古き友からの依頼 前編
質問好きの竜に紹介された温泉の心地は最高だった。
長い旅路の疲れが癒えて、心の悲しみも癒された気がした。
体と心を癒すための旅に出てから一月と半。
久方ぶりの自宅を前に、私は呆然と立ち尽くしていた。
無数の穴が自宅の周囲に。
そして、壁と窓ガラスには、驚異的とも言える程の多数の落書き。
加えて家の屋根の上には、夥しい数の石ころが投げ上げられているという状況である。
「勘弁してくれ……」
犯人はおそらくあいつだと直感的に私は悟った。
そう、自称助手のフェネルである。
私はこの旅に出る事をフェネルに告げていなかった。
その事に対して奴は怒り、抗議の行動に出たのであろう。
「それにしても……」
酷すぎる。
後半は言葉に出来なかったが、それが私の感想だった。
穴の中を覗いて見れば、ご丁寧に底の方には生ゴミ等が入れられている。
壁や窓の落書きの大半は私に対する誹謗中傷で、中には「生ゴミ臭い!」と言うどうしても納得が行かない物もあった。
「(そうしたのはお前だろう……)」
心の中で呟いて、家の中に入ろうと鍵を取り出す。
片付けをするのは後にして、とりあえず今は休みたかった。
鍵を開け、中に入ると、玄関には手紙が散乱していた。
おそらく50通はあると思われる大量の手紙を抱えるようにして、私はリビングルームへ向かった。
そしてそれをテーブルの上に置き、上着をハンガーにかけた後にテーブルの近くのソファーに座る。
時計の針をふと見ると、午前10時11分を指していた。
目を瞑り、息を吐き、私は「帰ってきたな」と思った。
少し休んだら手紙を見よう。
そして、温かい紅茶を淹れて、それを飲みながら目を通すのだ。
そんな事を思いながら、私は眠りに落ちていった。
目を覚ましたのはそれから丸一日後の正午近くの事であった。
家の外から聞こえる音で、私は意識を取り戻した。
窓の外から差し込む光は日中だという事を私に教え、11時46分と言う時計の針は正確な今の時間を教えてくれた。
「(二時間近く眠ったか……)」
足の疲れは今は無く、眠気も殆ど無くなっていた。
丸一日寝たのだから、それは当然の事だったが、この時の私は本当に二時間しか眠っていないと思い、「私もまだまだ若いな」等と、上機嫌になっていたものだった。
体を起こし、何をしようかと考えていると、外から再び物音が聞こえた。
何かを引きずるような音と、重いものを放り投げるような音。
私はソファーから腰を上げて、確認の為に外へと向かった。
少し腹が減っていたが、不気味な物音が聞こえる中で食事をする趣味は私には無かった。
玄関を開け、周囲を見たが、そこに人影は発見できず、物音の原因も見当たらなかった。
はて、何が原因だろうと思案していると、「ずるり……どさっ」と言う音が、私の右手の方から聞こえた。
そこは我が家の脇であり、街道から裏口へと伸びている細い通路がある場所だった。
一体誰が何の為に不気味な物音をたてているのか。
会って、問い詰めてやる為に私は勇んでその場へ向かった。
家の角を曲がって見れば、そこには黒い袋を担いだ小さな少年の姿があった。
少年は「ふうふう」言いながら、黒い袋を担いで歩き、適当な場所を見つけては袋を「どさり」と地面に置いて、袋の中から何かを出しては私の家に擦り付けていた。
「うへへへ……先生が悪いんだ……僕に黙って旅行に行くから……ッ」
少年の正体はフェネルだった。
顔を見たと言う訳ではないが、こんな事をする奴は他にはいない。
ただ、行動それのみで、そいつがフェネルだと証明していた。
「……何をしているんだフェネル」
私の声を聞いたフェネルがそのままの体勢で「ぴたり」と止まる。
どういう言い訳をするのだろう。
と、静かに反応を待っていたが、フェネルは首を横に振り、まことに信じられない事ではあるが、再び袋の中のモノを、私の家に擦りつけ始めた。
ありていにいえば、無視されたのだ。
「何をしているんだと聞いている!」
二回目のそれは大声だった。
怒りもしたし驚いてもいた。
しかし、フェネルは生ゴミを擦り付ける行為をやめなかった。
「せ、先生が居るはずが無い! 先生は今頃南の島で、朝はマンゴージュースを飲んで、昼はバーベキューを食べて、夜はバイキング三昧で「もうここに住んじゃおっかなァ」とか、調子こいてるはずなんだ! だから僕の大好きなあの先生の声が、ここで聞こえるはずがないんだぁああ!」
絶叫したフェネルが立ちあがり、生ゴミを両手でぶちまけた。
その頬には涙が流れ、瞳には憎しみがありありと見えた。
旅行の場所は……
彼の予想とはだいぶ違ったが、つまり、フェネルは私について行き、おいしい思いをしたかったのだ。
できればそう、南の島で。
「うわぁぁぁぁあ……」
壁に両手をついたままでフェネルがその場で泣き崩れた。
「フェネル……」
「せ、先生ぃぃぃ……」
私の存在を受け入れたのか、フェネルが涙目で私を見上げた。
ひとしきり、お互いの視線が交差する。
「後片付けはお前がしろよ」
「……そんな言葉しかかけられないんすか!?」
一体何を期待したのか、フェネルはなぜか怒っていたが、伝える事を伝えた私にはその場に留まる理由は無かった。
後回しにしていた空腹を満たすべく行動に移らなければならない。
「ちょっ……待ってくださいよ先生! 一体どこに行ってたんですかぁ!?」
「後片付けをしたら教えてやるよ」
フェネルの質問をいなしながら、私は家の中へと戻る。
向かうは家の台所であり、目的は食事の準備であった。
「やっぱり南の島なんですね!? おいしいもの一杯食べてきたんですね!? 僕も誘ってよ! 誘惑してよ! 助手をつれていかないなんて、万が一の時があったらどうするつもりだったんですか!」
フェネルの妄想は確信に変わり、さらには非難に至ったようだ。
私が料理を作っている間も、フェネルは非難し続けていたが、「あ、僕、オムライスが食べたいです」と、さりげなく自身の要望を混ぜて来る事も忘れなかった。
10分後。ようやく料理が完成。
小麦粉を水と併せて混ぜて、塩をかけて焼いたものが今回の私の食事だった。
これにバターや蜂蜜をつけ、風味を豊かにして食べるのである。
「あれっ? 僕のオムライスは?」
「長く留守にしていたからな。殆どのものは痛んで使えんよ」
フェネルの疑問を解決すべく一応の答えを出してやる。
オムライスに使う卵等は、とてもではないが生き残ってはいない。
それでフェネルはなるほどと納得し、オムライスを諦めるはずであった。
「……オムライスって言ったでしょうがぁ! 僕のご飯は! もしかしてこれ!? 砂糖でも舐めてろって言う暗喩なのこれ!? アリ扱いなの!? ねぇ先生ってば!?」
が、フェネルはなんと激昂。
机を叩いて立ち上がり、砂糖を右手に聞いて来たのだ。
「もう駄目だ! 我慢の限界だ! そりゃあ生ごみとかは悪かったですけど、こんなやり方は男らしくないね!」
なぜ怒られているのかは理解不能だが、「この空気はマズイ」と言う事だけは私は経験で理解していた。
「で、今までどこに行ってたんですか?」
そう、フェネルの個性の復活である。
先ほどまでは、多少悪い事をしていたという自覚もあり、いつもと比べておとなしかった。
しかし、私を悪者に仕立てる事で(本人は本気でそう思っている)、場の主導権を略奪して本来のフェネルへと立ち返ったのだ。
こうなるともう手がつけられない。
何を言っても無駄であり、例え私が切れたとしても、それ以上の怒りをもって逆襲されるだけなのだ。
「うるせぇクソガキが!!」
と、キレて殴れば、流石にこいつも黙るのだろうが、そうすると村八分が確定なので、私に出来るのは折れる事だけだった。
「あー……実はな……」
故に、かなり面倒に思いつつも、フェネルに始終を話してやるのだ。
「え? 温泉? マジですか? 温泉入るのに一月と半分? うわぁオ…」
その後に続く言葉はなんだ、と、問い詰めようかと思ったが、どうせロクな事を言わないだろうと察した為に黙っておいた。
「時間の無駄遣いをする人だなぁ……」
聞かずとも続けたフェネルの言葉は、案の定、ロクなものではなかった。
「価値観は人それぞれだ。お前がそう思うのは自由だが、私は無駄とは思わんよ」
事実、悲しみは随分癒えたし、他の事を考える余裕も出来た。
もしも旅に出なかったなら、今の気持ちにたどり着くにはもう少し時間が必要だっただろう。
だから私は旅に出て本当に良かったと思っている。
誰に、何を言われても。
「ふうん……先生がそれで良いなら僕も別にいいですけど」
フェネルは最後にそう言ったきり、食事を始めて無言になった。
こちらとしても無理をしてフェネルと話す理由は無いので、そこで二人の会話は途切れ、簡素な食事は終了を迎えた。
「さてと……」
食事を終えて皿を持ち、シンクに入れて手を洗う。
それから手紙を読もうと思い、リビングルームに足を向けた。
「ちょっ、待って下さいよ!」
それを見るなり食事を加速し、残っていたモノを口に詰める。
そして、皿をそのままにしてフェネルは私の後ろについて来た。
「(もう少しまともな性格ならな……)」
例えるならば忠犬のようで、まともな性格なら可愛くも見えたろう。
しかし、実際は良くても狂犬の為、迂闊に利き手は伸ばせなかった。
「(まぁ、しかしこいつの事も、何とかしてやらんとイカンのだろうな……)」
そうは思うが光は見えず、とりあえずの形でソファーに座る。
目の前のテーブルには大量の手紙。
一日で読めるか分からない程だ。
「うむ……」
その中の一通を適当に取り、中身に目を通してみると、私に対する誹謗や中傷がこれでもかと書き綴られていた。
「地元の住人F」
というのが差出人の名前だった。
次の手紙も、その次の手紙も、同じような中傷めいた内容で、ひっくり返すと差出人はそれのどれもが「F」とある。
「あれ? スゴイ量の手紙ですね~? 苦情か文句の手紙だったりして?」
それを目にしたフェネルが言って、「にやにや」しながら近付いてくる。
証拠は無いがもう間違いない。
地元の住人F、と言うのは疑う事無くこいつの事だ。
穴を掘り、生ゴミを入れ、窓や壁に落書きをした上で、嫌がらせの投函まで続けていたとは……
「……病気だな。お前は」
正直言ってそれしか言えず、見下げ果てた目でフェネルを見つめた。
「な、何の事ですか!? 言いがかりはやめて下さいよ!?」
フェネルはそう言って、しばらくの間は喚いたが、私が完全に無視していた為に、観念したかのようにやがて黙った。
それから私の正面に座り、無言で床をじっと眺める。
「まさかとは思うが全てお前か?」
目を通した手紙は現時点で12通。
その全ての差出人が「F」だった事に疲れた私は、無駄を省く為に実行犯のフェネルに直接聞いてみる事にした。
「えーと……多分40通くらい……かな? てへっ♡」
「……」
私は改めて感じていた。
こいつはもはや救いようが無いな、と。
まだ13才の少年が連日行う事ではないな、と。
そしておそらくこれから先、こいつから逃げ出す事はできないだろうな、と……
「私が戻ってくるまでに手紙を分けて置いておけ。勝手に中身を見るんじゃないぞ」
「えーメンド臭いなぁー。先生宛の手紙なんだから、そんなん自分でやるべきなんじゃないですかぁ~?」
「良いからやれ! 流石に怒るぞ!!」
誰の手紙が混じったせいで、それが分かりにくくなっているのか。
私は一瞬切れかけたが、怒鳴りつけただけで何とか押さえ、フェネルが「ひっ……!?」と、驚いた事を見て、「いいからやれ……」と、トーンを落とした。
「ふぁーい……どうもサーセンでした……っと」
謝りはしたが誠意は感じない。
だが、それでも作業に入ったので、それで良しとして浴室に向かった。
およそ10分後。
シャワーを浴びて戻ってくると、フェネルは選別を終えてはいたが、第三者がやってはならない大きな禁を犯していた。
「あ、先生。このラッドさんって人がリンゴを送ってくれるって。僕リンゴは大好きなんで届いたら教えてくださいね。あと女の子の紹介はまだなのかって書いてますよ?」
即ち手紙の封を破り、中身を勝手に見ていたのである。
「中身を見るなと言ったはずだが……」
爆発しそうな怒りを殺し、あくまで冷静に私は言った。
しかし、フェネルは目を瞬かせ「え? 言いましたっけ?」と答えただけで、謝ろうとはしなかった。
「(こいつが13才の子供でさえ無ければボッコボコにしてやるんだがな……!)」
しかし、実際にはフェネルは子供で、一方の私は良い大人である。
いくら「カチン」と来たとはいえ、大人の理屈と暴力を子供に奮う訳には行かない。
「次からはやるな! 絶対にだ! 言ったからな! 次は許さんぞ!!」
故に私は今回も、そう条件づけた上でフェネルの暴挙を許すのだった。
「はいはい。それはそれで分かりましたけど、僕の言う事も聞いて下さいよ? リンゴが届いたら……」
「あーわかったわかった! 全部やるから黙っていろ!」
「ヒャッホィィィ! やったー!」
フェネルが手を上げて大喜びし、握っていた手紙を宙に投げた。
私はそれを素早く掴み、他の手紙も奪った上で、元居たソファーに腰を下ろした。
「リンゴパイでしょ、リンゴアイスでしょ、リンゴジュースにリンゴゼリー、毎日がリンゴ三昧でこの歳で糖尿になってしまいますぜ!」
「ああ、なれなれ、なって目を潰せ」
フェネルの戯言を流しながら、私は手紙を読んでいった。
フェネルの嫌がらせの投函ではない、私宛の手紙は全部で9通。
そのうちの6通は過去に診察した、患者からの感謝だと受け取れる手紙だった。
中には先日のクレアのものもある。
どうやら経過は良好で、あれから一度も変身は無いらしい。
そして、残りの3通の内、2通は報告のような手紙で、悪化したら診察をお願いします。
という感謝とも苦情とも、判別しがたいものであった。
最後に残った1通は、患者から送られたものではない、私の友人からの手紙。
名をラルフ・ワレンシュタインといい、二十年来の付き合いをしているが、顔を知らない友人である。
二十年以上付き合っていて、なぜ顔を知らないのか。
その理由は極めて簡単。
会った事が無いからだ。
手紙でのやりとりは続けているが、実際に顔を見て話した事は一度として無いのである。
「なぜ会わないのか?」と、問われれば、お互いの家が遠いから、なんとなく会えずにここまで来た。
と、正直に答える他にない。
彼の住む所がかなり遠く、危険な場所にある為に、気軽に行く気になれなかったのだ。
彼と私の出会いのきっかけは、今をさかのぼる事二十年前。
私と同業者だという彼が、輸血用の血を貸してくれと手紙を送ってきた事が付き合いの始まりだったと思う。
「(日付は今日か……? 相も変わらず見事なものだ……)」
忙しくない日や暇な日に手紙を送ってくる事は、彼の特技のひとつであった。
私が外出している時や、忙しくて構ってられない時には絶対に送ってこないのである。
「どこかで見張っているのでは?」と、疑った事も何度かあったが、それらしい者が居なかった為、「これは天性の特技なのだろう」と割り切る事に決めたのだった。
「すんごいニヤニヤしてますけど誰からの手紙だったんですか?」
「ああ、二十年ほど付き合っている気心の知れた友人からさ」
「まーたまた冗談ばっか言って。先生にそんな人が居るわけないじゃないですか。どうせアレでしょ? 女の患者さんからの手紙で勘違いしてニヤついてんでしょ? ホント先生はヤラシイんだから」
「いや、本当に……」
という、私の言葉を最後まで聞かず、フェネルは勢い良く立ち上がり、どこかへ「とことこ」と行ってしまった。
方向から察するにおそらくトイレに行ったのだろう。
抗議したい事が色々あったが、相手がそこに居なければそれも全くの無意味である。
「邪魔者が居ない内に読むか……」
気を取り直した私は封を破り、中身に目を通し始めた。
「久方ぶりだな。元気でいるか? 先のバンシーの一件では力になれずすまなかった。彼女の命は救えなかったが、心を救った君の事を、私は友として誇りに思うよ。そこで、突然だが君に会いたい。私が長年抱えている悩みを解決して欲しいのだ。君の都合が良かったらプロウナタウンへの十字路に、この手紙が届いた日の夜の0時に待っていてくれ。君に会える事を楽しみにしている。ラルフ・D・ワレンシュタイン」
手紙を封筒の中に戻し、それを懐にしまった私はそのままソファーに横になった。
勿論、会う事にやぶさかではない。
ただ、今まで会わずに来た事を一度に覆してしまうような、ラルフの悩みがひっかかっていた。
二十年付き合っていて、一度も聞いた事が無いラルフの悩みとは一体何か。
「(考えても仕方が無いか……)」
全ては会えば分かる事だ。
その為には夕方までを自然に過ごす必要がある。
「何かがある!」と、気付かなければ、フェネルは夕方に自宅に帰る。
それから少し眠っておけば、ラルフとの対面中に眠くなる事も無いだろう。
「そうだな。まずは自然に過ごすか」
考えをそこにまとめた私は体を起こして立ち上がり、何気ない一日を送るべく活動を開始したのであった。
この時間にいつもしていた事は、確か洗濯だったはずだ。
私はフェネルに怪しまれぬよう、鼻歌を歌いながら洗濯に向かった。
「……???」
それがフェネルが怪しみ始めるきっかけになるとも気付かずに……
私とフェネルは十字路に居た。
右手を選べばプロウナタウンへ。
正面を選べば大草原へ。
そして、左手を選んだならば、ドリアードゲートへも続いている道なき道がある十字路である。
時間は夜の0時前。
見渡す限りの視界の中に私達以外の人影は無い。
ラルフが徒歩でやってくるなら、そろそろ姿が見えなければ間に合わないという時間だった。
「もうそろそろ0時ですよね? 騙されたんじゃないっすか? 誰か来てる様には見えませんよ?」
フェネルがニヤニヤしている理由を、私はおおよそ理解していた。
このまま誰も現れず0時を過ぎてしまったら、私は友人に騙された痛い奴となってしまう。
フェネルはそれが楽しみでニヤニヤニヤニヤしているわけだ。
しかし、生憎私の友は約束を破るような男では無い。
実際に会った事は無いが、二十年来のやりとりの中で私はそれを確信していた。
「あー、あと1分で0時だ! もうコレ絶対来ませんよ! 先生可哀想ぉー!」
嬉しそうにフェネルがそう言う。
視線の先は私の腰にある、懐中時計の時刻である。
言われて時計を見てみれば、0時までは確かにあと一分。
騙された、という事よりも、ラルフの身に何かあったのではと嫌な予感が心によぎる。
そして丁度一分後。
時計の針が「かちり」と動き、0時を示す場所で止まった。
「もてあそばれたんですよ先生! あ~あ! やっぱ先生の事を理解しているのは僕だけって事ですね!」
フェネルが言ったその直後。
「イアン・フォードレイド先生ですね? 主人ラルフの使いとして貴方を迎えに参りました」
いつの間にそこに現れたのか。
私達の背後には、黒いドレス姿の女性が立っていた
女性は見た目は二十歳前後。
髪の色は金色で、前髪を全て後ろに流し、背中で一本にまとめていた。
雰囲気は理知的で、美人といって良い女性であったが、肌に生気が感じられないというか、なんとも奇妙な印象を受けた。
そして、女性の後ろには、一分前には居なかったはずの馬車が静かに待機していたのだ。
「う、うわぁああああ! お、お、お、おばけ! おばけェェェェ!」
フェネルが腰を抜かすのも今回だけは理解できた。
女性一人だけならまだしも、大きな音を出すはずの馬車までが突然現れたのだ。
おばけ、もしくは人外のわざと警戒するのは仕方が無い。
「そちらの少年はお子様ですか?」
そんな私達を意にも介さず、冷淡な語調で女性が言った。
「いや、助手……のようなものです。私の子というわけではありません」
ラルフの使いだと言う女性を無視するわけにはいかない私が、最小限の言葉で答える。
「そうですか。お一人用の馬車ですので、もし、連れて行くとなると少々狭くなりますが」
「それは……本人と相談します」
「わかりました。それではお話がまとまりましたら私に声をかけてください」
私の答えを聞いた女性は、歩き、馬車へと向かって行った。
馬車の運転席に座り、手綱を握った所を見ると、彼女が馬車を運転して、ラルフが待つ所へと案内してくれるようだ。
「と、いう事だがお前としてはどうしたい?」
フェネルは私の足にしがみつき、未だに「ガタガタ」と震えていた。
「気持ちはわからんでもないが、少しビビリすぎじゃないか。どうやら話も通じるようだしオバケ等では無いと思うが……」
「な、何言ってんですか先生! 先生には見えなかったんですか! さっきまでそこに立っていたでしょう! 顔が三つあるおじいさんが……!」
フェネルが森の木陰を指して、震えながらそう言った。
「……本当の事か?」
「本当ですって……っ!」
私達は馬車に乗った。
まるで飛び込むようにして。
「「出してください!早く!!!」」
フェネルと声が揃ったのはこれが初めての事であった。
私達を乗せた馬車は荒れた道を駆けていた。
石を撥ねた振動で馬車は度々大きく揺れて、その都度、背が高い私の頭は、馬車の天井へとぶつかっていた。
右手には湖。
その水面には馬車と月が映されており、私達の馬車と同じ速さで、湖の上を疾走していた。
左は森で、その向こうにはどこまでも連なる山々が見える。
この場所が一体どこなのか。
それは私には分からなかったが、出発してから二時間という時間のみで考えるなら、そう遠い所では無いと思われた。
馬車は駆け、時間が過ぎて、迎えた時間は2時50分。
出発してから3時間が経とうとしていた時に、景色にようやく変化が現れた。
左手の森が不意に途切れ、おどろおどろしい雰囲気の古い城が見えてきたのだ。
城の周囲には靄がかかり、薄ぼんやりとたシルエットが浮かんでいる。
その中を奇妙な鳥達が飛び交い「ギャアギャア」という気味の悪い鳴き声をあげていた。
背後には連なる山を備え、渓谷を前に構える城は、政治の為の城というよりは、戦いの為の城だというような物々しい印象を私は受けた。
「幽霊でも住んでいそうな城だな……」
誰にともなく私は言って、右手に座るフェネルを見たが、フェネルは扉に体を預け、目と口を開けて眠っていた。
午前3時という時間故、子供が寝てしまうのは仕方ないが、目を開けたままで眠るというフェネルの悪癖は甘受できなかった。
「普通に眠る事ができんのッ……!?」
フェネルの目を閉じようとして右手を伸ばしたその直後、馬車が大きく左に曲がり、私はその体勢のままフェネルに突っ込む形となった。
「しまっ……!?」
指はフェネルの鼻に刺さり、頭はフェネルの肩にぶつかった。
そして、その衝撃で馬車の扉が開いてしまい、私に押されるようにしてフェネルは車外に飛んだのである。
「いかん! なんということだ!」
慌て、右手に力を込めるとフェネルの体が宙で止まった。
幸か不幸かフェネルの鼻と私の指は繋がっており、それが最後の砦となってフェネルの命を救っていたのだ。
「フガ……?」
が、さすがに鼻が痛かったのか、フェネルは目を覚ましてしまい、
「フガンフガガフガガガーン!」
と、わけのわからない悲鳴を発し、暴れ始めてしまうのだった。
「腕を掴め! 両手で私の腕を掴むんだ! 死にたくなかったらいう事を聞け!」
「フンガガフフンガッガー!」
私の言う事がわからないのか、それともきちんと分かった上で従う事が出来ないのか、フェネルは腕を掴もうとせず、怒りの表情で「フガフガ」と何事かを私に訴えていた。
「文句なら後で聞いてやるし、こうなったのは私のせいだと思う! 悪いのは認めるから早く腕を掴め!」
「フンガゴゴフンガガガグゴー!」
フェネルがようやく腕を掴んだ。
私が非を認めた事で、フェネルの中でなんらかの心境的変化があったのだろう。
「なんでこんな事になってんですかぁ! あんた、さては……僕を殺そうとしたな!?」
「ひ、人聞きの悪い事を言うな! 例えそう思っていてもさすがに実行には移さんよ!」
「思っていても、ってどういう事ですか!? いつも殺したいって思ってんですか!?」
「(たまにそう思う時だってあるさ……!)」
最後のそれは口には出さず、私は腕に力を込めてフェネルを車内へ引き上げた。
幸いにもフェネルに外傷は無く、左の鼻の穴から少し、鼻血が出ているだけだった。
丈夫な子で本当によかったと思う。
「間もなく到着致します。車内に忘れものなどなさいませぬようお願いします」
こちらの喧騒に一切構わず、運転席の女性が言った。
直後には、渓谷にかかるつり橋を私達の乗る馬車が渡り始める。
どうやら私達の目的地は、先ほど姿を現したばかりの、幽霊でも住んで居そうだと感じたこの古い城のようだった。
お気に入りにしてくれた上で評価をして下さった方がいます。
やっぱり文法がアレなんですね…
反省に加えて努力であります。
読んで下さっている方々ありがとうございます!