『絶対聖域』(サンクチュアリィ)。3
人はあまりにも驚くと、ただぼんやりすることしかできないのだとアオイは知った。心臓がドッキンと跳ね上がるでもなく、思わず大声が出るでもない。椅子の背もたれをずるずる滑り落ちていく背中を起こし、いつの間にかずいぶんズボラになってしまっていた姿勢を正す。
「ど、どういうことでしょうか?」
「その……今まで黙っていて、すみませんでした。わたしは、あなたが男性だということを知っていたんです、初めから」
アオイの声は震えていたが、希司の声もまたどこか緊張していた。まるで、今の今までアオイが男であることを忘れていたかのように。
しかし、その少し上がった声からして、どうやら希司は冗談や当てずっぽうで言っているわけではないらしい。そうすぐに解るくらい、希司の言葉は確信に満ちていた。
もはや逃げ場もない。アオイはただ呆然と尋ねる。
「な、なぜ知っていたんですか?」
「それは……まあ、こうして同室になるわけですし……」
「え? ああ……まあ、それはそうですよね」
と、アオイはすぐに納得する。男と女が狭い部屋で同室になるわけだし、いくら希司が『絶対聖域』(サンクチユアリィ)という完璧な身を守る手段を持っているにしても、しっかりと説明は受けているのが道理というものだ。
「そうですか……。なんだ、知ってたんですか」
アオイが思わず苦笑浮かべると、希司もまたそれに倣うように苦笑した。
「え、ええ。でも、最初はとても驚きました。百合園さんがバスから降りてきた時、本当に、こんな可愛らしい人が男性なのかと思ってしまいましたし」
「え? ああ、そうですか……。はい、よく言われます」
どうやら希司は、男と知られてこちらが落ち込んだと思ったらしい。慌てて、場を明るくしようとしてそう言ったようだが、その言葉はアオイには禁句なのだった。
――希司さんも、やっぱり俺を異性としては見てくれないんだな……。ってことは、俺のことを許嫁だと知らないし、もし知ってても、きっと……。
咄嗟に出た言葉だけにきっと本音であって、やはり希司も自分を男として見てくれていないのだ。あくまで仲間、お友達としての男であって、異性としての男では決してないのだ。
「あ、す、すみません。アオイさんは男の子なのに、失礼なこと……」
希司は居心地悪そうにそう謝るが、真剣に謝られると、それはそれでまた辛い。したがって、ここはさっさと話を進めさせてもらうことにする。
「で、希司さんは、俺が本当は男だっていうことを知っていて、それで俺に仲間になってほしいということ……でしたよね?」
「そ、そうです」
と、希司はハッとしたように表情に力を込めて頷く。
「あなたは、久々原さんが記憶を操作しようとしても、それに惑わされませんでした。それはおそらく、彼女の記憶操作の力は、彼女と、その対象の持つ女子力、もしくはその素養のようなものを通じて行われるからだと思われます。教員の方々に記憶を操作されたらしい人がいないのも、大人の女性は既に女子力を持っていないからでしょう」
「なるほど。そういうわけなら確かに、俺以上に力になれる人はいないかもしれませんが……」
「しかも、ただそれだけでなく、わたしには男性の力が必要なんです」
「男性の力……?」
「百合園さんも、もう知っていると思うのですが、わたしには非常な弱点があって、それは、とても運動神経が鈍いということです」
「運動神経? ああ、そういえば……」
何もない所で急に転ぶ。とにかく走るのが遅い。そんな希司の姿を思い出してアオイが呟くと、希司は切実に悩むように肩を落とした。
「わたしの『絶対聖域』(サンクチユアリィ)は、あらゆる干渉を撥ねつける壁です。物理的であろうと非物理的であろうと、全て、この壁は遮ってくれます。しかし、それは『防ごう』という意志があって始めて発動する力なのです。つまり、全く不意を衝かれてしまえば、文字どおりわたしは何もできません。そして、わたしは運動神経だけでなくて咄嗟の反応も鈍いほうで、これはわたしの致命的な弱点と言えると思います」
「ふむ……確かに」
「はい、そういうことです」
希司は、アオイへ真っ直ぐに目を向けながら首肯する。唇を真一文字に結び、その表情はどこまでも真剣だった。だから、その思いにこちらも本気で応えてあげたかった。許嫁に男気を見せつけるためにも、気持ちよく頷きたかった。だが安易にそうすることはできないのだった。
「でも……大丈夫なんでしょうか?」
「何がですか?」
「俺、この学校のみんなに男だとバレるわけにはいきません。俺はどうしても、ここを無事に卒業しなくちゃいけないんです。もしバレて退学になったりしたら、母の命が……」
「命……? 百合園さんのお母さんは、ご病気でもされているんですか?」
と、顔にこれまでとは違う緊張の色を走らせる希司に、アオイは小さく頷く。
「はい。俺にはよく解らないんですが……心臓が悪いみたいです。そう、医者に言われました。ストレスを感じさせたら、それだけ命の危険が高くなると。だから、俺は母の強い希望に従ってここへ来たんです」
「そうだったのですか。そちらにも色々と事情がおありなのですね……」
希司は表情を陰らせながら長い睫毛を伏せ、それから静かな強い瞳でアオイを見据えた。
「でも、それは大丈夫です。あなたがここで問題なく生活していけるよう、わたしが全力でサポートさせていただきますから。それに、わたしがあなたの運動神経を頼りにしようとしているとは言え、何も男らしく振る舞ってほしいとは思っていません。もしよろしければ、あなたがより女性らしく見えるよう、わたしが教えさせていただきたいです。わたしだって一応、ちゃんと女なんですから」
「希司さん……」
そうか。確かに、戦いで使う体力が女性として並ではなかったとしても、だからと言ってすぐに性別を疑われることは考えにくい。希司の考えはもっともで、また同時にその申し出はアオイにとって願ってもないものだった。
「解りました」
もう迷うことはなかった。母を悲しませることはない。それが約束されたなら、何を心配することもない。後はただひたすら許嫁に、男らしい気骨を見せつけるだけである。義務を果たす男の背中というものを見せてやるだけである。
「できる限りの力を、希司さんに貸すことを約束します。だから、その代わりと言ったらなんですけど、希司さんには、俺が女性らしさを学ぶための師匠になってもらいたいです」
「し、師匠ですか?」
「はい。俺が女としてここでやっていけるように、希司さんに厳しく指導をしてもらいたいんです。お願いします。俺は絶対に男だとバレるわけにはいかないんです。母の命が懸かっているんです」
「でも、わたしごときがそんな……! い、いえ、そうですね。女性らしさを教えると言い出したのはわたしなんですし、弱気ではいけませんね。これからの戦いであなたを守っていくためにも、わたしはそれくらいの心意気でいなくちゃいけないんですね」
希司は自らに対して言い聞かせるようにそう言うと、やや俯かせていた顔をすっと上げ、その澄んだ黒瞳でアオイを見据えた。
「解りました。わたしは百合園さんを守り導く師匠になろうと思います。これから先、色々と難しいこともあるでしょうが、共に歩いて行きましょう、百合園さん――いえ、アオイさん」
「はい、どこまでもついていきます、希司さん」
アオイがピンと背筋を伸ばして応じると、眉間に皺を刻みながらこちらを見つめていた希司が、自分の演技がおかしくて噴き出すように口元を軽く押さえた。
「ふふっ。ありがとうございます、アオイさん。アオイさんも、どうぞわたしのことは親しく、下の名前で呼んでください。何せ、わたし達はまず何よりも友人なんですから」
「そ、そうですか? じゃあ……はい、解りました。シノさん」
つられてアオイも笑うと、希司はしばらく手をつけていなかったお茶に口をつけて、それからふぅと小さく息を吐いた。
「ところで、アオイさん。お風呂はどうしますか? この寮には、いちおう大浴場があるのですが……」
「だ、大浴場!? まさか! そんな所にはゼッタイ行けません! いや、さっきは確かに『どこまもついていく』って言いましたけど……!」
「そ、そうですよね。割と空いていたりする時間もあるのですが……流石に、それは色々な意味で危険ですよね。じゃあ、アオイさんが先にシャワーを使ってください。わたしはいつも、もう少し遅くに浴びるので、後で構いません」
「は、はい、解りました」
師匠の命令は絶対だ。体育会系育ちのアオイは、上級生であり師匠でもあるシノの命令的な言葉に、ほとんど反射的に頷く。
そうと決まれば、と慌てて段ボールから下着、パジャマ、タオル、シャンプーとボディーソープを引っ張り出して、椅子に座り直していたシノに一礼してからシャワー室へと向かおうとしたが、
「あ、そうだ、アオイさん」
「は、はい」
不意に呼び止められ、アオイはなぜだかビクリとしてしまいながら振り返る。するとそんなアオイを、シノはなぜかアオイ以上にビクビクしたような表情で視線を上下させつつ、
「あ、あの、アオイさんは、その……わたしが……」
「……? シノさんが……なんですか?」
「え? い、いえ、あの……ええと、あ、そ、そうです、アオイさん、自分のことを『俺』なんて言っちゃいけませんよ。女子たる者、たとえ誰に見られていなくても、常に行儀よくなくてはいけないんですから」
「あ……すみません。解りました。では――私が、先にシャワーを浴びさせていただきます」
「はい。どうぞ」
と、シノは師匠然とお澄まし顔を作って言ってから、ふふっとどこかぎこちなくも明るく微笑んで、アオイもまた思わず笑みを返した。
綿あめのように柔らかくて甘いシノの笑顔に緊張を解かれながら部屋を出て、廊下の右側、部屋から二つ目の扉を開けて、廊下にあるスイッチで明かりを点けてから脱衣場兼洗面所へと入る。
「ふぅ……」
シノが思った通り優しい人で安心はしたものの、やはり女性と――それも美少女と同じ部屋で暮らすというのは疲れるものだ。シノには申し訳なかったが、どうしても男の本音として、アオイは早くもそう実感せざるをえなかった。
狭いが、清潔に保たれている脱衣場兼洗面所で、アオイはため息つきながらパーカーワンピースを脱ぎシャツとボクサーパンツを脱ぎ、全裸になる。すると、鏡を見ればそこにはいつもどおりの自分がいて、ホッとする。
――まだまだ女になりきるには時間がかかりそうだな……。
うんざりするような、どこか他人事のようにおかしいような、そんな複雑な気分で、アオイはシャワー室の扉を押して、
――シノさんが毎日使ってるシャワールーム……。
と、思わずアレコレと妄想し目と鼻の穴をギンギンに開きながら、アオイはその中へと足を進めたのだった。