プロローグ2
「えっ? 母さんが倒れた?」
その電話がかかってきたのは、朝、眩しく爽やかな初夏の陽射しの下、学校の校門をまたいだ直後のことだった。
『母が倒れ、救急車で病院へ運ばれた』
なんの前触れもなく飛び込んできた、つい数十分前にいつもどおり玄関で自分を見送った母が病院へ運び込まれたというその報せは、アオイには到底、信じがたいものだった。
しかし、冗談に決まっていると無視するわけにもいかないし、そう考える間もなく、アオイの足は病院へ向かって駆け出していた。
――嘘だ、嘘に決まってる!
頭の中でそう何度も叫びながら、アオイはすぐさまタクシーで母が運び込まれたという病院へ駆けつけた。エレベーターが着くのも待ちきれず、階段を駆け上がって母の病室へ飛び込む。
「母さん!」
と、思わず声を荒げながら扉を開けた病室の景色は、ある意味、予測を裏切るものだった。
「まあ……どうしたの、あなた? そんなに汗を掻いて、はしたない」
そこには、端然とベッドの上に座りながら、こちらを見ている母の姿があった。その、平然としているどころか、こちらのことを咎めるような目つきをしている母を見つめながら、アオイは肩を上下させてポカンとその場に佇む。
「い、いや、どうしたって……母さんが倒れたって、鉄子さんから……」
「え? ふふっ。いやぁね、あの人ったら。本当に大げさなんだから。大丈夫よ、お母さんは。心配かけてごめんなさいね」
母はそう言って、その顔にいつもどおりの品のある笑みを浮かべる。
ベッド脇には、中年くらいの男性医師が一人、後ろ手を組んで立っていた。その医師は穏やかな声で、ただの貧血ですが、ともかくまあ今はゆっくり休むようにと母を横たえさせると、
「息子さん、少しお話しがありますので、外へ」
とアオイに外へ出るように促しながら、自らも病室を後にした。そのままアオイを連れて隣の空いた病室へと移動すると、先程とは打って変わった神妙な様子でこう切り出したのだった。
「あなたのお母さんは、おそらく過度のストレスが原因で心臓に不調を来しています。このままでは……正直、危険です。いつまたこのようなことになるか解りません。というか、また発作が起きてしまった場合、果たして今日のように軽く済んでくれるものか……」
「ど、どういうことですか? さっきは『ただの貧血だ』って……」
「すみません。私達もできうる限りの治療を進めますが、しかし……医療も万能ではありません。『その時』のことを、今から覚悟しておかれたほうがよいかもしれません」
「そんなに……? 母は、そんなに悪いんですか?」
心臓が凍りついたように息を詰まらせながら、アオイは尋ねた。医師は返答に窮するように間を少し置いてから、はい、と重々しく頷いた。
「ですが……もしも、お母さんのストレスの原因を排除することができたなら、展望はかなり明るくなるはずです。どうでしょう。息子さんであるあなたの目から見て、何か心当たりはありませんか? お母さんが何か酷く思い悩んでいることなど……心当たりはありませんか?」
「へっ?」
ギクリ。虚を衝かれて、アオイは思わず間の抜けた声を上げてしまう。
「い、いや、僕は何も……」
高級感のある絨毯が敷き詰められた床の上に目を泳がしながらそう答えると、医師はそうですかと肩を落とし、何かあったらナースコールを押すようにと告げて去っていった。
――『酷く思い悩んでいたこと』……か。やっぱアレだろうな。
医師には明かさなかったが、実はアオイには思い当たりがあった。しかし、どうしてもそれを明かすことはできなかった。
――いくら母さんのためだからって他人にこんなこと相談するなんて……。いや、でも……。
自分に非はないとしても、母の倒れる原因を作ってしまったことにはやはり罪悪感を感じてしまいながら、アオイは母の病室へと戻り、ベッド脇のパイプ椅子に腰かけた。
「ごめんなさい。学校、遅刻させちゃったわね」
「別にいいよ。それくらい……」
横たわったまま微笑みかけてくる母の顔から、なんとなく目を逸らす。母は四十代だが、息子という立場からの贔屓目なしにも若く美しいほうだ。だが、やはり今日はどこかその顔が青ざめ、いつもより年老いたように見えて、それが酷く痛々しいのだった。
「ところで、鉄子さんは?」
「鉄子さんなら、家に着替えを取りに行ってもらっているわ。ここへ一緒に来てくれて、ついさっきまでいたのだけれど」
そうか、とアオイは返事して、やけに重く感じられる静寂の中、しばし頭を巡らせて別の話題を探した。母親を相手に何をソワソワしているんだと馬鹿らしく思ったが、アオイはこの二人きりの静かな空間というものにどうしようもなく危険を感じて、
「じゃあ、俺はもう……」
と、逃げるように腰を上げた。だが、
「ちょっと待ちなさい」
不意に強く母に呼び止められ、ギクリと振り返る。
「な、なんだよ」
「ねぇ……あなた、本当に菫山女子には行ってくれないの?」
やっぱり来た。またこの話だ。とアオイはうんざりしながら、
「言ってるだろ。そんなとこ行けるわけがあるか。なんで男の俺が、女子高なんぞに入らなきゃいけないんだよ。どう考えてもおかしいだろ。っていうか、自分が倒れて病院に運ばれてるって時に、こんな話するか、普通」
「だって、それは……。ああ、あなたひょっとして、男が女子高に入学できるわけなんてないって、まだ思っているの? だから、それは言ったでしょう? あの学校にはお母さんの知り合いがたくさんいるから、何も問題ないって」
「誰もそんな心配はしてない。俺はただ単純に行きたくないって言ってるんだ。それに、俺はサッカーがやりたくて、サッカーの強いこの高校に入ったんだ。毎日頑張ってようやく認められてきたところだってのに、どうして今さら転校しなきゃならないんだ。俺はもう、こうして今の高校に入ったんだし、それ母さん、『もう諦めた。何も言わない』って確かに言ってただろ。なのに、いつまでこの話をするつもりなんだよ」
「だって、あの時は受験やら何やらで、しょうがなかったから……。でも、やはり駄目よ。あなたは菫山女子へ行って、ちゃんと立派な女子の精神を学ぶべきよ。我が百合園家の家系は、代々、江戸時代から継いできた女子作法の名家なのよ? それを私の代で途絶えさせるわけにはいかないじゃない。だから、ねぇ、どうかお願い。この家を背負える立派な女子になって、アオイ」
母は切々と言った。どうやら母にとっては病気である自分の身体よりも、百合園家が持つ名家としての看板のほうが大事らしい。そう思うと、アオイは余計に腹が立つのだった。
「それに、菫山にはあなたの許嫁の子もいるのよ。あなただって、自分の許嫁がどんなだか見てみたい気はあるんでしょう? 安心して。すごく可愛らしい子だから、あなたもきっと一目惚れしてしまうわ。名前は希司シノさんっていうの、年はあなたより一つ上だけれど――」
「いい加減にしてくれ。その話はもう何遍も聞いたし、許嫁なんて興味ないって言ってるだろ。そんなの、俺には関係ない」
「また、あなたはそんな意地っ張りな……」
「知ったことじゃないんだよ。こんな家がどうなろうと、別に俺には関係ないんだ。っていうか、いっそ潰れちまえばいい。そのほうがよっぽど嬉しいぜ」
「なっ!? つ、『潰れちまえ』なんて、どうしてあなたはそんな――っ! うぅっ!」
「え? か、母さん……?」
しまった――
アオイは息を呑み、顔を苦悶に歪めながら胸を押さえた母に慄然と駆け寄ると、すぐさまナースコールを押して看護師を呼んだ。すると、一分と経たないうちに病室は修羅場と化したのだった。
まるでガラス一枚、隔てた場所にいるように、アオイはその光景をただ遠くから呆然と眺めることしかできなかった。