苦しみの中にずっといるシノさんのことを、放っておくことなんてできません」
「アオイさんも……?」
と、シノはショックを受けたように表情を凍りつかせる。
マズい。また、シノに自責の念を感じさせてしまった。そう気づいて、慌ててつけ足す。
「そ、そうだ。私に体力がなくなったなら、もうやることは一つしかないです。私も女子力を身につけるしか、シノさんの力になる方法はありません!」
「な……!? そ、それはいけません! それだけは絶対にダメです!」
愕然としたように、シノはアオイの傍まで詰め寄ってくる。
「そんなことをしたら、アオイさんはきっと間違いなく、二度と男性に戻ることができなくなってしまいます! そんなことは、あってはなりません!」
「でも……」
と、アオイはほとんど勢いに任せて口走った自分の言葉に、正直、自分自身戸惑った。だが、この熱い思いに導かれて進むのは、きっと間違いではない。そう信じたかった。
「いえ、私は――俺はやります」
シノの肩へ手を置き、アオイはシノの瞳に語りかける。
「だって、こんな所でシノさんを見捨てるなんて……それこそ男らしくないじゃありませんか。身体が女になったくらいで挫けるなんて、俺はそんなヤワな男じゃありません。女になったらなったで、それでこそできることをやらなきゃいけない。だから俺、やります。俺はシノさんの力になると約束をしました。約束したからには、絶対に力になるんです。ならなきゃ、男として気が済まないんです」
男に二言はない。それを貫く俺は、やはり男だ。それだけではないのも事実だったが、結局、アオイはそうやって自分を励ましたかったのだった。
「アオイさん、あなたは……」
アオイの追い詰められた心理を感じ取ったように、シノは困惑したような表情でアオイを見上げる。そんなシノに、アオイはもう一押しをするべく口を開こうとした。だが、それより一歩先に、シノはアオイの右手を両手で強く取った。
「解りました。では、わたしも約束します。わたしは絶対に、あなたを守ります。これからずっと、あなたの傍で、あなたを守っていくと誓います。ですから、これからもわたしと共に戦ってくれる仲間でいてください」
「は、はい。こちらこそ、お願いします」
そう返事して、アオイは思わず照れ笑いする。シノの真っ直ぐな言葉がまるでプロポーズのようで、不覚にも乙女のようにキュンとしてしまったのだった。




