迷宮に篭るもの
私の前には魔物が居た。
それ自体は割と普通の事だ。
しかし、魔物が夫婦揃ってソファーに座っているというのは、私が見た初めての光景だった。
旦那の名前はヴィノスと言って、奥さんの名前はニノスと言った。
頭は牛。角は鹿。
体の半身は人であり、下半身は例えるならば羊のそれに近いように見えた。
彼らの種族はミノタウロスという。
迷宮に潜み、そこに入ってきた人間達をむさぼり喰らうと言われている、割と凶暴な種族である。
なぜ、そのミノタウロスの夫婦が私の前に座っているのか。
それは、過去に私が関わったコパックという名前のゴブリンが関係していた。
コパックが彼らの知り合いであり、私という医者が居る事――
――というよりも、依頼を解決してもらったという事を彼らに話して教えたのである。
そして、彼らは私を医者でなく、困った事なら何でも解決してくれる、何でも屋と思って訪ねて来たと、そういう流れであるわけなのだ。
「お願いしますイアンさん。あたし達にはあなたしか頼れる人がいないんです」
夫婦の片割れ、ニノスが言って、私の前で頭を下げた。
一方の旦那も「お願いします」と、妻と同様の行動を取る。
私は困り、眉を顰めた。
またか、と思ってうんざりもする。
最近はこういうお願いばかりで、本業がすっかりおざなりである。
医院を空ける事が多くなって、その事により患者達には迷惑をかけている事が増えているのだ。
いい加減、この辺りで、悪い流れは断ち切らなければならない。
私は思い、気の毒ではあるが彼らの願いを断る事にした。
「申し訳ないが……」
と、口を開くと旦那のヴィノスが「ブモォォォ!!」と吠えた。
そして、直後には妻に向かって、
「俺を殺せ! 殺してくれニノス! もう沢山だ! こんな世界で! ミノタウロスしていくのはもう沢山だァ!」
と、頭を抱えて懇願したのだ。
そんな大げさな……と、私は思った。
実際、
「ちょっとあれなだけじゃないですか……」
と、危うく声をかけようともした。
しかし、私が言うより早くニノスが
「そうね……一緒に死にましょう」
とか、聞くに堪えない事を言い出したので、私は慌てて言葉を変えたのだ。
「ちょっと待ってください!」
という、彼らの早まりを制止する為の言葉にである。
二人は死んだ魚のような目で、力なく私の顔を見つめた。
「じゃあ引き受けて下さるんですか……?」
そして殆ど聞こえないような、消えるような声でニノスが言ったのだ。
ミノタウロスってこんなだったっけ……
と、私は妙に不安になった。
凶暴さはまるで感じられず、むしろゴブリンより弱いのでは、という弱々しすぎるオーラすら漂っている。
私がもし、「いいえ」と言えば、彼らは多分、おとなしく退くだろう。
そして、二人して入水自殺をし、私の精神を蝕むのである。
……まぁ、それはあくまで予想だが、そうなってもおかしくないような、危うい空気を漂わせていた。
「どうなんですか? 引き受けて下さるんですか……? 先生、そこの所どうなんですか……?」
今度は旦那のヴィノスが言った。
返答次第では俺らは死ぬで? という、無言の圧力を私は感じた。
しかし、彼らのお願いの内容が、あまりにも馬鹿げたものだった為に、どうしても「はい」とは言えないでいた。
彼らのお願い。
それはつまり、
「引き篭もりの息子をなんとかしてほしい」
という、医者の領分を超越したあまりに馬鹿げたものだったのである。
彼らの息子、ミノタウロスのディロスは3年前に仕事を失った。
仕事、と言われてもピンと来ないが、どうやら迷宮を徘徊したり、たまには迷宮の外に出て、傭兵のような事をしたりするのが彼らの仕事らしかった。
それで、その仕事を失い、ディロスは一応ミノ案(職案)に行き、砦や洞窟を作るような肉体労働の仕事に就いた。
しかし、そこで人間関係――
いや、ミノタウロス関係がうまく行かず、2週間程でその仕事を辞める事になったのだそうだ。
ディロスはミノタウロス関係を恐れ、次は工場関係の仕事に就いた。
人間を拉致し、拉致してきた人間を缶詰に加工する工場だった。
ディロスの役割は人間の屠殺で、他のミノタウロスが嫌がる仕事なので、基本一人で作業をしていた。
これならなんとかやっていける、と、ディロスは最初は思ったらしい。
しかし、仕事の休憩時間。
ディロスはメスのミノタウロスから執拗ないじめを受けたのだそうだ。
「いい年して屠殺とかやばくない?」
とか。
「その牛ヅラなんとかなんないの?」
とか。
「ツノが帽子から突き出してんだよ!」
とか、まぁネチネチとしたものだったらしい。
そんないじめがずっと続き、ディロスは1か月後にその仕事も辞めた。
そして、ついに家に籠って、部屋から出てこなくなってしまったのだという。
それが今から二年前の事だ。
ヴィノスとニノスはそんな息子を、部屋から外に出して欲しいと私に頼んできたわけなのである。
これはもう、誰が聞いても「それは違うでしょ……」と思う事だろう。
まずは親、それで駄目なら、普通は親戚やら友人やらではないか。
いや、もしかすると言わないだけで、そうした段階は踏んだのかもしれない。
もう完全に万策が尽きたので、私に頼るしかなかったのかもしれない。
が、それにしても私のような一介の町医者を訪ねるよりは、精神科医を訪ねた方が余程にうまく話せるはずだ。
「やっぱり……引き受けて下さらないのですね……」
「あなた。私はもう覚悟を決めたわ……あの子を殺して、私達も死にましょう」
しかし、私の前に居るこの危うい夫婦達は、こんな一介の町医者である私の元を訪ねて来た。
頼れる人が居ない、というのは或いは真実の言葉なのか……
「……わかりました。引き受けましょう。ただし、会って、話すだけです。死ぬのも殺すのもとりあえずやめてください」
そこに考えが至った私は、会って、話をするだけという条件で彼らの依頼を引き受けるのである。
私とレーナは自宅を出発し、ヴィノス達にとっての我が家である地下迷宮へとやってきていた。
必要とした時間は二日で、街道からあまり離れていなかったので、私はそこまで疲れていなかった。
入口に入り、地下に下りると、どこかへ遠征する途中であったゴブリンの群れと遭遇した。
「これはヴィノスさん。お疲れ様ですぅ~」
リーダーらしきゴブリンがヴィノスを見つけて頭を下げた。
ヴィノスがそれに「お疲れ」と答えると、ゴブリンは「失礼します~」と言って、部下達とともに歩いて行った。
どうやらヴィノスはこの迷宮では、それなりの力を持っているようで、ゴブリン等の下級戦士からは敬意も抱かれているようであった。
「あの子はディロスの同級生なんです。立派にリーダーを務めるようになって……うちの子とはほんと大違い……」
「よさないかお前……」
ニノスが言って、ヴィノスがたしなめた。
ニノスは「だってあなた……」と何かを言おうとしたようだったが、「他人に聞かせる話じゃないだろ」と、夫に言われて口をつぐんだ。
「すみません、先生、つまらない話をお聞かせしてしまって……」
ヴィノスが謝り頭を下げた。
私の反応は、
「あ、ああいえ」
というもの。
同級生とはどういう事なのか。
一緒に並んで勉強したり、給食を食べたりしていたのだろうか。
私はそこに思いを馳せていて、彼らの会話が聞こえなかったのだ。
「ああ、あそこです。あれが我が家です」
ヴィノスが立ち止まり、前方を指さした。
そこには家、というよりは、煤けた色の高い壁が「ずらり」と並んでいるだけだった。
屋根は無く、扉すらない。
しかし、迷宮の名前に恥じず、右に、左にといくつも曲がり、複雑な通路を形成していた。
「……わかるんですか」
そこが家だと、とは、私は続けて言えなかった。
そこは言うならただの通路。
屋根が無ければ扉もない、明確な家の区分すらない、奥へと続く通路の途中、と、表現しても良い場所だったのだ。
勿論、看板や目印も無い。
なのに彼らはそこを家として認識できているわけなのである。
価値観や文化の違いというのは様々だから何も言えない。
だが、一つだけ確かな事は、私だったらこの場所を自宅だと思わないという事だった。
多分、普通に通り過ぎて、後になっておかしいな……と思い始めて、自宅を探してこの迷宮をウロウロウロウロする事だろう。
その点に於いて彼らミノタウロスは、人間達や私よりも優れていると評価ができる。
「まぁ子供の頃は迷いましたが、大人になってからは流石に、ですね。これもきっと慣れなんでしょう」
ヴィノスが言って「ハハハ」と笑う。
子供、大人と口にしたが、彼は一体何才なのか。
はっきり言って夫婦共々見た目が殆ど同じなので、年齢が全く分からなかった。
違う部分は声と身長で、声は喋らないと分からないし、身長とて頭一つ分で、注意深く見なければ区別ができない。
ご近所さんで集まったとして、「さぁヴィノスはど~こだっ!」と言われても、100回やっても私にはきっと正解できない事だろう。
ミノタウロスの個の区別とは、それほどに難しいものだったのである。
まぁ、しかし、ミノタウロスの方でも、私や人間達を見てそう思っている可能性は勿論あるのだが。
「狭い所ですが上がってください。おーい、帰ったぞディロス」
ヴィノスが言って、家(と、仮に定義しておく)へと入った。
妻のニノスがそれに続いて「どうぞ」と言ってから入って行った。
それからレーナと私が続き、彼らの自宅の中へとお邪魔する。
「どうぞどうぞ、適当な所にもたれて下さい」
そして、すぐに客間と思わしき、通路の途中で彼らと会った。
座って下さい、ではなく、もたれて下さい。
その言葉の通り夫婦達は、向かい合うようにして壁にもたれていた。
言えば、もうキツキツなのだ。
そのラインには二人が限界で、間を通る事すらままならない。
仕方なく、私とレーナは、入ってきたばかりの場所に立って、壁にもたれる形となった。
「いやぁやっぱり我が家は落ち着くな母さん」
「ですわねぇ」
ヴィノスが言って、ニノスが答えた。
壁にもたれ、腕を組んでいるというなんだか勇ましい恰好なので、「それは本当なのか……?」と私は思う。
「じゃあ先生、すみませんがそろそろ」
そんな事を思った私に、ヴィノスが唐突に話を振ってきた。
「な、何がですか?」
「い、いや、その、息子の事を……」
忘れていた。完全に。
ヴィノスに言われて思い出した。
そういえばその為に来たんだったな、と。
自宅やら、通路やら、見分けがつかないやらで混乱し、私はそれを忘れ去っていた。
「こちらです先生」
と、ニノスが言って歩き出した。
その事によって通路が開け、私達は彼女を先頭にディロスが住まう場所へと向かった。
「もう一度確認しておきますが、会って、話をするだけですよ? 過度な期待は容赦願います」
「わかってます。わかってますとも。それだけでも本当にありがたいんです」
私の言葉にニノスが答える。
それは本音ではなく建て前だろうが、全くもって自信が無く、何を言って良いのかすら分からない私には、それでも十分な保険と言えた。
「この先を曲がった所に居ます。看板でバリケードを作っているはずなので、一応外から呼んでやって下さい」
ニノスが言って頭を下げる。
直後には私の返事も聞かず、「そそくさ」と通路を戻って行った。
「部屋……というわけではないのだな、やはり」
「基本、通路暮らしなんですね……」
曲がり角を前にして、私とレーナがそう呟いた。
顔だけを出して「ちらり」と伺う。
そこはやはりは通路のようだが、ニノスが先に行ったように確かに看板が立てられていた。
看板の文字は「ら・ん・ば・だ」というもの。
一体どこから拾ってきたのか、そしてどういう心境で置いたのか、どちらも分からない謎の看板だ。
「行きますか?」
顔を引っ込め、レーナが聞いてきた。
「行くしかないでしょう。ここまできたら……」
同じく顔を引っ込めて、私がレーナの問いに応えた。
そして、右足を一歩進めて、ディロスが居るのだろう通路へ向かう。
「あー……ディロス君。私はイアンという。君のご両親にお願いされてね。君と少し話をしにきたんだ」
看板の向こうに居るのであろう、ディロスに向けて私が言った。
一秒、二秒と待ってみるが、ディロスからの返答はない。
「少しいいかな? ディロス君」
聞こえていないのか、と、私は思い、もう一度ディロスの名前を呼んだ。
しかし、それも先と同様、私が喋っただけで終わる。
まさか居ないのか、と思った私はレーナの顔を伺った。
レーナは少し困った顔で、両方の眉根を寄せて見せた。
どうしたものか、と思ったのだろう。
それを仰いでみたいが為に私はレーナを見たのであるが、彼女には当然、責任は無い。
「あー……私は別に外に出ろだとか、働けだとかを言いに来たんじゃない。本当に話がしたいだけなんだ。少しで良いから顔を見せてくれないか?」
考えた末に私は言った。
とりあえず、会って話をすれば良い。
それが二人との約束なのだし、外に出ろ、とか、働け、だとか、他人にうるさく言われる事をディロスも決して望んでは居まい。
だから本当に少しでも良い。私はディロスと話がしたかった。
……そして、早く帰りたかったのだ。
自己中と言われたらそれまでなのだが、これは私の本分では無い。
会って、話をするだけでも良い、と、了承を得た上でそうするのだから、許してくれても良いじゃないか。
若干子供染みているそんな考えを頭に持ちつつ、私はディロスからの返事を待って、看板の前に佇んでいた。
「あんた。一体何者なんだ?」
看板の向こうから声が聞こえた。
ディロスが発した声である。繊細で、そして、良く通る声だった。
「私はイアンだ。一応町で医者をしている」
これを無視したら終了である。
というか、私なら「なんなの!?」と思う。
せっかく話してやったのに無視なの?! と。
だからすかさず言葉を返した。
「医者? オレを診にきたのか?」
「いや、話をしに来ただけだ。その点に嘘偽りはないよ」
それは本当の事である。
後は少しでも顔を見られれば、私の仕事は完了である。
これは駄目だ、と思った時点でさっさと帰れば良いだけだった。
いや、勿論話せるのなら、とことんまで彼と話すつもりだが、駄目なら一応仕事は終わりで、帰ったとしても悪くはないはずだ。
「……オレの話なんてつまらないだろ」
先程と比べるなら小さい声で、ディロスが「ぼそり」と言い放つ。
「それは分からない。話してみない事にはな。少なくとも今現在は私は会話を楽しんでいるがね」
否定もせず、肯定もせず、私は自分が今感じている素直な所をディロスに言った。
それからディロスはしばらく黙った。
1分程が経っただろうか、目の前の看板が脇へとずらされた。
「良く分からんけど話だけなら……」
そして、ディロスが姿を見せて、私達にそう言ったのだった。
「いや、それはどうかと思うな。あんたも医者ならそれは不味いよ。断る所は断らなきゃ。患者さんはどうするのさ。あんたが来てる間は待ちぼうけでしょ? 病気だって待っちゃくれないし、他の医院に行くかもしれないよ? そしたらあんたくいっぱぐれるよ? どうするの、今更さ。その年になったら仕事なんてないんだよ? あってもやっすい時給でさ、自分より何倍も時給が高いやつに良いようにコキ使われるんだよ? そんなの嫌でしょ? だったらちゃんと仕事しなきゃ。今の仕事を掴んでおかなきゃ。あんたが悪い人じゃないのは分かるし、そこが良いって患者さんも居るだろうけど……~~~~~~~でしょ? だからさ~~~~~~~~~~と、オレは思うわけさ」
ディロスは超お喋りだった。喋り出したら止まらない奴だった。
今、私とレーナは正座して、彼からの説教を黙って聞いている。
ここに来てからもう10数分。
ディロスの説教は止まる事無く、延々と未だに続けられていた。
「基本ね、ミノタウロスなんてクソなんだよ。俺も含めてみんなクソ。だから真面目に生きてる奴や、一生懸命仕事してる奴、他ミノ(たにん)に優しく出来る奴が他より輝いて見えるわけさ。世の中ってのはそういう奴よりズルイ奴や楽してる奴を評価してる。真面目な奴は基本損してる。だけど頑張る、だからオレはそういう奴を凄い奴だなと尊敬したいんだ」
「あーちょっと、ちょっと良いかな……?」
足の痺れを抑えつつ、私が言って右手を上げた。
ディロスは一瞬「むっ」としたが、流石に喋りすぎと気が付いたのか、「あ、ああ。悪かったな」と謝ってから改めて私に「何?」と聞いた。
「とりあえず、立ってもたれさせてくれ。足がもう、限界だ」
「ああ……いいよ別に」
ディロスの許可を得た後に、私はその場に立ち上がった。
足が痺れ、少しふら付くが、立とうとして立てないレーナの為にそれを我慢して右手を差し出した。
「す、すみません先生……あふぅっ!」
私の手を取り、レーナは立ったが、直後にやってきた痺れに襲われ、少し色っぽい声を出した。
「その人彼女?」
「い、いや、助手……のようなものだよ」
「ふーん……」
ディロスが言って、レーナを見つめた。
見つめられたレーナは目を大きくして、
「そうらしいです」
という、意味深な発言をした。
不味い事をしたのか、と、私は思った。
もしかして何か間違ったのか、と。
「あー……君はどうなんだ? 恋人なんかは居ないのか?」
そんな気持ちを紛らわす為に、私は逆にディロスに聞いた。
「居た事は一度もないね。年齢=居ない歴ってやつさ」
表情を変えずにディロスが答えた。
これには私は自信があった。間違いなく不味い事をしたという謎の自信が。
「そうか。まぁ気にするな。居れば良いというもので無し」
故に、私は本来ならば「すまんな……」と謝るその場面でも、妙に明るくディロスに言って、肩を「ぽん」と叩くのである。
「ま、まぁな。俺は慎重なだけだから、作ろうと思えばいつだってな」
「そうとも、君は慎重なだけさ」
そろそろ帰ろうか、と私は思っていた。
故に対応も割と適当で、ディロスの言葉も実の所3割位は届いていない。
話はした。そして会った。
これ以上の事が出来ない以上、いつまでも居座っても仕方がないだろう。
そう思った私はディロスに向けて、
「それでは私達はそろそろ帰るよ」
と、別れを告げて帰ろうとした。
ディロスはそれに「えっ……?」と言って、続けて「もう」と小さく呟いた。
歓迎されていた事を知り、私は少し後悔をする。
しかし、「やっぱり居る!」と言うのもなんだか照れ臭いような気がして、敢えてこのまま帰る事に決めた。
「それではな。君の話は楽しかったよ」
右手を上げて、踵を返す。
「お邪魔しました」
レーナが言って頭を下げて、私達は通路を歩き出した。
「ちょっと待った! 本当に何も言わなくて良いのか!?」
直後にはディロスがそう言ってきた。
「何も……とは?」
言葉の意味が本当に分からず、私が振り向いてそれを聞く。
ディロスは話し難そうだったが、
「……外に出ろ、とか、働け、とかさ」
と、やがては小さな声で言った。
「ふむ……」
聞いた私が鼻を鳴らす。私は真実、ディロスに会って、話す為だけにここに来た。
そして、それを彼にも伝えた。
なのにディロスは「言わなくて良いのか」と、私にそれを聞くのである。
なぜ聞くのか。
私が思うに、彼は自分で気にしているのだ。
このままで居て良いのかと。
だから答えが欲しいのだろう。
だが生憎、私はそれの答えを持ってはいなかった。
私がここで、間違っている、外に出ろ、働け、と言ったとしよう。
そして、ディロスがそれを聞いて、その通りにしたと仮定する。
うまく行っている間は良い。
「あいつの言う事を聞いて良かった」と、私に感謝をするかもしれない。
しかし、うまく行かなくなった、もしくは最初から全く駄目だったなら、「あいつの言う事を聞いたばかりに」と、私をきっと恨むはずだ。
だから私は何も言えない。答えなんて持っていないのだ。
ただ一つだけ言えるとしたら。
「人生は一度だ。後悔はするな」
という、それだけのものだろう。
過去の後悔は生かせば良い。これからの後悔はしなければ良い。
全力を出せば納得が行く。適当にやれば後悔が残る。
ただそれだけの事である。
私はただ一つの言葉を送り、ディロスに「ではな」と告げて去った。
ディロスは何も言わなかったが、俯いて何かを考えては居た。
春の麗らかな日の午後の事だった。
私はハーピーの翼を診ていた。
翼をもち、鳥の手足と人間の体と顔を持つ。
それがハーピーの簡単な特徴だ。
彼女は人間と戦った折、翼に矢を受けてしまい、そこが化膿してしまった為に私を訪ねて来た患者であった。
治療自体は滞りなく進み、包帯の巻き付けもすぐに終わった。
後は塗り薬を彼女に渡して、用途を説明するだけだった。
「失礼します」
そんな時、レーナが顔を出した。
診察室のドアを開けて、顔だけを出して中を伺う。
「先生にお客様です。診察中だとお伝えして、裏庭で待っていただいてます」
そして、それだけを私に伝えて「にこり」と笑って去って行った。
「お客様? 患者さんじゃないの?」
これは診察室の中で漫画を読んでいたフェネルの発した質問だった。
ソファーに寝転がり、近くに置いてある「中立マンチップス」をパリパリ食べている。
漫画を読むのも、寝転がるのも、あまつさえお菓子を持ち込む事も私としてはやめてほしいが、「やめろ」と言っても聞かないのだから、もはや私にはどうする事も出来ない。
「さぁな。気になるのなら見てきたらどうだ。後、床に落としたお菓子はきちんと自分で掃除をしておけよ」
「ですねぇ~。じゃあ行ってこよ~っと」
私が言うと、フェネルはそう言って診察室から小走りで出て行った。
ソファーの上には漫画が広げられ、お菓子は床に落ちたままだった。
「やれやれ……」
と、私が大きく息を吐く。
「大変ですね」
と、同情してくれたのは、私の眼前に居るハーピーだった。
彼女も、他の患者達もフェネルの事はある程度知っている。
15時が過ぎれば大抵居るし、何よりフェネルの個性が強いので、一度見たら忘れないのだ。
フェネル自身は助手だと言うが、彼女達の認識はおそらく違う。
直接聞いたわけでは無いので、そこは私の予測となるが、「診察室に遊びに来ているだけの人間の困った少年」として彼女達は認識している事だろう。
だからこそ彼女は「大変ですね」と、私に同情してきたのである。
ありがたいような、情けないような、なんとも微妙な感情と言える。
私はとりあえず「いやいや……」と首を振り、心の中だけで礼を言った。
「せっ、せんせひぃぃぃ! せんせひっ! バケモノ! バケモノが居ますよ! やる気満々ですよ何やったんすか!?」
そこへフェネルが飛び込んできた。
息は絶え絶えで瞳孔も大きい。相当興奮しているらしい。
しかし「どうせつまらん事だろう」と、私はそれをかるーく無視した。
「この塗り薬を使って下さい。時間は特に決まっていませんが、一日一度は塗り替えた方が良いでしょう」
薬を取り出し、患者に渡す。
「あ、はい。ありがとうございます」
良いんですか、無視して、という、微妙な顔を見せた後にハーピーはそれを両手で受け取った。
良いんだ。無視して。
どうせ誤解か曲解なのだから。
私が思い、立ち上がる。
「もー! 何ヨユーぶっこいてんですか! 壊されちゃいますよ何もかもがァ! あれもうブンブン振り回してますよ今頃は!」
そんな私の右手に近付き、フェネルが「ぐいぐい」と腕を引っ張る。
面倒くさいな……と思っている私の表情はヒドイものだったろう。
「ホーラァァ! 来なさいって! 何とかしないとホームレスっすよ!?」
「分かった分かった……行くから離せ」
やむを得ず私はそう言って、フェネルに続いて裏庭に向かった。
何者が居るのか、と思ったのだろう、患者のハーピーもついてきていた。
診察室を出て、玄関に向かい、脇道を通って裏庭に行く。
そこには数日前に見たミノタウロスのディロスが立っていた。
「あ、せ、先生」
私に気付き、ディロスが振り向いた。
その両手にはどういうわけか巨大なバトル・アックスを持っていた。
「ぎゃああ! 気付かれた! 先生! 早く! 先手必勝よ!!」
フェネルが叫び、私を押し出した。
先程の「あ、せ、先生」も、フェネルには「ブモォ」としか聞こえていないので、こういう反応を見せてしまうのも人間の子供なら仕方がないのだろう。
「何日かぶりだが、今日はどうした? というか、その斧は一体なんなんだ?」
そんなフェネルの命令を無視し、私がディロスに向かって聞いた。
フェネルにも通じる言葉だったので、直後には「え? 知り合い?」と言って、私の横に体を並べる。
「いや、これはなんていうか、ミノタウロス族の正装なんだよ。人間がつける……ネクタイ……だっけ? 意味合いとしてはあれと同じさ」
ディロスが言って、「ハハッ」と微笑む。
おそらくは「ブモモッ」と聞こえたのだろう、フェネルはビクリとして一歩下がった。
「なるほど、正装か……わざわざ正装で訪ねてきてくれるとは、なんだか少し恐縮してしまうな」
私が笑い、ディロスに近づいた。
釣られるようにフェネルも歩き、更に後ろのハーピーも続いた。
「仕事中に悪かったかな……」
「いや、丁度空いた所だ。予約も無いし、しばらくなら構わんさ」
答えた私がディロスを見上げる。
ディロスは何も言わなかったが、視線を逸らしたり、そわそわしたりと、どうやら少し照れているようだ。
「じ、実は……仕事を探そうと思って」
不意に、ディロスが口を開いた。
驚きの言葉に私が目を開く。
ディロスは私の方を見ずに、更に自分の言葉を続けた。
「先生が言っただろ、後悔はするなって……あの後オレ考えたんだよ。このまま行くとどうなるんだろって。親父も母親もいつかは死ぬし、そうなったらオレどうするんだろ、って。それならそれでなんとかなるか、って、オレにはそういう風に思えなかった。そうなったら死ぬか、他のミノ(ひと)に迷惑をかけるしかないなって思った。死ぬのが嫌だったら生きなきゃいけない。生きる為には食べ物がいる。金が無かったら……奪うしかない。その時にオレはどう思うんだろう。多分、後悔するんだろうなって思った。あの時もう少し頑張っていればなって。あの時、っていうのは多分今だろう? だからオレ、少しだけ、頑張ってみようかなって思ったんだよ」
ディロスはそこまでを一気に言って、
「それにオレ、一人息子だし、少し位は孝行しないとな」
と、私に苦笑いを作って見せた。
私は無言で「うん、うん」と頷き、ディロスの背中を叩いてやった(実際には尻辺り)。
叩かれたディロスは「へへっ……」と、照れくさそうに微笑んでいた。
「あなた、仕事を探しているの?」
唐突に、ハーピーがディロスに聞いた。
聞かれたディロスも、私もフェネルも、突然の事に目を白黒した。
「探しているのなら紹介しましょうか? 丁度知り合いが探しているのよ」
そんな私達に構う事無く、ハーピーが聞いた理由を告げた。
つまり、彼女はディロスに仕事を紹介しても良いと言っているのだ。
私とディロスのやりとりを見て、ある程度状況を理解したのだろう、その上で彼女の好意と親切でそう聞いてきてくれたわけだ。
「あ、う、あーっと……」
それは分かっているのだろうが、ディロスの反応は微妙なものだ。
突然の事に驚いている。
それもその一因だろうが、勇気やら、度胸やら、覚悟やらがまだ少しだけ足りていないのだろう。
「仕事の内容はどのようなものですか?」
そんなディロスを一押しする為に、私が親切なハーピーに聞いた。
「多分、警備員みたいなものです。私の知り合いが迷宮を作ってて、迷宮が出来上がるまでの間、警備してくれる人を探してるんです。できるだけ強い人が良いって言ってて、この人なら強そうだし問題ないかなって」
私の質問に彼女が答えた。
「迷宮……」
と、ディロスが短く呟く。
前職の経験を活かせる仕事だ。
ディロスにとってはチャンスと言える。
後はディロスの考え次第で、私が口出しするものではない。
私は黙って成り行きを見守った。
「……お、お願いします! オレ、そこで仕事がしたいです!」
果たしてディロスはそう言って、ハーピーに向かって頭を下げた。
「ブモオォ! ブモアアア!」としか聞こえていなかったフェネルは「ぎゃあああ!!?」という悲鳴を上げていた。
「良いですよ。イアン先生のお知り合いなら、私も安心して紹介できます。あ、でも軽い面接があるから、出来るだけ良い恰好で来てくださいね」
ハーピーは言い、面接の日と、場所を教えて飛んで行った。
「せ、先生、オレ大丈夫かな……?」
不安になってきたのであろう、ディロスが私にそれを聞いた。
「あれだけの勢いがあれば平気さ。あんな事を言われたら私だって採用してしまう」
オレ、そこで仕事がしたいです!
その言葉を思い出し、私は笑ってディロスに言った。
後日、ディロスは面接に行った。
両手に巨大な斧を持ち、首にはネクタイを巻いた上で。
おそらく気合の現れなんだろう。
しかし、少しやりすぎだ、と、聞いた私は思ったものだった。
だが、結果は見事に合格。
迷宮の主になるアークドラゴン(中級の竜)は一発でディロスを気に入ったらしい。
早速の警備を命じられたとディロスは喜んで報告してきた。
しかしなんだな、と私は思う。
ディロスの両親に頼まれた事は解決できなかったような気がする。
なぜかってディロスは結局は迷宮に籠ってしまったのだから。
いや、それが仕事なのだから、引き籠りとは言わないのだろうか……?
そんな事を考えながら、私は今日の日記を書き終えた。