洋菓子クラブにて。1
教室棟の東にある一階非常口から外へ出て、そのまま真っ直ぐに歩いていった所に、教室棟の約半分程の大きさである四階建ての建物がある。それが、各クラブの部室がある『部室棟』だとユキは言った。
ユキの後をキョロキョロしながら歩いてその中へと入ると、昼休みにも拘わらず、そこには多くの生徒の姿があった。
演劇部だろうか、絵本から出てきたような西洋風の仮装をした人達や、フィルムカメラを持って何やらヒソヒソと話し合いながら真剣に窓の外を撮っている怪しげな人達、はたまたボーリングのボールを抱えて息も絶え絶えに走っている不思議な人までいた。
彼女らを横目に三階まで上がり、四辺を建物に囲われた中にぽっかりと空いた薄暗い中庭を見下ろしながら、階段のほぼ裏側、建物の南側へとユキは黙々と歩いていく。
と思いきや、
「何色だった?」
なんの前触れもなく、そう尋ねてきた。
「何がですか?」
問い返すと、ユキは肩越しにこちらを一瞥して微笑んだ。
「なんだ。わざわざ捲って見せてあげたのに、肝心な時に見ていないんだね。さっきはあんなに私の足をじっと見つめていたのに」
「え? あ、いや、それは……すみません、つい」
「いいんだよ。誰だって、綺麗なものには目が行ってしまうものだからね。自然の摂理さ」
「はあ。あ、でも、ユキさんの下着は、さっき体育の時間の時に……って、すみません」
「そうか。そうだったね。もう見たことのある下着なら、興味が失せても当然だ。それも自然の摂理だね」
顔を熱くして目を伏せるアオイをおかしがるように、ユキはどこまでも飄然と笑う。それからすぐに、
『洋菓子クラブ』
という表札を掲げた一室の前で、ユキは足を止めた。コンコンコン、と軽やかにノックする。
「椿様、百合園さんを連れて参りました」
「ええ。どうぞ、お入りなさい」
部屋の中から宮首の声が聞こえてきて、ユキは扉の前で「はい」とお辞儀をしてから、木製の両開きの扉を開ける。
部屋の中は、明るい廊下と比べてほとんど真っ暗だった。
黒いカーテンで窓を閉ざされた夜のように暗いその部屋の所々で、赤い火がちろちろと揺れている。高級なレストランのように間隔を開けて置かれている円卓の上や、壁に等間隔に燭台が据えられ、その火だけで明かりが取られているのだった。
しかし、その小さな蝋燭の火だけでは、教室と同じ程の広さがある部屋の中を照らし切れておらず、辺りはかなり薄暗い。アオイが部室へと入り、ユキが扉を閉めると、ぼうっと赤く浮き立つようにいくぶん明るくなったが、暗いことに変わりはない。
――まるで吸血鬼の城だ。
そうアオイが呆然としていると、右手に一つだけある大きな調理台、その前にいた白いエプロン姿の宮首が、腕に大きな銀のボウルを抱えながら言った。
「ユキ、何をぼんやりしているの。百合園さんを早く席に座らせてあげて」
「はい、かしこまりました」
ユキは腰を折って頭を下げ、部屋の中央あたりにあるテーブルへとアオイを導いた。椅子をわざわざ引いてアオイを座らせてから、どこか慌てた様子で宮首のほうへと歩み寄る。
「椿様。椿様も、どうぞあちらに腰をおかけください。そのようなことは私が致します」
「いいのよ。折角のお客様ですもの。わたくしが自分で作らないといけないわ。けれど、そうね。じゃあ、あなたはコーヒーを淹れてもらってもいいかしら?」
「かしこまりました」
執事のように胸に手を当ててお辞儀をして、ユキは早速その作業に取りかかる。テーブルに一人残されたアオイもまた早速、敵情視察に取りかかる。あくまでなんとなくという素振りを装いつつ、ボウルの中身をカシャカシャと泡立て器で混ぜている宮首に尋ねる。
「宮首さん。それはなんですか?」
「これ? これは生クリームよ。食後にカフェラテをご馳走してあげようと思って」
「い、いえ、そんな気を遣っていただかなくても」
睡眠薬か何かを盛るつもりかもしれない。一応そう用心してアオイが遠慮すると、
「いいのよ、遠慮なんてしなくっても。すぐにできるから」
宮首はボウルを持ったまま、にこやかにこちらへと近づいてくる。すると、その胸の前に垂れ下がっている二つの巻き髪が、フィィィンと静かな駆動音を立てて回転し始める。
「確かに、泡立て器を使ったら少し時間がかかってしまうのだけれど、この、40000rpm――つまり一分間に四万もの回転が可能な、この『黄金穿貫』なら……」
宮首がそう言うと、静かに、しかし全く目で捉えきれない速さで回転している二本の巻き髪が、ふわりと羽毛のように浮き上がった。
そして、それが白い液体の入っているボウルの中へ滑り込むようにして落ち込んだと思うと、その中身をただ撫でただけのように、一瞬後にはその二本のドリルは再びふわりと浮き上がりながら、勢いを次第に弱めていた。
「ほら。ふふっ。どう?」
宮首は、こちらへボウルの中身を見せる。すると、確かにそこにあったのは先程までの液体ではなく、充分に泡だったホイップなのであった。
「この、ただ高速というだけでない、優美で繊細なタッチ。この女子力を身につけるために、わたくしはどれだけの生クリームを掻き混ぜてきたことか……。それはもう、血の涙が混じって、ピンク色のホイップができる程だったのよ」
「…………」
アオイは、やはり並外れた力を持っている宮首の女子力に恐怖した。もしあの時、これで尻を突かれていたなら……。そう想像しただけで、思わず尻に力が入る。
「さて。では、わたくしもお昼をいただきましょうか。百合園さんをあまり待たせてはいけないものね」
いかにも育ちのよいお嬢様らしく宮首は言って、調理台のほうへといったん戻っていき、ボウルの代わりにアオイと同じ弁当箱を持って戻ってくる。その影のようについてきたユキに椅子を引かせて、アオイの右隣に腰を下ろす。
「どうぞ、百合園さんも。いただきましょう」
「は、はい」
部屋の雰囲気のせいもあって、まるでどこぞのお姫様と食事を共にしているような気分になってしまう。アオイは思わずあたふたしながら、割り箸を挟みながら弁当箱に巻かれているバンドを外して、その二段式弁当箱を開く。
その中身を見ると、上の段には鮭のムニエル、エビフライ、鶏の唐揚げ、卵焼き、里芋や蓮根の五目煮、ゴマ団子が、下の段にはごま塩をまぶした日の丸ご飯が入れられている。
学校が洋風だから、てっきり弁当のメニューも洋風なのかなと思っていたのだが、意外にも和風寄りのメニューでアオイは驚いた。だが、いつもこんなものなのか、宮首は何を気にするでもなく、
「あら、わたくし、これがとても好きなの」
と、美味しそうにゴマ団子を頬張っている。
ユキがテーブルに二つのコップと水差しを持って来て、そのコップに水を注いでアオイと宮首の前に差し出すと、静かに調理台のほうへと戻っていく。アオイはその背中に礼を言ってから自分も弁当を食べることにして、まずは白飯をもそもそと囓っていると、
「学校生活は楽しめている?」
と、宮首が話を振ってきた。
「え、ええ、楽しめています。まあ、もう色々とありましたけど」
「そう。ふふっ、色々と、ね……。ねぇ、百合園さん、悪いことは言わないわ。もう希司さんの傍にいるのはおやめなさい。そうすれば、きっとあなたも存分に楽しく、ここでの生活を送っていけるようになるわ。あんな卑しい人と仲良くしたって、あなたにとって一体なんの得があるというの? むしろ、あなたの品性が下等になってしまうだけではなくて?」
ちらと白い犬歯を覗かせて、宮首は微笑する。その猫のように少し吊り上がり気味な目に燭台の明かりが鋭く反射して、その美しさに思わずゾクリとする。
だが、アオイはその氷の美貌をキッと強く睨みつける。友人であり、仲間であり、師匠であり、許嫁であるシノのことを悪く言われると、無性に腹が立つのだった。
「やっぱり……あなたも久々原さんとグルなんですね」
「グル? グルって、なんのことかしら?」
「しらばっくれないでください。私は知っているんです。私の友達に、私の嘘の噂を信じ込ませたのは、記憶操作の女子力を持つ久々原さんでしょう。それで、あなたは彼女とグルになって私を脅迫しているんだ」
「生徒会長が、あなたの嘘の噂を……? ちょっと意味が解らないわ。第一、生徒会長の女子力は記憶操作なんかじゃないもの」
え? と、アオイは驚くが、すぐにこれが当然の返答なのだと気づく。久々原に記憶操作をされている人が、久々原の女子力が記憶操作であることを知っている可能性は極めて低いに違いないのだ。
自分は敵の核心に近づきつつある。そう固唾を呑むアオイに、宮首はその人形のように美しい顔立ちをどこか強張らせながら言った。
「どこでそんな嘘を吹き込まれたかは知らないけれど、生徒会長の能力はそんなものではないわ。もっと、とても口にはできないような、身も凍る程恐ろしい能力よ」
「身も凍る程、ですか。それは、どういうふうに恐ろしいんですか?」
「それは……」
はい、とアオイは相槌を打って宮首の言葉を促す。すると、宮首は暗闇の中でも解る程耳まで顔を朱くして、胸に前に垂れる巻き髪を指で弄りながらボソボソと言う。
「まあ、つまり……ごく簡単に言えば……人の大事な……その……」
「え? なんですか? 聞こえません」
「ですからっ! 人の大事な……アレを……快感? というか、気持ちよく……」
「ん? 気持ち? 気持ちがなんですか? あの、もう一回、大きな声で――」
「こ、こんなことを大きな声で言えるわけがないでしょう! この変態! わたくしに何を言わせる気なの!?」
と、やにわに宮首は席を立ち、コップの水をアオイにぶっかけてきた。
「ええっ!? な、なんで!?」
「今のは君が悪いよ」
いつの間にかテーブルの傍へ来ていたユキが、軽く微笑しながら宮首の空になったコップに水を注ぎ直す。
「椿様程の淑女にそのようなことを訊くなど、失礼極まりない。椿様はどこぞの変態女とは違うのだよ」
「そうだわ。やはり希司の傍にいるから、この子もこんなことに興味を持つようになってしまったのかしら。と、というか、もしかして、あなた、もう希司に初めてを……!?」
「な、なんの話ですか? 私とシノさんは何も妙なことはしてませんよ! ただの友達、ただのルームメイトです!」
「じゃあ今のうちに、わたくしのモノにしておかないと!」
また来たか! と、アオイは昨日の悪夢をまざまざと思い出して戦慄する。しかし襲われるかもしれないということは充分に予測していたから、すぐさま逃走の態勢に入ることができた。
弁当箱をテーブルに残したまま、アオイはガタンと席を立つ。だが、アオイが即座に逃げ出すことを読んでいたかのように、ユキがいとも簡単にアオイの右腕を背中へねじり上げる。
「いいわよ、ユキ! 絶対に逃がしちゃダメよ!」




