『絶対聖域』(サンクチュアリィ)。1
扉脇のスイッチで明かりを点け、ビニール袋に入ったケーキの箱を共有スペースのテーブルに置くと、希司はぱっと満面に笑みを広げてアオイを見上げた。
「では、ケーキを食べましょうか。百合園さんはコーヒーとお茶、どちらにしますか?」
「あ、私はお茶で……って、今からケーキ食べるんですか?」
つい数分前に夕食を食べ終えたばかりなのに、また食べるのか。そうアオイが驚くと、希司は問いの意味を理解しかねたように、
「そうですよ?」
と不思議そうな顔をして、ビニール袋から二切れの苺のショートケーキが入ったプラスチックの箱を出し、大切そうに両手で持つ。
「これはすごく人気のあるもので、しかも滅多に仕入れられないものなんです。だから、食べたくても食べられないのがほとんどなんです。なのに、ここへ来た初日にこれを食べられるなんて、百合園さんはとても幸運な人だと思います」
「はあ……。でも希司さん、いいんですか? 夕食を食べたすぐ後にそんなものを食べたら、太っ――」
あ、これは言っちゃダメだ。気づいて言うのを止めたが、希司は耳ざとく聞きつけたらしく、その円らな目に力を込めてこちらを睨んだ。
「百合園さん、今『太る』って言おうとしませんでしたか? しかも、『もう太っているからどうでもいいか』なんて思ったでしょう」
「い、いえ! そんなことは思ってません! それに、希司さんは別に太ってないと思います。ちょ、ちょっとぽっちゃりしてるっていうか、それくらいです!」
「『ぽっちゃり』というのは……褒め言葉なんでしょうか? 要は、やっぱりわたしは太っていると思ったんじゃ……」
「いや、だから、そんなことは本当に思ってないですから! っていうか、むしろ俺――じゃなくて私は、少しぽっちゃりしたくらいの人が好きなんです! こう、柔らかそうというか、包み込んでくれそうというか、そういう体型のほうが女性的に美しいと思っています! だから希司さんも、もう少し太っても大丈夫なくらいです!」
「そ、そうなんですか?」
と、希司は不意の反撃を喰らったように目を丸くして、顔を朱くしながら慌てた様子で目を伏せる。
そんな希司の様子を見て、自分はいったい何を口走っているんだとアオイは我に返る。自分も顔が熱くなるのを感じながらテーブルの前の椅子に腰を下ろすと、希司はどこか上ずったような声で言った。
「じゃ、じゃあ、早速ケーキを食べましょうか。百合園さんはお茶でしたね。今用意しますから、待っていてください」
私も手伝いますとアオイは腰を上げかけたが、希司はそれをやんわりと断って部屋を出ていった。
それから、希司はこちらへ顔を見せることなく、扉の向こうで何やらカチャカチャと食器の音を鳴らして、たっぷり五分くらい経ってから、二つの湯飲みと二枚の小皿をお盆に載せて戻ってきた。その時には、すっかり表情から動揺は消えていた。
そして、しばらく一人になれたおかげで冷静になれていたのはアオイも同じであった。
「もし授業で解らないことがあれば訊いてくださいね。わたし、これでも二年生ですから」
などと、希司は甘いショートケーキを幸福そうに頬張りながら、先輩らしい、かつ当たり障りのないことを喋っていたが、
「あの、希司さん」
決意して、アオイはその話を遮る。
「どうしても気になることがあります。率直に、訊いてもいいでしょうか?」
「ええ、なんでしょう? 早速、勉強のことですか?」
「いえ、そんなことじゃありません。希司さんのことです。私は今日この学校に来たばかりですけど、あなたのことについて色々と聞かされました。つまり、その……よくない噂を、です」
「ああ……そうですか。あはは……もう聞いてしまったんですか」
希司は気まずそうに笑った。手に持っていたフォークをそっと皿の上へ置く音が、かちゃりと小さく鳴る。
「はい。でも、私はどうしても、あなたがそんな人だとは思えないんです。あなたは今朝、私を助けてくれましたし、それに私の目が覚めるまで、保健室で傍にいてくれました。放課後にはわざわざ私をこの部屋まで案内してくれて、明後日の夕食が何かっていうことまで教えてくれました。そんなあなたが、どうしてみんなに嫌われなきゃいけないのか、全く理解できないんです」
全てこちらを騙すための策略なのか? いや、きっとそうではない。先程、部屋へ戻ってくる途中で見た、あの悲しげな横顔。アントを目にした後に浮かべたあの表情は、きっと作り物ではないはずだ。もしも窓ガラスに映る横顔まで演出できるというのなら、それはもう騙されたってしょうがないというものだろう。
そう思って、アオイが希司の瞳を真っ直ぐに見つめながら言うと、少し驚いたような顔でこちらを見つめ返していた希司は、再び困ったように、しかしどこか恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、とても嬉しいです」
「どうしてですか? どうしてこんなことに?」
「それは……」
と、悲しげというより何か迷うような様子で、希司は目を伏せる。
重くのしかかるような沈黙が流れ、だがアオイはじっと希司から視線を逸らさずに答えを待ち続けた。するとやがて、希司がその顔を上げた。強い瞳で、アオイを見つめ返す。
「そうですね。せめて百合園さんが、ここでの生活に慣れてから話そうと思っていたのですが……あなたが知りたいと言うのなら、お話ししたいと思います。ちなみに、百合園さんは理事長から『女子力』についての説明は、もう聞いているんですよね?」
「はい、聞きました。ここは山岳の巫女(山ガール)によって作られた聖域で、山岳の巫女(山ガール)に認められた人だけがそれを使えるとか、ナントカカントカ……」
神原の言葉を朧気に思い出しながらリピートすると、希司は小さく頷く。
「そこまで知っているのなら、話は早いです。今わたしを取り巻いているこの状況は、久々原生徒会長の女子力により作られたものです」
「生徒会長の、女子力……?」
確か生徒会長とは、今朝の騒動を収めてくれた優しそうな人――と思い出しながらアオイが呟くと、希司はその目をいっそう鋭くしてアオイを見据えた。
「彼女の女子力は、記憶操作。身体に触れたり、視線を合わせただけで、対象の記憶を操作できる能力です。あなたにもさっそく試みていたようですが、どうやら失敗したようです。百合園さんはあの戦いの後に、急に具合が悪くなったでしょう? あれはその影響だと思われます」
「記憶操作……?」
そんなバカな。とアオイは思うが、あの時、自分が不自然に気絶をしたのは事実なのである。絶句するアオイに、希司は淡々と続ける。
「ちなみに、女子力はわたしも持っています。周囲の人からは『絶対聖域』(サンクチユアリィ)などと呼ばれていて、その力を百合園さんはもう見ていますよね。ですが、改めてもう一度、お見せしておきたいと思います」
ちょっとこちらへ来てください。と、希司はアオイを立たせて自らの脇へと招くと、
「では、試しにわたしの手に触れてみてください」
そう言って、希司はこちらへとその右手を差し出した。
手に触れてみる? それで何が起きるというのだろうか。アオイは訝りながら、お餅のように白くふっくらとした希司の掌の上へ手を伸ばして――
「……え?」
息を呑む。
希司の掌に触れたはずのその手が、ピタリと、その寸前でなぜか停止したのだ。自分はそこで手を止めるつもりなどなかった。にも拘わらず、手は何かに強く阻まれた感触もなく空中で静止し、そこに白く輝く波を起こした。まるでそこに空間の断絶があるような、柔らかい空気の膜に触れているような感触が、微かに手にはあった。
唖然とするアオイに、希司は柔らかそうな頬をにっこりさせて自慢げに微笑む。それから、マジックは終わりとばかりに、そっとアオイの手を握った。
「これがわたしの女子力、『絶対聖域』(サンクチユアリィ)です。どうでしょうか。この学校には、こういう不可思議な力が実在するのだということを信じてもらえたでしょうか」