女子寮へ。1
「寮は玄関を出て十字路を右に曲がったほうにある、赤い壁の建物だよ。部屋の場所が解らなかったら、玄関の横の管理室にいるお婆ちゃんに訊けば解るから」
「うん、ありがとう。たぶん大丈夫だよ」
「じゃあ、わたし達はこれから生徒会だから。またね、アオイちゃん」
と、佳奈、市子、ミサキの三人と、二階の職員室前にある第二会議室の前で別れると、アオイは一人、教室棟を出て寮へと向かった。
「ミサキちゃん、可愛かったなぁ……」
玄関へと向かうアオイを見送るように、恥ずかしそうに微笑みながらひらひらと手を振ってくれたミサキの姿を思い出して鼻の下を伸ばしたが、今はそれどころではないのである。
――どうか、希司さんが自分の思っている通りの誠実な人でありますように……。
ひたすらそう願いながら、しばし通路を真っ直ぐに歩いた先の十字路を右へ曲がる。すると、真っ直ぐ先に寮の玄関が見える。
屋根つきの通路が寮の玄関まで続いているので、その屋根が邪魔で寮の全体像を一望することはできない。だが、中央の玄関から長く両翼を広げたその四階建ての建物が、ほとんど教室棟と同じくらいに大きいことは、ここまで歩いてくる途中に充分見たのでとうに知っている。
他の建物と違って、その壁が赤煉瓦で造られているせいなのか、それは西洋の歴史的建築物ふうの建物群の中でも一際どっしりとした、頑強とも言える風貌を備えていた。
高等部の全生徒、およそ四百名近くがここで生活しているのだ。寮の重厚な外観からそれを再認識しつつ、アオイはステンドグラスの嵌められた木製の扉を、まるで忍び入るようにそろそろと押し開いた。すると、
「あっ」
と驚いたような声を出して、玄関の正面、階段へと続く廊下の曲がり角の所に一人で立っていた少女が、こちらへ小走りに駆け寄ってきた。
わずかに丸みを帯びた、優しげな顔のライン。肩より少し下まで伸ばされた、しっとりと輝くストレートの黒髪と、それとは対照的に白い肌。まるで一輪挿しの白いコスモスのような清涼感がその周囲に輝き、傍まで駆け寄ってくると実際に花のような香りがふわりと漂って、アオイの胸を打った。
肩のラインや二の腕、ふくらはぎは、標準よりもほんの少しばかり肉づきがよいかもしれないが、その思わず抱き締めたり、抱き締められたくなる体型にも、アオイは妙にドキリとしてしまう。優しい子犬のように円らなその目にも、包容力の魅力を感じずにはいられない。
全てが優しくて柔らかくて、ふわふわと温かい。
こんな天使みたいな女の子が現実にいるものなのか。悔しいことに母の言う通り、アオイは一目見た時からシノに心を奪われているのだった。
寮の中は私服が許されるらしく、希司は今制服ではなく、白い半袖のトップスとピンクの小花柄ギャザースカートを纏っている。その私服姿のせいもあってドギマギするアオイを黒目がちな目で見上げながら、訝しげに尋ねてくる。
「何かあったんですか、百合園さん? 遅かったので心配していたんです」
「え? い、いえ、別に。クラスの人に、掃除のことだとかについて説明をしてもらっていただけです」
希司の悪行を数え切れない程聞かされていたなどとは、口が裂けても言えない。思わずアオイは目を逸らすが、希司は大して気にするふうもなく「そうですか」と、その身体を正面の階段のほうへと向け、
「では、わたし達の部屋へ案内をします。こちらです」
そうにこりと微笑んで、歩き出した。
アオイはその後についていきながら、やはり希司が到底、悪人とは思えないことに戸惑っていた。だが、これも希司の作戦なのだろうかと思ったりもする。
――俺を油断させて、それからイヤらしいことをしようと企んでいるのか?
イヤらしいことをしてくれるのであれば、そんな回りくどいことをしないでさっさとしていただきたいところだったが、そういうわけにもいかない。何せ、自分が男であることを絶対に悟られるわけにはいかないのだ。
「部屋は三階にあります。階段を上るのがけっこう面倒くさいのですが……まあ、運動になっていいですよね」
と、希司はアオイがついて来るのを確認しながら、足取り軽く階段を上り始める。アオイはその後に続きながら、気になっていたことをふと思い出して、尋ねてみた。
「そういえば、希司さん。昼休み、保健室にいた時のことなんですけど……あの時、俺――じゃなくて、私、何か希司さんに悪いことを言ったでしょうか? 見間違いかもしれませんけど、希司さん、あの時……」
泣いていましたよね。そう言外に含めて訊くと、希司はこちらを見ずに言った。
「いえ、あの時は……ただ、嬉しかったんです」
「嬉しかった?」
反芻すると、希司は肩越しにこちらを向いて「はい」とその目を細めた。
やっぱり、悪い人には見えない。だが、佳奈や市子は心の底から確信しているように希司は悪人だと言っていた。
うーむ、どうしたもんか。と心の中で唸って視線を落とすと、前を行く希司の白い膝の裏と、長いスカートからわずかに覗く太もも、丸いお尻に、図らずも見入ってしまった。
やや太いかもしれないが、太いという程ではない。絶妙な加減の、男にとっては実に理想的な下半身である。
揉んでみたい。頭に浮かんだ悪魔の囁きを、アオイはぶんぶんと頭を振って振り払う。
――そうだ。暢気にスカートを覗き込んでいる場合じゃないぞ、俺!
この少女と自分はルームメイトになる。ということはつまり、これからほぼ一年間、自分はこの少女と寝起きを共にするということなのだ。
果たして自分は大丈夫なのだろうか、色んな意味で。と、興奮というよりも不安で胸をいっぱいにしているうちに、三階へ到着した。
目前のニンジンから目を解放されたように、アオイは三階に着いてようやく初めて、ゆったりと寮内の様子を見渡した。
内装や雰囲気は、教室棟とほとんど同じである。違うのは部屋へ続く扉の数が増えて、それに覗き窓がついてないというぐらいである。だが、窓は廊下の突き当たり、つまり廊下の両端にしかないため光の入り具合はよくなく、既に暖色の明かりが灯されている。
まだ部活をしている生徒が戻ってきていないためだろうか、人影はあまりなく、雰囲気はひっそりと落ち着いている。柔らかい照明と木目の壁や床との相性のよさもあり、まるで品のよいホテルに迷い込んだような錯覚を覚える。
「荷物はきのう届きましたよ。警備の方が置いていってくださっていました」
「そうですか。後でお礼、言っておきます」
当然ながら慣れた様子で歩いて行く希司の後を、子供のようにアオイはついて行く。
すると、希司はやがて、『317』と金字で記された、黒いプラスチックのプレートが貼られた扉の前で足を止めた。
「こ、ここです」
と、シノはなぜか少し強張ったような声で言って、手に持っていた、小さなミカンのキーホルダーのついた鍵で扉を解錠した。しかし、鍵穴から鍵を抜かないまま、その動きをピタリと止める。
「……希司さん? どうかしましたか?」