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満月の夜にやって来たもの

 その夜、空には満月が浮かんでいた。

 暗い天には雲はひとつも見えず、幾千、幾万もの星と、月だけが輝いていた。


 夕食の片づけを終えた私は、散歩をする為に家を出た。

 それは習慣ではないが、こういう夜にはなんとなく私は外に出てしまうのだ。


 美しい夜空の下を30分程歩いただろうか。

 プロウナタウンと大草原との分岐点となる路地に私は着いた。

 この分岐点を右に行けばプロウナタウンの市街へと。

 そして、正面の道を行けば大草原へとたどり着く。


 しかし、私はそのどちらにも今の所は用事が無かった。

 今来た道を引き返し、自宅に帰るという事が当然かつ自然な行動だろう。

 私はプロウナタウンに灯る家々の明かりを眺めた後に、自宅に帰るべく踵を返した。


 私の右後方で何かの物音が聞こえたのはその直後の事だった。

 振り返り、物音が聞こえてきた場所を見ると、そこは「ドリアードゲート」へと続く深い森への入り口だった。

 風によって草木が揺れており、その事によって物音が確かに発生していたが、私が聞いた物音はそういう類のものではなかった。


 例えるなら草木をかき分けながら、息を殺して歩くような、そんな類の音だった。

 私は少し警戒し、森の中やその周辺を注意深く伺った。

 動物か、魔物か、或いは盗賊か。


 いずれにしてもこんな時間に森の中から出てくるものに無防備でいてはいけないだろう。

 私はいつでも逃げられるよう、身構えながら森を見ていた。


 どれくらい森を見ていただろうか、私の左前方にある森の中で何かが光った。

 草むらの中で光るそれは同じ高さに2つあり、闇夜の中でも爛々と眩しいまでに輝いていた。


 これは光ではなく何かの目だ。

 と、私が気付くに至った時には、それは姿を現していた。

 私の眼前に現れたのは茶色の毛をもつ狼だった。

 最初は犬かと思ったが、目つきや歯の鋭さと、犬よりも巨大なその体躯がそうでは無いと言っていた。


 なぜ、野生の狼が人前に姿を現したのか。

 私は疑問に思ったが、同時に少し困っても居た。

 例えば腹が空いていて、人間でもいいから食ってやろうと姿を現したのだとしたら、正当防衛とは言えど、この狼をある程度傷つけてしまわなければならないからだ。


「(何か食べ物は無かったか……)」


 ポケットの中を漁ってみると、果たしていつ入れたのだろうか、後ろポケットのひとつからふた切れの干し肉が発見された。

 おそらく干し肉ごと洗濯しているし、期限も相当気になったが、注意は引けると考えて、私はそれを狼に投げて与えて見る事にした。


「無理には食うなよ? 痛んでいるかもしれんからな?」


 通じるかどうかもわからないが、一応そう言ってしまったのは、食べて腹を壊してしまった時の責任感から逃れる為だ。

 狼はしばらく匂いを嗅いで、大丈夫だと判断したのか、肉の一切れを「ぱくり」と咥え、そのまま構わず食べ始めてしまった。


「……美味いか? そうか、それなら良いんだ。じゃあ私は帰るからな」


 美味しそうに食べている様子を見て少し安心した私は、食べ物に集中している今こそ立ち去る機会と判断し、後ろ歩きでその場から、少しずつゆっくりと離れていった。

 狼は追ってこず、食べる事に夢中になっていた。


「(やはり腹が空いていたのか)」


 狼の姿が小さくなって、かなりの距離を離れた私はそこで後ろ歩きをやめて、振り返って普通に歩き出した。


「(食べ物を与えてなかったら私は襲われていたのだろうか)」


 そんな事を考えた時、私は自身の後方から迫ってくる何かの気配に気が付いた。


「……食べ物を与えたのは失敗だったか」


 それはあの狼だった。

 私に追いつき、座り込み、物欲しそうに見上げている様子を見ると、「もっとくれ」と暗に要求している事がわかった。


「もう無いんだ。何も無い。分かるか? 何も持ってない」


 ポケットの中身を引っ張り出して私は狼に主張したが、狼はひとつ小さな声で「ウォゥ」と鳴いただけだった。


「ウォゥ、と言われても無いものは無いんだ。悪いがもう諦めてくれ」


 最後に「すまんな」と謝って、私は再び歩き出す。

 少しの距離を歩いた後に確認の為に顔を向けてみたが、狼は未だに座ったままで、こちらを「じっ」と見据えていた。


 どうやら分かってくれたようだ。


 と、私が安心したのも束の間。

 狼は小走りで追ってきたのだ。


「……お前には負けたよ」


 そんな事が繰り返されて私はついに心が折れた。

 自宅はもうすぐそこである。

 そんなに食べ物が欲しいのならば、納得するまで食わせてやろう。

 そうすればこの狼もおとなしく帰ってくれるだろう。

 私はそう考えて狼を自宅の中へと招いた。



 自宅へ帰ってきた私はシヤと共に台所に居た。

 勿論、そこにはあの狼も居て、今は食事の最中である。

 余り物の魚や肉を試しに与えてみたのだが、それはもう美味しそうに「ガツガツ」と食べてくれるので「ペットとして飼うのもアリか……」と私は密かに考えていた。


「なんか人懐っこいですね。野生の狼ってもっとやさぐれてるような気がしてました」


 そう言ったのはシヤだった。

 狼が食事している様を屈んで「じっ」と見ているあたり、動物を見る、という事がシヤは割に好きなのだろう。


「やさぐれてる……ですか」


 その表現が少しおかしく、心の中で密かに笑う。

 しかしシヤの言うとおり、この狼には野生としては人に馴れ過ぎている所があった。


 食べ物を与えてくれた者についていくというだけならまだしも、この狼は平然と家の中に入り込み、尚且つあまり警戒せずに食事を続けているのである。


「お前、剥製にされるかもしれないんだぞ? いいのか、そんなに油断していて」


 あまりの警戒心の無さを心配して私が言ってやったが、狼は一瞬食事を止めて、「ウォゥ」と鳴いただけだった。


「人間に飼われていたのかもしれませんね。警戒心が無さ過ぎる」

「だったら撫でさせてくれませんかね? 先生はどう思います?」

「あ、ああ、え~……それは、本人に聞いてみないと……」


見る事が好き、というどころではなく、どうやらシヤは相当に動物が好きなようだった。


「そうですよね……あぁ、きっとふわふわしてるんでしょうね……触りたいなぁ……撫でたいなぁ……」

「そ、そうですか」


 思わぬ一面を目の当たりにし、私は少々動揺していた。

 嫌いなよりは好きな方がそれは勿論良いのだが、私としてはなんとなく「度を越えている」と思ったからだ。


 と、そこへ食事を終えた狼が私たちの元へ近づいてきた。

 狼は私の前で座り、「満足した」というように小さな声で「ウォゥ」と鳴いた。


「どうやら満足してくれたようだな?」


 私の問いに狼は同じ声でまた鳴いた。


「ではそろそろ帰るか?」


 しかし、私の続く言葉のそれには反応を示さなかった。


「言葉が分かっているんでしょうか……」

「まさか……」


 シヤの言葉を否定して、私は裏口のドアを開けた。


「ほら、ここから帰れるぞ? お前も家に帰りたいだろう?」


 私がそう言ってみても、狼は声を発するどころかその場から「ぴくり」とも動かなかった。


「ああ~……もしや、とは思うが、ここにしばらく居たい、とか……?」


 その言葉には狼は間髪入れず「ウォウ」と鳴いた。


「言葉が分かっていますよ先生!」


 両手で口を押さえたシヤが「信じられない」という口調で言った。

 私も少しは驚いたが、まだ、この段階で完全に信じるつもりはなかった。


「偶然という事もありますから……」


 と、興奮するシヤを落ち着かせつつ、何か一発で分かるような実験を模索するのであった。


「そうだ。ではこうしましょう。私と貴女の名前を教え、名前を言った方の元へ来るかどうかを試すのです」

「絶対来ますよ! この子は絶対分かってます!」

「それは……その、実験が終われば分かりますから……」


 子供を溺愛しすぎた親バカのようになるシヤに不安を覚えながら、私は狼に私の名と、シヤの名を教えてルールを言った。

 これで分かってなかったら「アホな事をしてしまったな……」と、自己嫌悪に陥ってしまいそうだが、全てを一発で判明させるにはなかなかの実験だろうと思う。


 実験の結果は驚く事に10回中10回が正解だった。

 つまり、この狼は人の言葉が分かるのだろう。

 それが判明するなりシヤは勢い込んで「撫でさせてください!」とお願いし、本人の許可(?)を得た後に幸せそうに撫でていた。


「(こういう事もあるのだな……)」


 ひとつの奇跡を体験した私は感心しながらそう思い、本人が居たいというのであれば、この家に置いてやるのもいいと心の中で決めたのだった。



 翌日、カーテンの隙間から入ってくる太陽の光で私は目覚めた。

 時刻はおそらく8時前。

 特に意識はしてないが、体内時計というのだろうか、私は大抵この時間には目が覚めるようになっているのだ。


「さて……起きるか……」


 と、体を起こす前に私はベッドの上で寝返りを打つ。


「……?」


 そして右手に伝わってくる何やら妙に柔らかい感触に気づく。

 目を開け、そこを見てみると裸の女性が眠っていた。

 私の右手はその女性の胸を「がっしり」と掴んでいたのである。


「これは何だ……!?」


 私はそんな事を言ったと思う。

 そして大きな声でもう一度同じ事を言ったはずだ。


「どうしたんですか先生……ッ!?」


 そこへシヤが駆けつけてきた。

 勢いよくドアを開け、私と、裸の女性に気付く。


「違うんだ! これはその!」


 と、立ち上がったのがまずかった。

 私もそう、裸だったのだ。

 眠る時には服を着ない。それが私の習慣だった。


「い、い、い、イヤアァァァァァァー!!」


 バンシーの悲鳴が凄まじく、時には死者を出すという事を、私は身をもって知る事となった。




 女性の正体は狼だった。

 いや、正確に言うのなら、昨夜の狼の正体が女性だったと表現した方が良いだろう。


 女性の名はクレアと言い、年齢は21だと言った。

 髪の毛の色は茶色であり、耳や肩にかからない所で短く切って整えていた。

 クレアがなぜ狼になり、そして人間に戻ったか。


 それは彼女が「ライカンスロープ」という半獣人になってしまったからだ。

 ライカンスロープとは人と獣を行き来してしまう人の事で、獣になってしまう契機や、人間に戻れる契機等ははっきりとした事は分かっていない。


 クレアはプロウナタウンの向こう、リーポ大草原を抜けた先のファインという街の住民で、街道を歩いている時に飢えた狼に噛まれた事があると言った。

 そして、それから何日かした後にライカンスロープになってしまったのだそうだ。


 病を意識してからずっと彼女は1人で戦っていたが、偶然訪ねてきた恋人に変身する所を見られてしまい、恐怖に震える恋人を置いてその場から逃げてしまったらしい。

 狼で居る時の事ははっきりとは覚えていないらしく、しっかりとした意識が戻ったのは3日前の事件以来、今日が初めてという事であった。


「どうしてこんな事になったのか……普通の人間に戻りたい……」


 それは一時人間に戻ったクレアの悲痛な願いであった。

 気付くと、シヤが私を見ていた。

 シヤは何も言わなかったが、その表情には「彼女を救ってあげてください」という、懇願のようなものが浮かんでいた。


 思えばシヤはいつだって自分の事を後回しにし、他人の事を優先していた。

 今回、クレアを救う為に時間を割く事は簡単だった。

 やれるかどうかは分からないがやれるだけやってみようと思う、と、クレアに告げれば良いだけなのだ。


 だが、それをしてしまったらシヤが抱えている問題が更に後回しになってしまい、最悪、シヤが恐れている刻限に間に合わなくなるのではないか。

 そんな事を考えた為、私はクレアに何も言わず、シヤの表情に気付かぬ振りをし、口をつぐんで黙っていた。

 クレアのことはもちろん気の毒だったが、私個人の意思としては今回は順序を守りたかったのだ。


「クレアさん。あなたは運がいいですよ。この方はイアン先生といって、そういう事に詳しい事でとても有名なお医者さんなんです」


 落ち込むクレアを励ますように、シヤが優しい口調で言った。

 シヤが優しい事は分かる。

 だからこそ私は惹かれているのだ。

 しかし、それだからと言って、私に譲る気持ちは無かった。


「お願いします先生!」


 と、言ってきたのはシヤだった。

 私が断ろうとしている事を雰囲気から察してしまったのだろう。


「……わかりました。貴女がそれで良いというなら、やれるだけの事はやりましょう」


 シヤの必死の懇願に私は承諾する他無かった。

 例えば断ったとしても、シヤがそれでは諦めず、何度も懇願してくる事が分かりきっていたからである。


「ありがとうございます!」


 シヤとクレアがそれぞれに言い、その表情が明るくなった。

 この時強引にでも断っておけば、まだ悲劇は回避されたのかもしれない。




 ライカンスロープとなったクレアを元の体に戻す為に私の活動が開始された。

 私がまず目をつけたのは「噛まれた」という事による「ウィルスの感染」と言う線だった。


 ライカンスロープとはつまり、ウィルスの感染による体内組織の変化によって引き起こされる病気だと私は直感したわけである。

 そして結論から言うと私の直感は当たっていた。

 クレアから採取した血液に異常なウィルスを発見したのだ。


 そのウィルスは朝から昼間は血液の中に一体化しているが、夜になると現れ始め、夜中を迎えた頃には異常なまでの活性化活動を見せるのである。

 人間達の言葉の中に「血が沸く」という表現があるが、これがまさにそれであり、この血が沸いてしまう活動により、体に異変が訪れるのだ。


 ウィルスが居る場所はこれで一応判明したが、このウィルスを殺さなければ問題の解決には繋がらない。

 私は自身の文献と、街の図書館にある文献を片っ端からあたっていった。

 ライカンスロープ、というだけで3千件以上の事項があったが、それだけに解決の方法もどこかに必ずあるはずだった。


 1日、2日とが過ぎて、気付けば4日が経っていた。

 クレアは幸い変身はせず、まだ人間のままだったが、いつ来るか分からないその時に不安を感じているようだった。


 5日目の朝を迎えた時、私の家に一通の手紙が届いた。

 それは私の友であり、同業者からの手紙であった。

 バンシーであるシヤの問題を話した上で、解決の手段を聞いていたのだが、残念ながらその内容は私の期待を裏切るものだった。


 裏切った、という表現は少々身勝手な表現だが、打つ手が無くなっていたという事もあり、この時は勝手にもそう感じてしまったのだ。

 シヤの問題はこの時に完全に振り出しに戻ってしまった。

 こうなった以上は一刻も早くクレアのライカンスロープ問題を解決し、シヤの問題に集中し、解決への道を探らねばならない。




 翌日。

 私は閉館時間を過ぎた図書館に強引に踏みとどまって残りの文献を読み漁っていた。

 時刻は午前4時頃だった。


 私は文献の片隅に「ライカンスロープに噛まれたが、ライカンスロープにはならなかった人」という小さな一文を発見した。

 詳しく読むとこうだった。


「私はフィリールドに住んでいる木こりのラッドというものです。あれは~(省略)~巨大な熊だったのです! 慌てた私は斧を片手に「やんのかコラ! やんのかコラァ!」と熊を威嚇しましたが、奴は一向に引きません。むしろやる気マンマンで指とかを「ポキポキ」しちゃってます。仕方が無いので服を脱ぎ~(省略)~も、通じず、私は肩を思い切り熊に噛まれてしまったのです。死んだなコリャ、と思いましたが、熊は一体どうしたのかそこで力を抜いて倒れ、驚く事に私と同じ人間に姿を変えてしまったのです。それがライカンスロープで、噛まれた人も同じようにライカンスロープになってしまうという話でしたが、3年経った今でも私は普通の人間やっとりますです。はい」


 解決の糸口はこのラッドという人物にある、と私は感じた。

 あくまで私の予想であるが、このラッドという人物には、ライカンスロープのウィルスに対する「免疫」か「抗体」が備わっているのではないだろうか。


 だからこそ噛まれてもライカンスロープにはならなかった。

 血液を採取して調べてみなければはっきりとはわからないが、つまり、このラッドという人物の協力を得る事が出きれば、ライカンスロープのウィルスへの薬が作れるかもしれないと言う事なのだ。


 それは私の妄想か、あるいは思い込みかもしれない。

 しかし、今の私には試してみる価値は十分あった。

 フィリールドはこの国から南西にある遠い国だが、ドリアードゲートを使わせてもらえばあっという間に行けるだろう。


 開いていた本を閉じ、ランプの灯を消した後に、「明日の朝までいるから」という、約束を破って私は走った。

 目指すはドリアードゲートの先のフィリールドのラッド宅である。

 私は神に祈っていた。

 ラッドという人物が心臓発作か何かの病気でこの世から去っていないということを。




 私が自宅へ帰ってきたのはそれから更に3日後の夜中の1時を回った頃だった。

 ドリアードゲートのリーンは幸い私の事を記憶しており、アリウとルクの恩人ならばと喜んでゲートを使わせてくれた。

 それなのになぜこんなに時間がかかったかと言うと、フィリールドに住んでいるというラッドが他国に引越ししており、それを探し出す為に時間がかかってしまったのだ。


 彼がどこに引っ越したのか。

 バカらしいので言いたくないが、なんと私達が住む同じ国にある村だった。


「いやー、田舎すぎて若い子がいなくてー。私もそろそろ嫁が欲しかったので、ちょっと無理して引っ越しちゃいました」


 と、良い笑顔で言ったラッドにはまったく何の罪も無いのだが、一発殴ってやろうかと私は本気で考えてしまった。

 私は彼に理由を話し、彼の協力を強く求めた。


「いいですよ。何するんですか?」


 というのが、ラッドが出した返答だった。


「注射をして血を貰う」


 私がそう言った直後、ラッドは勢い良くドアを閉め、鍵をかけて灯りを消した。

 そして「ラッドなんて奴はいねぇ!」と、態度を急変させたのだった。


 注射が嫌いな人は多いようだが、彼は筋金入りのようである。

 これを説得する事にかなりの時間を費やした。

 おそらく4時間はかかったと思う。


 最終的には「女の子を紹介する」という事で、ラッドの協力を得る事が出来た。

 あとはこの血液から、免疫細胞もしくは抗体を発見し取り出すだけである。

 私の予想が正しいのなら、クレアのライカンスロープ化はそれで防げるはずだった。


 裏口から家に入り、静かな応接室を抜けて、私は自室へ向かって歩いた。

 シヤとクレアの二人はすでに寝静まっているようだった。

 自室のドアを開けて入ると、そこにはシヤが待っていた。

 いや、待っていたのだろうが、私のベッドにうつぶせて力尽きるようにして眠っていた。


「(ありがとうシヤ……)」


 正直私は嬉しかった。

 待ってくれている人が居るのがこんなに暖かい事だとは今まで意識した事がなかった。


「(だがこれでは風邪をひくぞ)」


 私はシヤをベッドに寝かせ、毛布をかけてあげた後に、必要な器具を持ち出して応接室へ行く事にした。

 シヤの寝顔を一目見て、それから私は部屋を出た。


 いつか自分の気持ちを言えたら、シヤは私の気持ちを受け入れ、いつまでもここに居てくれるのだろうか。

 私は応接室へと向かう。

 それを相手に言わない限りは答えの出ない疑問を胸に。



 翌朝、ライカンスロープ化しない為の薬はようやく完成した。

 勿論これは試作品で、副作用があるかもしれない事や、最悪、効かないかもしれないという事を患者のクレアには正直に話した。


「お願いします。万が一にでも治る可能性があるのなら」


 それがクレアの意思だった。


「わかりました」


 私は小さく頷いて、クレアの腕に注射を刺した。


「ど、どうですか? 変身しないような気持ちですか?」


 質問したのはシヤだった。

 すぐにわかる事では無いと私はシヤに言おうとしたが、当のクレアが「なんとなくしないような気がします……」と、先に言ってしまったので私は言葉を控えておいた。


「夜にもう一度採血し、どうなっているか見てみましょう。それで全てが分かるはずです」


 やるべき事はやり終えた。

 これで失敗だったなら、またもう一度やるだけである。

 何にしても夜までは結果は出ないわけなのだから、空いた時間は有効に活用されるべきだろう。


 私は注射針の洗浄と後片付けをシヤに頼み、次の患者たるシヤの問題を解決する為に自室に向かった。


「あの、先生……」


 と、私を呼び止めたのはシヤだった。

 振り向き、顔を見てみると、どこか表情がおかしかった。


「あ、わたし向こうに行ってますね~」


 クレアが言っていなくなり、応接室には私とシヤの二人だけが残された。

 立ち去り際クレアがシヤに「頑張ってくださいね」と、耳打ちしたのが気になったが、私としてはいつもと違う雰囲気の方が気になっていた。


「あ、あの、先生? わたしが先生にお願いしていたあの話の事なんですけど……」

「あ、ああ。そのことならば大丈夫です。しっかりと覚えていますから」

「そ、そうですか。それで、その、なんとかなりそうですか?」

「正直に言いますと今の所は手立てが見えません。しかし必ずなんとかします。方法が無いのなら私がそれを見つけてみせます。もう少しだけ待っていてください」


 私が今まで頑張ったのはシヤを救う為である。

 クレアには悪いがここ数日ある程度の無茶が出来たのも、一刻も早くシヤの問題に取り組もうとしていたからだ。

 なんとかする、という覚悟と言葉に虚飾は一切無かった。


「わかりました。お願いします」


 シヤは小さく頷いてくれ、それ以上の事は言わなかった。


「じゃあ朝ごはんお作りしますね。何か食べたいものはありますか?」


 そして直後には笑顔に戻り、私にそう言ってくれたのだった。

 私は気付くべきだった。

 これがシヤの命を救う最後の機会だったのだと。



 クレアの問題は解決した。

 しかし私はその代わりに大切なものを失う事になった。

 ……ここから先の出来事は正直あまり話したくはない。

 が、自分への戒めの為、この後悔を忘れない為、私はそれを記そうと思う。



 クレアの病気が完治を見たのは、それから5日後の事であった。

 完治した、という判断の理由は、クレア自身の自己申告で、最低でも5日に一度位はライカンスロープ化していたけれど、今回はそれが無かったという、少し曖昧なものではあった。


 が、私の心はもうすでに次の患者のシヤに行っており、本人がそう言うのであれば、と、焦りから妥協していた部分があった。

 問題があればまた来るだろう、と、その時の私は適当だったのだ。


 兎にも角にもこれでようやくシヤの問題に取り組む事が出来る。

 私はそう考えて、その日の夜も夜通しで朝まで文献を読み漁った。

 そして朝、朝食の時間に衝撃の告白を受ける事になったのだ。



 シヤはアーベルという男の為に命を捨てると私に言った。

 自分が泣く事を止められないなら、自分が死ぬ事によって彼の命を救いたいと。

 死すべき運命を持つ者が、その宣告者たるバンシーを倒す事が出来たなら、死の運命から逃れられるという事を、シヤは知っていたのである。

 なぜ、そこまでするのかと、そこまでする理由はなんなのかと、私は怒鳴るようにしてシヤに聞いた。


「大切な人を守る為なら、殆どの人が迷うことなく自分を犠牲にするはずです」


 シヤは私にそう言った。

 そこまで想われる男も幸せだな。

 と、私はつい、言ったと思う。


 だが、シヤの大切な人は、恋人や想い人ではなかった。

 シヤが大切に思う人は、年端も行かぬ子供だったのだ。

 1年前、森でキノコ狩りをしていた時、シヤは偶然彼に出会った。

 その時シヤを魔物と思わず、「お姉ちゃんも迷子なの?」と、彼が話しかけてきた事が親交の始まりだったそうだ。


 シヤはそれまでずっと1人だった。

 バンシーという魔物であるがゆえに。


 その出会いをきっかけにして、アーベルはシヤにとってかけがえの無い大切な友達となった。

 それから数ヵ月後がたったある日、シヤは大切な友達であるアーベルの死を感じてしまい、風の噂で聞いていた「魔医者」である私を訪ねたのだという。


 その後の事は知っての通りだ。

 私は何も出来なかったし、シヤがここまで追い詰められていた事にほんの少しでも気付けなかった。


 シヤがアーベルの前に現れ、涙を流さなければならない時は、すぐそこまで来ているという。

 私に言えずにいた事は、その事だったとシヤは言った。


「アーベルが戦ってわたしを殺す事は出来ません。だから、薬のようにした毒薬を飲ませてもらおうと考えたんです。わたし自身が飲まなければ自殺という事にはなりませんし、罪の意識を残させず、わたしを殺す手段としては一番じゃないかと思うんです」


 シヤは最後にそう言って、私の返答を待っていた。

 シヤはすでに完全に覚悟を決めているのか、「殺す」という言葉を使っていても語調や表情を変えなかった。


 まるで日常の会話のようにさらりとそれを言ったのだ。

 私は何も言えなかった。

 シヤがここまで追い詰められていた事に気付けずにいた自分が許せなかった。

 シヤの問題を後回しにせず、真剣に取り組んでいたのならこうはならなかったはずである。


「……その考えには賛同できません」


 うめくように私は言った。

 追い詰めたのは私であるし、解決の為の手段をシヤが必死で探した事も分かる。


 だが、私はその考えに賛同するわけにはいかなかった。

 ここで私が賛同すればシヤは永遠にこの世界から居なくなってしまうのだ。

 それは今の私にとって耐えられるはずが無い事だった。


 きっと他にも手段はある。

 諦めず、最後まで考えれば助かる道はあるはずだ。

 私はその事を伝えようと閉じていた口を開きかけた。

 だが、それより少し早く、シヤはこう言ったのだった。


「もう、時間が無いんです。泣きたくない、と思ってもわたしは泣くしかないんです。だから先生、お願いします。わたしのわがままを聞いてください」


 シヤは頭を下げていた。

 私が何かを言わなければおそらくずっと下げているだろう。


「……わかりました。それが貴女の意思というなら」


 殆ど妥協するように、私はシヤにそう告げた。

 私は考えを否定したし、それでもシヤがそうしたいなら個人の意思を尊重すべきと客観的に考えたのだ。

 もっと自分に素直になって「君が好きだから死なせたくない」と、シヤに告白していたのなら結果は違っていたのだろうか。


 この時の事を思い出す度、私はそんな事を考える。




 私は今、シヤと共に、アーベルという子供が住んでいる家の前に立っている。

 一緒に来て欲しい、という、シヤの願いを断れなかった為である。

 アーベルの家はプロウナタウンの郊外の丘の上にあった。


 シヤが家の扉を叩き、家人が姿を現した。

 寝ぼけ顔なのも無理は無い。太陽はまだ出たばかりで、普通の仕事をする者ならば、寝ていて当然の時間なのだ。


 シヤが2、3、話した後に家人が家の中に消えた。

 扉を閉めない所を見ると、追い返されたわけではないらしい。

 本当にこれで良かったのか。

 無理にでもシヤを押しとどめ、強引に説得していれば解決の方法はあったのではないか。

 私は拭えぬ疑問を胸に、シヤの横顔を見つめていた。


「こうするしかなかったんです。わたしなんかの為に一生懸命になってくれて、先生には本当に感謝しています」


 シヤが言って、微笑んだ。

 太陽の後光を受けるシヤは、私が今まで見てきた中で、一番美しい女性だった。


「シヤ、私は……!」


 言いかけた私の口をシヤが右手でそっと塞いだ。

 言葉にはしなかったが、シヤは首を横に振り「言わないで」と言っているようだった。


「あれっ? 久しぶりだねおねーちゃん」


 と、私達が立つ右手から、子供の声が聞こえてきた。

 アーベルという少年が、家人に起こされてやってきたのだ。

 年齢はおそらく5才くらいか、純粋さを微塵も失っていない輝かしいまでの少年だった。


「朝早くごめんね。お姉ちゃん、どうしても君にやってもらいたい事があるの」


 シヤがアーベルに向かって言って、私から受け取っていた一錠の薬をアーベルに見せた。

 その薬は私がシヤに頼まれ、断りきれずに渡してしまった即効性の毒薬だった。


「何これ? 何かのお薬?」

「そう。実はお姉ちゃんは病気なの。だからこのお薬を君に飲ませて欲しいんだ。変なお願いだけど聞いてくれる?」

「うん、いいよ~」


 アーベルがシヤから薬を受け取り、屈んで口を開けているシヤに飲ませようとした。

 私は胸を引き裂かれ、内臓をかき回される気分だった。

 シヤが右手で制さなければ、駆け寄り、シヤが飲む毒薬を叩き落していただろう。


 だが、これがシヤの意思で、シヤが選んだ道なのだ。

 シヤを尊重するのなら、もはや見守るしかないではないか…

 シヤが毒薬を飲む様を、私は拳を握りながら、唇を噛みながらに見た。


「元気になったおねーちゃん?」

「うん、君のおかげだよ……ありがとう……」


 アーベルに礼を言い、シヤが私の方を向いた。


「先生も……ありがとうございました……」


 シヤの体が大きく揺れた。

 倒れこむシヤの体を私はなんとか受け止めた。

 アーベルに、シヤが死ぬところを見せるわけにはいかなかった。


 彼女を連れ、私はその場を離れる。

 今まで、臆病ゆえに口に出せなかった気持ちが、仕舞っておいた言葉が、今頃になって溢れてきて止まらない。


「シヤ! 私は君の事が、君の事が好きだった! 短い時間だったが君と一緒に居れて楽しかった! だから頼む! 死なないでくれ! 私とずっと一緒に居てくれ!」


 私は本心からの言葉を言った。

 なぜ、今ではなくもっと前に言わなかったのかと後悔していた。


「わたしも、楽しかったです……次に生まれてくる時には、先生のような人と……一緒に……」


 それが、私がこの世で聞いたシヤの最後の言葉となった。

 私は自身の無力を呪い、シヤの体を抱きしめた。

 シヤは泣かず、私は泣いた。

 死の使いだと忌み嫌われる、バンシーの死を悲しむ為に。




 この一件については後悔する所が多くある。

 なぜシヤの問題を後回しにしてしまったのか。

 なぜ、あの時より早く、シヤに好きだと言わなかったのか。


 しばらくは自責する日々が続いた。

 そんな私を救ってくれたのは、シヤが残していた手紙だった。


「先生がわたしの相談に乗り、真剣になってくれた事は、わたしの救いになっていました。先生と過ごした日々は楽しく、そして、幸せなひとときでした。たとえどんな結末になっても、わたしは先生に感謝しています。出会えないまま生きるよりも、出会って別れる事の方が素敵な場合もあるんですね。   先生と会えて良かったです。   シヤ」


 この手紙を読んだ夜、私は夢でシヤに会った。

 シヤは「ありがとう」としか私に言ってくれなかったが、朝、起きた時私の気持ちは、昨日までとは違っていた。


 会えないと思っていた者に、もう一度会えたという事が、私の中で何かが変わるきっかけになったのだと思う。

 シヤは私の記憶の中で生き続けていくのである。

 私が彼女を好きだった事を忘れてしまわない限り。


 私の中で玉子焼きは、今は塩味が基本となっている。


この話は友人達等に強く修正を求められた話です。

が、これはこうなるのだと、最初から決めていた話なので決して修正しませんでした。

私自身悲しい話はあまり好きではないのですが、今回に限ってはそれを置いて、こういった話を書かせていただきました。

次回からはまた明るいお話です。

お付き合いありがとうございました。

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