『絶対聖域』(サンクチュアリィ)。2
微笑みかけてくる希司に、アオイはほとんど夢の中にいるような心地でカクカクと頷いた。自分の手を包んでいる希司の手のふわふわとした柔らかさと温かさもまた夢のようで、ただ呆然と首肯するほかなかった。
やはり今朝、自分が目にした戦いは勘違いなどではないのだった。本当に彼女らは、その不可思議な力、『女子力』を使って戦っていたのだ。
神々しい程までに艶やかで美しい希司の肌。ただ白く透きとおっているのではなく、ほんのりと朱を帯びながら雪のように輝くその肌は、まさに珠のように美しい。
確かに、これには誰も触れられないだろう。アオイはそう思った。この肌の美しさには、魔を寄せつけない神聖さがある。
その匂い立つような美しさにアオイは思わずとろんと見惚れたが、希司がその視線に戸惑うように目を伏せながらこちらの手を放した瞬間に気を取り直すと、そそくさと自らの席へと戻った。
それから希司の淹れてくれたお茶をゴクリと飲み、少し頭を落ち着けてから口を開く。
「なるほど。解りました。こういう力があるんなら、人の記憶を操作するなんていう力があってもおかしくないのかもしれません。ですが、なんでそんなことをする必要があるんですか?」
「それは、わたしが彼女の地位を脅かしかねない女子力を持っているためだと思われます」
「地位を……?」
はい、と希司は頷いて、初めからこの話をするタイミングを伺っていたかのように着々と話を進めるのだった。
「実は、わたしから百合園さんに一つ、お願いがあるのです」
「お願い、ですか?」
「はい。実は、わたしには夢――いいえ、野望があるのです」
「や、野望?」
希司はその眉間に力を込め、瞳の中で静かな青い炎を燃やしてアオイを見据える。
「そうです。野望です。少々、言葉を汚く言わせていただきますと、わたし、この学校をぶっ壊してやりたいと思っているんです」
「ぶっ――」
絶句した。
自分は今、何か聞き間違いをしたのだろうか? 鬼畜、ド変態というイメージは何者かによって押しつけられた偽りの姿。その実は、苦しみに耐え忍びながら救いの時を待つか弱き聖女。と思われた女性の口から飛び出した過激な言葉に、アオイの中の時が停止した。
思わず無意味な笑顔をヒクヒクと顔に作ってしまいながら、アオイは尋ねる。
「つ、つまり、希司さんは、その……ふ、不良になりたいっていうことですか?」
「不良? い、いえ、そういう意味じゃありません!」
希司は、口へ含んでいたお茶を噴き出しそうになりながら、ぶんぶんと頭を横に振る。
「別に、先生に刃向かいたいだとか、授業中に大騒ぎしてやりたいだとか、そういう意味で『ぶっ壊したい』と言っているわけではありません。わたしは、今この学校を支配しているカーストとでも呼ぶべき構造を破壊したいのです。そして、わたしの大切な友人を救いたいのです」
言葉を並べていくうち、自らに眠る怒りが次第に呼び起こされていったように希司は椅子から立ち上がり、拳を握り締めて続ける。
「この学校へ来たばかりの百合園さんもすぐに感じられるくらい、今、学校の状態はおかしくなってしまっています。女子力を持たない人はもちろんのこと、それを持っている人もまた、とても苦しい、抑圧された日々を送っています。こんな学校生活は、まともじゃないです。そうは思いませんか?」
「え、ええ、そうですね、思います」
「そうですよね。第一、わたし自身、根も葉もない噂を学校中に流されて、もう黙っていられません。悔しくて仕方がないんです。だから、どうにか生徒会長――久々原さんを倒して、この学校を作り替えたいんです。わたしの『絶対聖域』(サンクチユアリィ)は、生徒会長の記憶操作の女子力を遮断することができます。ですから、それもきっと不可能じゃないはずなんです」
「は、はあ、生徒会長を倒して……。でも、そんな単純なことなんでしょうか? これって、戦いで解決できる問題じゃないような……いや、久々原さんをこの学校から追い出せば解決するのかもしれないですけど、まさか希司さんは……」
「いえ、そんなことまでする必要はありません」
恐る恐る尋ねたアオイに、希司はその腰を椅子へ落ち着けながら言う。
「この学校では、生徒会長からその役職を譲り受けた人、あるいは生徒会長を戦いで打ち負かした者が次代のそれになる決まりになっていて、そうして生徒会長になった人は、山岳の巫女(山ガール)によるさらなる『祝福』を受け、その力が数倍、いえ数十倍になると言われています。つまり――」
「つまり、久々原さんを生徒会長という役職から引きずり下ろせば、それに伴って女子力も弱くなるということですか」
そうアオイが言葉の先を取ると、希司はニヤリと悪巧みするような顔で頷いた。
「その通りです。その証拠に、わたしが一年生で、まだ久々原さんが生徒会長でなかった時には、こんなにも大勢の人が記憶を操作されてはいませんでした。それはつまり久々原さんは、元々はあまり強い記憶操作能力を持っていなかったということです」
なるほど、とアオイは椅子の背もたれに背を預けて腕を組む。
「久々原さんが希司さんを目の仇にしているのには、そういう事情があったんですね。久々原さんにとって、希司さんはまさに要注意人物なわけで……」
「おそらくそうなのだろうと思いますが、しかし別にわたしだけが目の仇にされているわけではありません。強い女子力を持つ人は大抵わたしと同じように、身に憶えのないことを言われているようです」
「そうなんですか? なら、そういう人達と手を組めば、久々原さんにもじゅうぶん勝てるんじゃないんですか?」
「それはわたしも考えました。誰かにわけの解らない恨みを向けられた人は、もしかしたら自分が他の人に対して持っている恨みも的外れなもの、つまりは誰かに植えつけられたものなのではと気づいているかもしれないと。しかし、もしそんな人がいたとしても、残念ながら信用することはできないのです。またいつ記憶を操作されてしまうか解らないのですから」
「…………」
酷い学校だ。アオイは心からそう思った。なんで自分はこんな場所に来てしまったんだろう。そのようなことまで思ったが、同時に、自分が今ここにいることには大きな意味があるような気もしていた。
「ところで、希司さん。希司さんが救いたいっていうその友人って、誰なんですか?」
まあ名前を聞いても解るはずないのだが。そう思いつつも会話の一つとして尋ねると、希司はその目を食べかけのケーキへと落として、寂しそうに微笑んだ。
「その友人は……このケーキを、わたしに勧めてくれた人です。彼女はわたしの親友であり、恩人です。以前、まだアントだった頃のわたしを守ってくれたのは、彼女でしたから」
「……そうですか」
『学校をぶっ壊したい』
初め、その突飛な言葉を聞かされた時は、正直、希司の正気を疑いさえしたが、その言葉には確かな、心からの願いがあるのだとアオイは感じた。どうにかして、希司の――可愛い許嫁の『野望』を手助けしてあげたいとも思った。しかし、気がかりがある。
「じゃあ、希司さんの『お願い』っていうのは、私に、その戦いための仲間になってほしいということ、なんですね?」
「ええ、そうです。これはとても身勝手なお願いで、百合園さんにしてみれば、聞いて全く得のないものです。そうは解っているのですが――」
「い、いえ、私はぜひ希司さんの力になりたいと思ってるんです。私が言いたいのはそういうことじゃなくて、仲間になるのが本当に私でいいんですかっていうことです。私はたぶん……いや、絶対に女子力を使えるようになんてならないですし、きっと役には……」
「いいえ、そんなことはありません」
希司はやけにきっぱりと首を振った。そして、言ったのだった。
「あなたは男性です。あなた以上の仲間なんて、絶対に、どこにもいません」
「…………」
ん?