女子更衣室。
シノのことを気に懸けている場合ではない。自分まず何より自分自身のことを心配しなければならないだと、アオイは痛感させられた。
「きゃっ!?」
三時限目の英語の授業が終わって、ああ疲れたと少し背伸びをした瞬間、二本の腕が後ろからビュッと伸びてきて、アオイの胸を優しくそっと撫でた。そして耳元で艶やかな声。
「やっぱり、アオイちゃんはいい声で鳴くわねぇ。お姉さん、ゾクゾクしちゃう」
「や、やめてください! やめっ……!」
と、その大きな胸をアオイの肩に押しつけながら、明らかに胸の一部分を狙ってくる市子から身をよじるようにして逃げようとしていると、市子がその手をピタリと止めた。
「あれ? なんかアオイちゃん、昨日よりなんだか……身体がぷにぷにしてない? もしかして、太った?」
「え?」
「たった一日で太ったも痩せたもあるわけないだろ」
そう言いながら、肩にジャージバッグを提げて現れたのは佳奈である。
「それより、早く放してやりな。嫌がってるだろ、百合園さん」
じろりと冷たく睨まれて、市子はすごすごと手を引くかと思いきや、なぜかその頬をアオイにぴたりとすり寄せ、いっそうアオイに絡みつく。
「あ、あの……市子ちゃん?」
とアオイは狼狽するが、市子はそれを無視して佳奈をニヤリと見やる。
「何? もしかして嫉妬してるの、佳奈ったら」
「は、はぁ!? そんなんじゃないよ! あたしはただ、百合園さんが困ってるから言ってるだけで……!」
「みんな、早く体育館に行って着替えないと……」
何が何やら状況が解らなくなってきたところに、ビクビクと申し訳なさそうにミサキが割って入ってくる。動転したように顔を朱くしていた佳奈は、パッとそちらを向いて言う。
「そ、そうだった。さっさと体育館に行かないと。アオイちゃ――じゃなくて、百合園さんは体育館の場所知らないでしょ? あたし達と一緒に行こうよ」
「い、いや、私は大丈夫。ちゃんと体育館の場所は知ってるから。だから、みんなは先に行ってていいよ。それと、佳奈ちゃん。佳奈ちゃんも私のことは『アオイ』でいいから」
「そ、そう? じゃあ……って、なんで? あたしらと一緒に行こうよ、ア、アオイ」
「そうよ。それで、一緒に服の脱がせあいっこしましょうよ」
「いや、それは……」
できるのならしたくてしかたがないけれど、そういうわけにはいかないのだ。アオイが、ない胸と、ある股間を市子の怪しい目から隠しながら身構えると、ミサキがアオイの机の前まで来て、睫毛の長い憂いげな目でこちらを覗き込んだ。
「アオイちゃん……どこか具合が悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
とアオイは苦しく目を伏せるが、佳奈、市子、ミサキは、アオイがちゃんと説明をするまでテコでも動かないという様子で、まじまじとこちらを見つめてくる。
ここまで来たら、しょうがない。無理を通したら、かえって怪しまれる危険性が高い。アオイはそう判断して、
「う、うん。じゃあ、一緒に連れて行ってもらってもいいかな。迷惑ばっかりかけて悪いけど……」
と、机の横のフックに引っかけていたジャージバッグを持ちながら立ち上がると、市子が拍子抜けしたように言った。
「なぁんだ。アオイちゃん。そんなこと気にしてたの? いいのいいの。友達にそんな気を遣うものじゃないわよ」
そうそう、と佳奈は頷き、ミサキも優しく微笑みを浮かべる。アオイもそれに微笑で応えて、しかし心中は穏やかでない。
ほとんどクラスメイトの姿が残っていない教室を出て、外観だけは見たことのある体育館のほうへと廊下を歩いて行きながら、アオイは三人の世間話が聞こえなくなる程心を千々に乱していた。
もっと、よく考えておくべきだったのだ。『体育の前にはジャージに着替えなくちゃいけないだろうけど、まあトイレで着替えればいいや』という程度にしか物事を考えられない自分の無能を、アオイはつくづく呪った。こういう致命的な問題に関しては、ちゃんと最悪のパターンについても考えておかなくてはならなかったのだった。
「あら、もう友達ができたのね」
と、不意に廊下の先で声がして、アオイは三人より一歩遅れて立ち止まった。目を上げると、そこにはスリムな腰のラインに片方の手をつきながら、不敵な笑みを浮かべて立っている生徒会長――久々原奈津の姿があった。
頭の左右、高い位置で結われた茶色の長い髪は枝毛一本なくさらりと流れ、スカートとニーハイソックスの間に見える肌は真珠のように白く眩い。
そんな、自らの美しさへの絶対的自信を象徴するような立ち姿の久々原を見て、だがすぐにアオイは目を逸らした。久々原は視線を合わせるだけで人の記憶操作する。シノがそう言っていたのを咄嗟に思い出したのだった。
「おはようございます、久々原生徒会長」
佳奈、市子、ミサキの三人が揃って深く頭を下げる。久々原は「ええ、おはよう」と涼しく挨拶を返すと、続けて、
「あなた達、百合園さんが困っていたら、ちゃんと助けてあげるのよ。昨日の今日ここへ来たばかりで、解らないことがたくさん、本当にたくさんあるでしょうから」
言外に何か含めるようにそう言うと、アオイ達のやってきた方向へ、花のような香水の匂いを残して去っていった。
すれ違い際にアオイもいちおう会釈をしてから、再び三人と共に歩き出す。
――そうだ。シノさんの敵は生徒会長の久々原さんで、この三人は久々原さんの部下なんだ。
なんとなく意識するのを忘れてしまっていたそのことを、アオイは再認識した。そして、友達を相手に非情とは理解しつつも、探るように尋ねた。
「その……みんなって、生徒会長とは親しいの?」
ん? と不思議そうな顔をしたのは、アオイのすぐ横を歩いている佳奈である。
「親しいかって言ったら、そうでもないかなぁ。あたし達三人ともアント――って、それじゃ解んないか。要は、あんまし有能な生徒じゃないし、しかも一年だから下っ端も下っ端。生徒会長と直接喋ったのなんて、今が初めてのくらいだよ。ねえ、市子?」
「うん、言われてみるとそうかも。生徒会長って、たまにわたし達の所に来ても、二年生の人達にちょっと何か言ったら、すぐに帰っちゃうし」
ジャージバッグをぶんぶんと前後に振りながら市子が言う。
そうなんだ、とだけアオイは返す。顔には平静な笑みを作ったが、久々原の徹底ぶりに思わず唸りたくなる程恐怖していた。
アントで、しかも一年の生徒にまで、久々原は抜け目なく記憶操作を行っている。それは、いかに久々原が根深くこの学校を支配しているかということの表れに違いなかった。
ここまで深く根を張っている相手に、本当に勝つことができるのか、正直、疑わしい。思わずそう感じてしまって、アオイは慄然と俯いて黙り込んだ。
だが程なく、開け放たれていたとある扉の敷居を跨いで、それでふと目を上げて、
「げっ!」
と、声を上げて足を止めた。すぐに自分の口を自分で押さえるが、三人もまた立ち止まって怪訝そうな顔でこちらを振り向く。
「ん? どーした、アオイ?」
「い、いや、なんでも……」
しばらく床ばかり見つめて歩いていたせいで、体育館がもう十歩先くらいにまで迫っていることに、全く気づかなかったのだった。
三人がこれだけ熱心に誘ってくるのだから仕方がない。そう思っていたが、やっぱり女子更衣室に入るのはマズい。アオイは常識的にそう思い直して、
「ゴ、ゴメン。私、ちょっとトイレに行きたくなっちゃった。だから、三人は先に行ってて」
「トイレ? ふーん。じゃあ、あたしも行っておこうかな」
「あ、わたしも行く。着替えてから行こうかなって思ってたけど」
「じゃ、じゃあ、わたしも……」
と、アオイの予測に反して、三人はアオイの傍まで後戻りしてくる。
なぜそうなる!? アオイは女子達の行動の読めなさに愕然としながら言い直す。
「いや、やっぱり、私、保健室に行ってくるよ。なんだか、やっぱり具合が悪くなってきた気がするから……」
「えっ……? アオイちゃん、大丈夫? 佳奈ちゃん、市子ちゃん、わたしが保健室に連れて行くから、二人は先生の所に……」
とミサキが、普段の控えめな様子からは意外な程率先して動き出す。これもまた予想外だったアオイは、
「い、いや、私は一人で……」
一体どうするのが正解なのか解らなくなりながら、慌ててそうつけ加えた。すると、市子がくすりと笑った。
「アオイちゃん、もしかして、みんなと一緒に着替えるのが恥ずかしいんじゃない? いいじゃない、女の子同士なんだから。見られたって平気よ」
「いや、でも……」
「え? ホントにそうなんだ。あははっ。アオイって、あたしと同じで男っぽい感じなのに、意外だね。大丈夫だって、みんな脱ぐんだから。恥ずかしがることなんてないよ」
佳奈は男らしく豪快にそう笑うと、アオイの首根っこに腕を回してロックしながら体育館へと入っていく。
そうしてそのまま、自分で歩くと行っても聞かない佳奈に引きずられるようにして、ステージ脇にあった更衣室へと不覚にも足を踏み入れてしまう。すると、やはりそこに広がるのは、めくるめく官能の世界なのだった。
扉側以外の壁三方に木枠の棚が据えつけられていて、部屋の中央あたりはガランとしている。部屋の大きさは教室くらいあるので、場所自体に狭苦しさは全くない――のだが、そこに自分達のクラスだけでなく他のクラスの生徒もいるものだから、まるで開店セールに盛り上がる店内のような人の混みようである。
男のものよりも明らかに白い肌の色。ピンク、水色、白、薄緑色、色とりどりの下着達。それに加えて、鼻を突くような、濃すぎる程の化粧品の匂い。
男の更衣室には全く存在しないそれらに、アオイはよく見もしないうちから一瞬で面喰らってしまった。
着替え終えた生徒と入れ替わるようにして、佳奈に手を引かれながら棚の前を陣取る。
「ほら、早く着替えるよ、授業始まっちゃう」
佳奈はそう言うと、セーラー服を恥ずかしげもなく脱ぎ始めた。濃いグレーの
スポーツブラが露わになって、ささやかながらもしっかりと膨らんだふくらみが目に入り、アオイは思わず息を呑む。
ここまで来たらやるしかないか。アオイはそうゴクリと唾を飲み下しつつ、左隣にいる市子とミサキをなんとなく見やる。
それは本当になんとなくで、別に下心があったのではない。だが、既に上着を脱いでいた二人の胸――平らながらも、女の子らしいピンク色の下着を着けたミサキの胸と、薄黄色のブラジャーからほとんど溢れかける程に盛り上がった市子の二房の果実に、アオイは思わず『反応』してしまった。
「うっ!」
ヤバい! と血の気が引く程焦りながら、アオイはその場に屈み込む。すると、市子がいつもの少しふざけた様子ではなく、深刻な様子で言葉をかけてきた。
「ちょっと、大丈夫? アオイちゃん、本当に具合悪かったの?」
「あ、あたし、先生に言ってくるよ。ミサキ、あんたが保健室に連れて行ってやりな!」
「う、うん。アオイちゃん、立てる?」
と、ミサキが下着姿のままアオイの顔を覗き込む。すると、胸が平らなだけに、少し屈むだけでブラジャーと胸の間に隙間ができて、危うくその中が見えそうになる。
「だ、大丈夫だよ、保健室に行かなくても。いつも、少し休んでれば治るから!」
アオイはミサキから目を逸らして言う。すると、こちらを向いているたくさんの女の子の中にいる銀髪の少女――ユキと目が合った。
ジャージの色が同じだから解らなかったが、どうやらここにいる他のクラスは二年生だったらしい。と、どうでもいいことに気づきつつ、しかし股間は、水色小花柄のパンツに包まれたユキのお尻のせいで、いっそう無視できない状態になる。
もう勘弁してくれ。まるでぎっくり腰になった老人のように、アオイはほとんど這うようにして更衣室を出たのだった。