始まりはバレンタイン
冬の朝は寒い。
着膨れしない程度に着込んで、大学の敷地内を一限目の講義が行われる教室へと急いだ。
一限目が始まる時間まであと五分。周りを歩く学生も、寒さに縮こまりながらも、目的地へと急ぎ足で向かう。
郊外に建てられた大学は、広大な敷地にいくつもの棟があり、移動するのも一苦労だったりする。
人波を避けながら、バス停から一番遠くにある棟へと向かう。
ついてない。
そうとしか言いようがなかった。
バスは大学につく前に、一つの高校の近くでも停車する。そこの高校で、今日は推薦入試があるらしい。
いつも通りの時間に駅に着くと、バス停には長蛇の列。いつも乗るバスには乗れず、いつもより二本も遅いバスに乗ることになってしまったのだ。
高校で入試があるとか、そんなの知らないし。そういうのがあるなら、掲示板とかで知らせてくれてもいいのに。
ついつい心の中で悪態をつきながら、急ぎ足になったり駆け足になったりしながら、とにかく急いでいた。
「うきゃっ」
前を歩いていた人を避けようとして、避けきれずに肩にぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい! 一限目がC棟であるから、急いでてて……」
ペコリと頭を下げて謝ると、今度は相手の顔を見た。
……あら、いい男。
「大丈夫だから。急がないと間に合わなくなるよ?」
彼は、ぶっきらぼうだけど、なんとなく優しい感じで私に急げと促した。
朝からかっこいい子を見れて、しかも喋れちゃってラッキーくらいに思って、私は再び先を急いだ。
それなりに大きい学校だし、学科や受講科目が同じでない限りもう二度と会うことはないだろうな、なんてちょっと残念に思ったりして。
つまりはぶっちゃけ、私の好みのタイプだったんだ。
教室にたどり着いたのは、一限目が始まってすぐのこと。車通学の友だちは、もちろんとっくに来ていて私の席もとっておいてくれた。
教室の真ん中辺り。黒板もよく見えて、それでいて先生に近すぎない。すごくベストな位置だと、私たちが思っている席。
私を見つけて軽く手を振る友だちの隣に腰をおろし、慌ててテキストを準備する。
「まだ先生が来てないんだよー」
友だちに言われて、ようやく先生がいないことに気付いた。
十分ほどしてやってきた先生は、どうやら私と同じ目にあったらしい。バス通勤の先生は、駅前の長蛇の列にビックリした上に、何本か乗れずに見送ったんだって。
それならそんなに急ぐこともなかったかな、なんて思ったりして。
あ、でも、急いだから朝からかっこいい子を見れたわけだし? ちょっと複雑な気分だった。
◆◆◆
そんな出来事も忘れてしまった、半月ほど後のこと。
同じ大学の別の学部に通う、小学校からの腐れ縁に用事があった。とりあえず電話してみると、講義の空き時間でクラブ棟でまったりしてるとか言う。
私も次の時間は空いてるし、クラブ棟まで足を運ぶことにした。
私はどこのクラブにも所属してないので、クラブ棟へ来ることなんてまずない。
クラブ棟と言っても、プレハブ小屋がたくさん並んでいるだけ。扉や窓にクラブ名が書かれていたり、勧誘のチラシが貼られていたり。それぞれが個性的だった。
ちょっと異様な光景が珍しくて、ついつい周りを見回してしまった。
教えられた通りにプレハブ小屋の間を進んでいくと、目的の部屋にたどり着く。
窓の半分は、冬に見るには寒々とした青色のカーテンに覆われていた。窓に貼られたクラブ名が、カーテンによってよく見える。
『ゲーム同好会』
いったい何をしているのか、すっごい不思議。
カーテンの開いてる窓から中を覗きこむと、寝転んで本でも読んでるらしい悪友――佑介の姿が見えた。
軽く窓を叩くと、すぐに佑介が気付いてドアを指さした。入れってことかな?
ドアノブを回すと鍵はかかってなくて、少しきしむような音を立ててドアが開いた。
「よっ、何の用だった?」
上半身だけを少しこちらに向けて佑介が軽く片手をあげた。
「先週の同窓会の写真。昨日、預かったんだよ。すぐに渡さないと忘れちゃうから」
促されて中に入ると、私は写真の入った封筒を手渡した。
「サンキュー。オレ、カメラとか持ってなかったし、頼んどいたんだよね。お前なら同じ大学だからって」
いや、あんたも私も地元だし。実家から通ってるし。写真くれた子も実家から学校行ってるし。中学の同窓会なんだから、家もそれほど離れてない。私を通す意味がわかんないんですけど。
「そこらへん、適当に座って。そこの冷蔵庫にジュースとかあるから。上にある紙コップでも使って飲んでいいよ」
まるで自分の部屋みたいにくつろぐ佑介の言葉に、なんとなく帰るタイミングを失う。冷蔵庫を開けると、私の好きなお茶が置いてあって遠慮なく頂くことにした。
することもなく、部屋の中を見回してみる。
さすがゲーム同好会とでも言うべきか。古そうだけど大きなテレビと、その周辺に様々なゲーム機種。並んだ棚の中にはたくさんのゲームソフト。
ゲームで遊ぶっていう同好会なのかなぁ……。
ぼんやりとしている私に構うことなく、佑介は本――どうやらマンガっぽい――に夢中らしかった。
佑介はいつまでも読むのをやめる気配はなく。見回すのにも飽きた私は、そろそろ帰ろうか、なんて考えていた。
だって、写真を渡した時点で私の用事は終わったわけだし。
座れば? なんて言った佑介本人は、別に私に用事がある風でもない。てことは、私がこれ以上ここにいる必要はないし。ていうか、私ってばなんでまだここにいるの? って思えてきた。
……うん、やっぱり帰ろう。図書館にでも行こう。読みたい本もあるし。
そう決めて立ち上がろうとした瞬間、慌ただしくドアが開けられた。
「佑介! さっきのメール……!」
どうやら急いで走ってきたらしい彼は、外は寒いにも関わらずうっすらと頬が上気していた。
突然人が入ってきたことにビックリして、私はあげかけていた腰を再びおろした。
ドアをしめて靴をぬぐ彼の顔は、下を向いていてよく見えない。
「佑介、誰? 私、帰った方がいいよね?」
とりあえず部外者の私は帰ろうと、もう一度立ち上がろうとした。
そんな私を、佑介は軽く身振りでひき止めた。佑介はいったい何をしたいのか。今日の佑介は謎だ。
「あ~、あいつ? ここの部長みたいな。つってもタメだし? 気ぃ使う必要もないよ」
むー。よくわかんないんだけど、とりあえずもう一度腰をおろした。
部長さんだという彼は靴を脱ぎ終えて、なんだか挙動不審で佑介の隣までやってきた。佑介の態度が気に食わなくてそっぽを向いてた私は、その気配を感じながらもそのまま。
だけど彼が座る気配がしなくて、何やってんだと顔を向けて、ようやく彼の顔をきちんと見ることになった。
まじまじと彼の顔を見つめる。彼の顔には見覚えがあった。
……思い出した。高校入試のせいで学校につくのが遅れた日。私がぶつかってしまった人だった。
また会えるなんてラッキー。やっぱかっこいいわー。
「司?」
佑介が彼を見上げて声をかける。彼の名前は司というらしい。心の中でそっとメモする。
「座れば?」
佑介に促されて、司君はぎこちなく佑介の隣に正座した。
なんで正座?
佑介は司君が座ったのを見て、なぜか肩を震わせて笑いを堪えていた。
少しして落ち着くと、マンガをパタンと閉じた。ようやく読むのをやめることにしたらしい。
司君の隣に胡座をかいて座ると、司君と私の顔を交互に見比べていた。
会話はなく、沈黙に包まれたその部屋で。
司君はうつむき、私は顔をあげて、佑介は司君と私の顔を見比べて。微妙な空気が漂っていた。
微妙な空気が数分続き、私はとうとう居たたまれなくなった。
「佑介? 私の用事は終わったし、行っていい?」
「え~? 行っちゃうの?」
何でか佑介は不満げで。
「まぁ、オレは香織に用事はないんだけどね」
ないんかい。ないなら、帰らせてくれてもいいのに。
「でも、司は用事があるんだってさ。香織に」
佑介は司君の背中を叩くと勢いよく立ち上がり、「んじゃ」と部屋を出て行ってしまった。
……なに? 今ってどういう状況?
意味わかんないし。
とりあえず、司君は私に用事があるらしいので、司君の方を向いてみた。
完全に下を向いた司君は、どんな表情をしてるのかもわからない。
いたたまれない。何、この雰囲気?
何か、何か喋れ。
司君の頭を睨み付けて念じる。
私の念が伝わったのだろうか。司君がゆっくりと顔をあげた。なんか顔が赤い。
と思ったら、今度は手元に持ってたカバンをあさり始める。
チラリと時おり見える司君の顔は、やっぱりかっこ良かった。好みのタイプだわ。
司君がカバンの中をあさるのに夢中になっているのを良いことに、私は彼の顔をしっかりと眺めていた。
「これっ」
ようやく目当てのものが見つかったらしい彼は、何かを私に差し出した。
かわいらしくラッピングされたそれは、今の時期、店頭にたくさん並べられているのとよく似ていた。
「えっと……、これは?」
突然目の前に登場したそれに、私は驚きを隠せなかった。
「俺、君のことが好きです。俺のこと何にも知らないと思うし、わけもわかんないと思うけど。これだけでも受け取って下さい」
あまりの驚きに言葉をきちんと理解することができず、言われるがままに包みを受け取った。
私が受け取ったのを司君は何度も確認すると、すごく、すごく嬉しそうな顔をした。
その顔を見ていて、ようやく言われた言葉を脳が理解した。
好きって言った?
司君が、私のことを好き?
なんで、どうして?
この間、ぶつかったのが初めてだったと思うんだけど。こんなタイプの子、そうそう忘れないだろうし。どっかで会ったっけ?
喋ったのだって今が初めて、のはずだ。なぜ好きだとかそういう話になるんだろう。
さっぱりわからない。
私は、よっぽど困ったような顔でもしていたのだろうか。
「ごめん。突然で。ビックリしたでしょ?」
彼の方は少し落ち着いたようだった。私は、頭を上下に動かし、ビックリしていると意思表示をした。
「俺、高井司って言います。佑介と同じ建築科」
彼は自己紹介を始めた。佑介と学科が同じで、さらに同じ同好会に入ったこともあって仲が良いんだそうだ。
「えっと、……なんで私?」
素直に疑問をぶつけてみた。彼はきちんと答えてくれると思ったから。
「この間、香織ちゃんが俺にぶつかったでしょ? あの時にかわいい子だなーって思って」
やっぱりアレが初対面だったらしい。
「なんていうか、一目ぼれ? みたいな感じかなー」
「それにしても、よく私が誰かわかったよね?」
そこも疑問だった。
「あぁ。あの時さ、すぐ後ろに佑介がいたの、気付かなかったでしょ? 佑介が教えてくれたんだ」
全っ然、気付かなかった。佑介、いたっけ? 記憶をさかのぼっても、佑介を見た記憶はこれっぽっちもなかった。
「今日、ここに香織ちゃんが来ることも。佑介がメールで教えてくれた。突然だったからビックリしちゃって……」
それ、用意しておいて良かった。って司君は微笑む。
「コレって、チョコ……だよね? なんで?」
そう。バレンタインシーズンの今、どこの店頭にも特設コーナーみたいなのがあって、色んなチョコが並んでたりする。
「だって明後日ってバレンタインじゃん? 日本では女の子が男の子にチョコ持って告白する日。海外だと男女関係なく愛を伝える日でしょ? だから、俺からチョコ渡して告白もアリかな、って」
照れたように司君が少し俯いて笑う。
「バレンタインのお返しはホワイトデーにするもんでしょ? だから、それまでオレのこと、ちょっとでも知って下さい。返事は待つから。お願いします」
段々と喉の奥から絞り出すような声に変わっていった。
……緊張、してるよね。そりゃ。
なんだかとっても、胸の奥がぎゅっとされたような気分になった。
「うん、わかった。とりあえず友だちって感じでよろしくね?」
他に言葉が思い浮かばなかった。
こうして私たちは、とりあえず友だちになったのだった。