悠人の場合
彼女は、悪女だ。
彼女は、悪魔の化身だ。
彼女は、天使だ。
彼女は、冬の精霊だ。
さまざまな印象と感想を抱かれる彼女。それも仕方ない。
透き通る白い肌には、つい手が伸びてしまいそうになるし、小さな唇から紡ぎだされる言葉は一言一句聞き漏らしたくない、という気にさせる何かがある。その唇が上下に動くだけで心は無駄にどぎまぎしてしまう。黒目がちな大きな二重瞼は意志の強さと同時にどこか儚げな雰囲気を感じる。
もう、何もかもが悪女だ。
そんな彼女を前にすると大抵の男は、彼女と関わりたい気持ちと、一生関わりたくないとういう矛盾した気持ちがいったりきたりする。
そんな悪女の名は、菅原 結衣。僕はできることなら彼女とは関わりたくない、と強く思っているが残念ながらそうもいかない。
なぜなら幼馴染だからだ。
「悠人。ねぇ、悠人?」
彼女独特の甘ったるい声音が耳に届くが聞こえない振りでやり過ごす。
「ねぇ、ゆうと」
それを面白がるようにゆっくりと、一言一言を紡ぐ彼女に僕は今にも発狂してしまいそうになる。
「おい、悠人! スガワラさんが呼んでる!」
僕が助けなければ!
そう思ったのか、隣に座る友人は僕の肩を強く揺すった。
「知ってるよ。目の前で呼ばれてるんだ、聞こえてる」
肩に置かれた友人の手を退ける。
「まぁ、酷いのね」
彼女は顔を俯け、悲しそうに肩を震わせた。
隣の友人は、顔を青ざめ、僕を鋭い瞳で射抜いた。
勘弁してくれ。
「結衣。遊ぶのはやめろ。それに、良太。何回このやり取りをしてると思ってる? いい加減、やめてくれよ」
頼むから、という僕の懇願を表した言葉は彼女の妖艶な笑みを見た友人のなんともいえない悲鳴のような、感嘆のようもので掻き消された。
ああ、なんてことだ。
「悠人こそ慣れて欲しいものだわ」
「そうだよ。僕たちの挨拶と言ってもいいのに。ね?」
さっきの気弱そうな態度とは打って変わり、凶悪な笑みを浮かべる友人にため息がこぼれる。
なんだかんだと友人も彼女の悪ノリにのっかる酷いやつなんだ。
ああ。
言い忘れていたが、この友人も幼馴染だ。
だが、友人は何を思ったのか甚だ疑問だが、『彼女のことを恋い焦がれた青年というキャラ作りをする』という奇妙な宣言してからこのわけのわからない茶番が毎朝繰り広げられることになった。彼らのセリフはいつもほぼ同じだ。意味は全くわからないが――僕の苦言を待ち望んでいるのか――僕が何か発するまで永遠に続く。恐ろしい悪夢だ。
「いい加減、飽きてくれない?」
「悠人が不甲斐ないから終われない」
友人はわざとらしく肩を竦めた。
どうやら今回も僕の台詞は友人の思い描いたセリフではなかったらしい。
「何度も言うけど、僕の口から良太がのぞむセリフはきっと出てこないよ」
「いいや。出るさ」
爽やかな顔して言わないで欲しい。
「結衣、もういいだろ? 早く自分の教室へ戻りなよ」
友人の奇人さは今に始まった事ではない。大きくため息を吐き捨て、とりあえず彼女に帰るよう促した。
「あら。冷たいのね」
そう言って席を立つ。
その一部始終を遠巻きに眺めていた男どもの視線を絡め取るようにして、教室を後にした。
「まるで悪女だ」
そう言い放つと友人は面白そうに笑った。
「ああ、そうだな。彼女はまさしく悪女だよ」
そんな悪女と手を組んでるのは一体どこの誰だと思っているんだ、と詰ってやりたかったが、それよりも先に友人が「でも、女の子だよ」と優しく言い放った。
「良太?」
「でも悠人は馬鹿だからなー」
友人の呆れた声音と大げさなため息が横から聞こえた。
「良太、君は僕よりも馬鹿だ」
「頭の良し悪しじゃねーよ。そんなことより、今日お昼から天気が荒れるらしいね」
「そうらしいね。傘、持ってきた?」
「いや、俺は今から帰るから大丈夫」
「はぁ?」
この男。
「そういえば。結衣が昼休みに屋上に来てって言ってたよ」
「それを言いに来たのか。わかった。行っておく」
どうせロクなことじゃない。が、彼女のわがままを無視することのほうが厄介なんだ。それを僕は知ってる。
◆ ◆ ◆
昼休みを知らせるベルが鳴ったので、机の上を片付けてから立ち上がる。
よし、行くか。
今から始まるであろう厄介ごとを前に、なけなしの気合を入れ、屋上に向かった。
冷たいドアの取っ手に触れた瞬間、あまりの冷たさに帰りたくなったが、誤魔化すようにおもいきドアを開けた。
冷たい風が顔面に容赦無く向かってきた。
心中で悪態をつけながらドアを閉め、辺りを見渡すと彼女が白いマフラーを首に巻きつけて柵に寄りかかってグランドをぼんやり眺めていた。
「結衣」
声を掛けると勢い良く振り返った。
「あら。悠人」
友人が来ると思っていたのか、困惑したような表情を浮かべたが、すぐに何事もなかったように笑顔を貼り付けた。
悪女に相応しい妖艶な笑みだ。
僕はため息を吐き捨てた。
彼女は微笑みながら器用に眉を顰めるという芸当を披露した。
「それで? 何かあったのか?」
彼女の肩が少し震えたが、それも悪女の仕草のひとつのように感じた。
「何かって。別に何も…」
口ごもる彼女は久しくみていなかったので驚いた。思わず目を見開き、彼女を見遣ると彼女は視線を外し「良太に相談してたのに。どこに行っちゃたのよ。全く」と友人への恨みを述べた。
「また二人で悪巧みでも企てたんだろうけど、良太なら早退したよ」
「酷い人」
そう言うと彼女はようやく自分のペースを思い出したのか、肩を竦めた。
「僕に用がないなら戻るけど」
風が冷たいしね、とこぼすと彼女は「ま、まってよ」と縋りついてきた。
一体なんなんだ。
「結衣。どうしたの? なんか変だよ」
「そ、その…」
言い淀むなんて本当に珍しい。
珍しくてつい続く言葉を待ってみた。
が、中々話そうとしないので、とりあえずマフラーを巻き直し、口元まで隠した。
本当に寒い。
どうしたもんか、と悩んでいると頬に冷たさを感じ、天を仰いだ。
雨か、と言葉にする前に彼女が「どうりで」とこぼした。
視線を彼女に戻すと、彼女の頬に白い花弁がひらりと舞い降りた。
「寒いと思ったわ」
震える肩を強気に押さえつけ、そう言い放ち、顔を背けた。その横顔は確かにこの舞い踊る白い花弁の精霊のように美しかった。
彼女は本当に美しい。それは間違いない。周りが悪女だと罵るのもわかるし、天使だと崇めたくなる気持ちもわかる。
だが、彼女は彼女だ。
せめて僕たちだけでも彼女をひとりの女の子ときてみてやりたい。
友人だって同じ気持ちだろう。
「悠人」
彼女独特の甘ったるい声音をどれだけ聞いてきただろうか。
「なに?」
彼女は、僕をあざ笑うかのように、いや、試すように微笑んでみせた。
気を抜くと積年の想いが白魔の如く勢いづいてしまいそうになる。
彼女はきっと知らない。
「今年こそは一緒に過ごしてくれるよね?」
泣きそうに歪む眉から視線を逸らす。
「…何のこと?」
はぐらかしてくれ。
頼むから。
「ううん。なんでもない。積もってきそうな勢いね。教室に戻ろう」
僕たちはまだ仲良しの幼馴染で居た方がいいんだ。
そうやって自分の気持ちも彼女の気持ちも友人の気持ちもこの儚い天気のように積もっては消える。
そうあるべきだ。
きっとそれが正しい。
「酷い人」
それが友人のことか、僕のことか、聞くのは怖かった。