悲しき女子力の素養。
ベッドの上に立ち膝をしているアオイは、膝まで下ろしていたパンツを引き上げる。
「はぁ……」
と、重く嘆息したのはアオイではない。アオイの前で額を押さえている、神原理事長である。その隣にいる禁煙パイプを咥えた女性――学校医の女性もまた小さく嘆息し、ベッドの周囲を囲んでいた白いカーテンを勢いよく開く。
するとそこには、手術室の前で家族の無事を祈るような顔でシノが立っていた。
「あの……」
胸の前で手を組み合わせながら、シノが何か問いたげに学校医の女性を見上げる。
「問題ない、ケガのほうは」
学校医の女性は淡々とした口調でそうとだけ言って、出口のほうへと去っていく。
ダメだと解り切っていても、アオイはもう一度、尋ねずにはいられない。
「理事長……理事長の『時の旅人』(アンチ・エイジング)でも、本当に元に戻らないんですか?」
「……ごめんなさい。何度試しても、おそらく同じでしょうね。私の能力でできるのは、ダメージの修復をすることだけなの」
「そう……ですか」
と、言葉は平然と返しつつも、アオイは思わず身体から力が抜けて、へなりとベッドの上に座り込む。感じるのは胸に穴の空いたような喪失感ばかりで、悲しみを感じる余裕はまだないのだった。
独り言のように、神原が言った。
「まさか、こんなことになるなんて……。鉄男さんでも、こんなことにはならなかったのに」
「鉄男さん? それは誰ですか?」
シノが水を向けると、神原は再び溜息を吐いてから言った。
「百合園さんのお父さんよ。どんな事情だったかまでは知らないけれど、百合園さんのお父さんもこの学校の卒業生なの」
「え? そうなんですか?」
と、落ち込んでいたことも忘れる程驚いてアオイが尋ねると、神原もまた驚いた様子でアオイを見た。
「知らなかったの? 私はてっきり、全て聞かされているものだと……」
「いえ、私は何も……」
「『何も』って……はぁ、全くあの人ったら……」
呆れを露わにするように表情を曇らせながら、神原は額を指で押さえた。そのまま考え込むように三秒程沈黙してから、やや戸惑った様子でアオイへ目を向ける。
「まあ、あなたの家も色々あるんでしょうから、私からは何も口を挟むことはできません。しかし、状況が状況ですから私の知っていることを説明させてもらうとね、百合園さん、あなたのお父さんは紛れもなくここの卒業生よ。そして、彼は女子能力者だった」
「父が、女子能力者……?」
「ええ、彼は女子能力者だった。ちょ、ちょっと、どういう女子力かは説明しにくいのだけど、そのことは間違いないわ」
「説明にしにくいとは、どういうことですか? 言葉にできない程強力なものであったということでしょうか」
なぜか心なしか頬を染めた神原に、シノは怪訝そうに尋ねる。
「それもあるのだけど、それよりも……ま、まあ、ともかく今は百合園さんが女性になってしまったということを主題にして話しましょう。と言っても、過去に前例のないことだから、私にもどうしようもないことなのだけど……」
「百合園さんのお父さんは、百合園さんのようにはならなかったのですか?」
「ええ。おそらくだけど、なっていなかったはずだわ。肉体に関しては」
『肉体に関しては』ということはつまり、精神のほうはかなり女性化していたということか。察するまでもなくアオイはそう理解する。
「これは私の推測でしかないのだけど、おそらく百合園さんは、男性でありながら極めて女子力の素養のある人間であるのではないかしら。お母さんは強力な女子能力者、そしてお父さんは男でありながらそれになった人物、それらの息子である百合園さんは、素晴らしい女子力の素養を持っている可能性が高いはずよ」
「女子力の素養って……私が、そんなものを持っているんですか?」
絶望的な宣告を受けたような気分でアオイが問うと、神原は悲しげなほど確信に満ちた目でアオイを見やる。
「それはおそらく間違いないわ。そんなあなたが、この菫山女子高等学校という特殊空間に満ちた女子力に曝され続け、持ち前の素養でそれを体内に蓄積させ続けていたとしたら……今のような事態に陥ってしまうのかもしれない」
シノは、アオイよりもずっと逼迫した様子で早口に尋ねる。
「で、では、アオイさんはこれからどうすれば?」
「今のところ、どうしようもないとしか言いようがないわね」
神原は沈鬱に声を沈ませる。が、すぐにその顔を上げ、力強い眼差しでアオイを見る。
「でも、もしも私の推察が当たっていたとしたら、あなたがやるべきことはただ一つ、自らの持っている男性性をより強く、より高めていくということではないかしら」
「私の、男性性……?」
「要は、男らしさ。あなたにとっての男らしさがなんであるかは解らないけれど、あなたは自分でそれを明らかにし、手に入れていく必要がある。内側から、自分を男性に戻していくのよ」
「はあ、内側から……。解りました。少し……考えてみます」
皮肉なことに、時間はたっぷりあるのだった。実は男であるということがバレる可能性が皆無になったわけだから、これまでのようにビクビクとスカートの裾を気にする必要もないのだ。
神原が保健室を出ていくのを見送ってから、アオイは改めて自らの女体を見下ろし、手で触れてそのラインを確かめてみる。
すると、骨盤が心なしか下がりながら横に膨らんでいる気がしたし、それに胸には明らかな異物――脂肪の塊がくっついていた。それはささやかなふくらみだったけれど、今までそんなものなど持っていなかったアオイにとっては、衝撃的なくらいに気味の悪い異物なのだった。
「私は……」
胸に付着した肉塊を、アオイはセーラー服の上からぺたぺたと触る。夢にまで見た女性の胸を薄布一枚ごしに揉むことができているにも拘わらず、嬉しくもなんともない。
「アオイさん……」
と、シノがかける言葉も見つからないという顔でこちらを見つめる。アオイは胸に触れていた手を下ろし、ベッドの上で体育座りをする。サッカーの試合でつけた傷跡の綺麗に消えた、まるで赤ちゃんのように綺麗な膝小僧を見下ろして言う。
「すみません、シノさん。私――じゃなくて、俺、もう少しここで休んでいきます。次の授業には、たぶん出ますから」
シノはしばし戸惑ったように立ち尽くしていたが、やがて「解りました」と小さく言い、保健室から去っていった。
――夢だ、これは。夢なんだ。
そう自分に言い聞かせて、アオイはベッドへ横になる。真っ白なガーゼ毛布を頭の先まで引っ被って、蒸し暑いその中で必死に目を閉じたが、眠れるはずもなかった。




