親の愛、子の気持ち
その日は朝からフェネルが来ていた。
学校が休みで時間が空いており、かと言って家に居ても退屈な為に、私の仕事を邪魔しにきたのだ。
勿論、フェネル当人に仕事を邪魔しているという自覚は無いだろう。
むしろ、私の仕事に朝から貢献し、文句も言わずに無償で働く自分はなんとエライ助手なのか、と、自己満足をしているに違いないはずだ。
その証拠にフェネルは時折、
「先生はホント、僕が居ないとダメなんだから」
とか、
「こんな良い助手他にはいませんよ?」
とか、やたらと自分の存在をアピールし、さも、褒めてもらいたそうに私の顔を覗き込んでくる。
私としてはとりあえず、「診察所で漫画を読むな」と言いたいが、ごちゃごちゃと何かを触られたり、ウロウロされるよりは余程マシなので、それを見過ごすしかないというのが、悲しいかな今の最善だった。
「ねー先生、マイクは自分にも子供が居るのに、どうして他人の子供を可愛がるの?」
医療器具を片している折、フェネルが私に質問してきた。
どうやら漫画の話のようだが、私はそれを読んでは居ないので、
「知らんな」
とだけ短く答える。
「じゃあさじゃあさ、マイクは自分の家があるのに、どうして他人の家に帰るの?」
私の意図が分からなかったか、フェネルは尚も私に聞いてきた。
正直、内容には「ん……?」となったが、先と同じ言葉を返す。
「マジですか。ったく、頼りにならないなぁ……まっいっか。レーナさんに聞いてこよっと」
フェネルが言って立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待て」
少し引っかかる部分があった為、私はそんなフェネルを呼び止めた。
そして、フェネルから漫画を奪い、「ペラペラ」とそれのページをめくる。
「男と女。地獄の復讐変」
それがその漫画のタイトルで、マイクとはどうやら復讐対象の女性の何も知らない旦那のようだった。
「地獄の業火で苦しみなさい! それすらあなたには生ぬるいけど!」
とか、
「流してよ! もっと! 苦しみの涙を! あなたが涙を流した分だけ私の心は癒されるのよ!!」
とか、狂気じみたセリフが連発されており、ページをめくる度に私の心と、精神は少しずつ削られて行った。
「それはねぇ! あんたの息子の目玉よ! どう? とってもおい…」
という所で、私の心に限界が訪れ、そこで「ぱたり」と本を閉じた。
眩暈すら感じる。
あまりにグロすぎる。
子供が読んで良いものではない。
「……あれこれと言うつもりはないが、もう少し年相応の本を選べ。これはとりあえず預かっておくぞ」
「えー!? なんすかそれ!? ドロボー! センセーはドロボーだ!」
教育の為、道徳の為、私は本を没収したが、それが分からないフェネルは私をいつまでもしつこく罵倒していた。
「流してよ! もっと苦しみの涙を!」
と、早速に引用してきた辺り、もう手遅れなのかもしれないが。
「先生、お客様です。ちょっと、かなり団体様なので裏庭に回っていただきました」
そこへレーナが顔を見せた。
「あ」
フェネルはレーナの姿を見るなり、私への攻撃を「ぴたり」と中止し、わざとらしく口笛を吹き、
「さて、掃除の続きでもしようかなっ」
と、やっても居なかった掃除をし始めた。
フェネルはそう、レーナの事が少しばかり苦手なのである。
私と違ってレーナは怒るし、度が過ぎて居れば手を出す事もある。
それは普通の事ではあるが、フェネルの周りにはなんというか、諦めている大人が多いのだろう、彼を普通に叱る者が私を含めてあまり居ないのだ。
故にフェネルは彼女を恐れ、レーナの前では出来るだけ良い子を演じようとしているわけなのだ。
「さっきまですごい騒いでたよね?」
「う!? ううん!? ボクオトナシクシテマシタヨ!?」
そこはまぁ年の功か、レーナは見抜いているようだったが、苛めたいというつもりはないのだろう、あまり深く追及せずに「ふふっ」と笑って許してやっていた。
「団体、と言っていましたが、その全員が患者ですか?」
これは私の質問だった。
それならそれでも別に良いが、心構えとして知っておきたかったのだ。
「あ、いえ、患者さんは多分お一人です。他の方は護衛ですかね?」
レーナが言って足を動かした。
そこでレーナは診察室に今日初めて入った事になる。
「護衛ですか……? 身分の高い相手なのかな?」
「まぁそんな感じです。行きますか先生?」
レーナが言って、入ったばかりの診察室から外へと移動した。
私はそれに「ええ」と答え、とりあえず何も持たずに続いた。
「お偉いさんなの? カネガッポンっすね!」
そして最後にフェネルが続き、私達は裏庭へと足を向けた。
裏庭には豚達が居た。
いや、正確には豚面をした、二足歩行のオーク達が居た。
顔は豚、体は人間という彼らは人間に嫌われており、エルフ達からはどういうわけか、憎悪の対象にすらなっていると言われる。
戦闘力は人間程だが、知能はそれよりかなり低く、力任せや数任せの行動を取る事が多いらしかった。
現在、裏庭に居るオークの数は、ざっと数えて20人(匹?)程で、何やら「ブブブブブブブブ」鳴きつつ、私が姿を現すのを待っていた。
「うわっ! くっさっ!!」
鼻をつまんで顔を反らし、舌を出してフェネルが叫ぶ。
私も正直そうは思ったが、いきなりそれでは失礼なので、そこはぐっと我慢しておいた。
「ブブッブブッブウ!」
そんなフェネルの声に気付き、二十人程のオーク達が一斉にこちらの方を見て来る。
直後には左右に分かれて整列し、どこから運んできたのだろうか、少し立派な椅子に腰かける偉そうなオークが姿を現した。
そのオークは頭に冠をかぶり、首には真珠の首飾りをつけていた。
「豚に真珠……ッ!」
と、フェネルが言ったが、ちょっとうまいので敢えて放置。
察するに、彼らのボスだと思われる立派な服装のオークに向かった。
「ブブゥ」
そんなボスオークが小さく鳴いて、「こっちこいや」という感じで右手を動かす。
私は少し「カチン」と来たが、そういう環境に居る者なのだろうと、非礼を甘受して招きに応じた。
「先生、わたしが通訳しますか?」
とは、横を歩くレーナの言葉で、レーナからの講義を受けていた為に通訳の魔法が使えるようになった私は、
「いや、練習になるのでやってみます」
と、今回はレーナの通訳を断った。
「わかりました」
レーナが言って、「にこり」と微笑んだ。
そして、私達は椅子に座るボスオークの前へとたどり着いた。
「すまないねイアン先生。ワシは少し足腰が弱くてな」
それが通訳の魔法を通して理解できた彼の言葉であった。
片手で呼ばれてしまった為に横柄な者かと思っていたが、どうやらそこまででは無いようである。
足腰が弱いという理由があるなら、まぁ仕方がない事だろう。
「だから少し無礼だろうが、座ったままで失礼するよ」
ボスオークはそう言って、私からの返事を待った。
「ええ、そういう理由であれば」
言うと、ボスオークは小さく頷いた。
「ねぇ先生、豚なのこれ? フゴフゴフゴフゴうるさいし、吐きそうな程臭いんですけど」
割り込んできたのはフェネルだった。
顔を顰め、わざとらしく吐きそうな顔を作って見せている
通訳の魔法が使えない為、奴には「フゴフゴ」としか伝わっておらず、興味と困惑が限界に達して私にそれを聞いてきたのだ。
その言葉は小声ではなく、普通に発したものだったので、オーク達にも聞こえていたが、そこは向こうにも通じておらず、彼らは表情を変えなかった。
「まぁいいから少し黙ってろ。後で全部話してやるから」
幸い言葉は通じなかったが、行動で邪魔をされてはかなわないと思い、私は一応そう言ってフェネルの気持ちを落ち着かせてやった。
フェネルは「えー」と不満げだったが、まぁ納得はしたのであろう、一先ず口は閉じたようだった。
「話をしてもいいかな?」
とは、ボスオークが発したものだった。
なんというか、思ったよりも遙かに理知的な印象である。
気にしてみると声も渋い為、なぜだかこちらが恐縮してしまう。
私はとりあえず「ど、どうぞ」と言って、ボスオークが話し出すきっかけを作った。
ボスオークは「ありがとう」と礼を言ってから、それから話を切り出し始めた。
「今日訪ねた理由というのは治してもらいたいものがあるからだ。患者は実はワシじゃない。もう少しで16になるワシの息子のドギマがそうだ。ドギマはワシが若い頃、人間とやんちゃして作った子供でな。まぁ一人息子という事もあって、少し甘やかして育てちまった。こんな事になると分かっていたら、もう少し厳しく育てたんだが……」
ボスオークはそこで話を区切り、大きな息をひとつついた。
そして、それから私の顔を見て、
「先生にはな、バカを治してほしいんだ」
と、極めて真面目な顔で言った。
「は……?」
私は疑問し、レーナの顔を見た。
見ればレーナも私を見ていた。
「いや、だから、息子のバカをな、先生に治して欲しいんだよ」
フェネルが聞けばおそらくは、「親にしてすでにバカ!」と、ボスオークをなじった事だろう。
私自身、そこまではいかないが、「大丈夫か、この人は……」位は内心で思っていたのである。
「あー……その、息子さんはどこかで頭を打ったとか、昔は頭が良かっただとか、要するに治療で治る類のバカになってしまったのですか?」
しかし、それを言うわけにはいかず、治療の可能性があるバカであるのか、そうでないバカなのかを私は問った。
「いや、ドギマは昔からバカだった。ワシがそれを意識したのは、4才の時に魚を捕ってきて、それを尻の穴に詰め込んで「ギョ!」とか言って尻の穴からそいつをひり出した瞬間だったな」
そいつはバカだ。と私は思った。
おそらくレーナも思ったのだろう。口を曲げて茫然としている。
少なくとも治療で治せる類のバカではないようである。
必要なのはもっと単純な、そう、言うなれば親の教育だろう。
「というのももう少しで族長を選ぶ会があってな。ドギマは他の部族の息子と競い合わなくてはならないのだよ。今のままではとても困るのだ」
そんな私達に構う事無く、ボスオークが更に話を続けた。
そう言えば私が納得をして依頼を引き受けるとでも思ったのだろうか。
いや、むしろ、そんな理由なら却って引き受けるわけにはいかない。
「治ってねーじゃねぇかこのヤブ医者が! お蔭で息子は一生日陰者だ!」
と、逆恨みして切れられた日には、たまったものではないからだ。
「期限は明日から数えて10日後。よろしくお願いしますよ先生」
しかし、ボスオークは話を進め、私の返事を聞こうとしないまま「おい」と言って配下を呼んだ。
配下は「はっ!」と声を発し、「お頭のお帰りだ!」と仲間に伝え、椅子ごとボスを持ち上げて私達の前から帰ろうとした。
「ちょ、ちょっ、と待ってください! 私はまだ引き受けるとは……!」
このまま帰られたらたまらない、そう思った私が慌てて言って、帰ろうとしたボスを呼び止めた。
「……まさか引き受けてもらえないのかね?」
私達の少し頭上から、ボスオークが険しい表情で言う。
「まさかとは思うが引き受けてもらえないのかね!?」
2回目のそれは怒鳴り声に近く、それを聞いた配下のオークが「無礼な!」と言って騒ぎ出した。
正直、私は引き受けたくは無いが、こういったごたごたも避けたかった。
断って、キレられて、極論戦いになったとしても、レーナがここに存在する以上、彼らの暴力はまかりとおらない。
最悪、オークの死傷者達が(洒落でなく)裏庭に転がるだけとなるはずだ。
しかし、ここにはフェネルも存在する。
こいつを守る位であれば、おそらく私にもできるだろうが、もし、万が一の事があればフェネルの両親に申し訳がない。
多分大丈夫、という軽い見込みで事を荒立ててはならないだろう。
「いや……引き受けない、とは言いませんが、私もまだまだ未熟な医者で、どんな病に対しても絶対に治せるとは断言できません。治したい、とは思っていますが、治せると断言できる病は無いのです。だから、もしも治せなくても恨みごとは無しにしていただきたい。そう約束していただけるなら、息子さんの治療を引き受けましょう」
故に、私はフェネルの為に、治せない事を前提とした提案をボスオークに伝えるのである。
これは方便に近いもので、私は患者自身に聞かれたら「必ず治せる」と断言している。
例えばそれが難病だとしても、本人が「もう駄目だ」と思えば、そこで心が折れてしまって治せるものも治せなくなるからだ。
しかし、今回はそれとは違う。
治せなくても死にはしないし、何より医療とは関係が無い。
だから私は治せない事を前提で、保険としてボスオークに方便を垂れたのだ。
ボスオークは勿論の事、初めから治せないとは思っていないので、
「わかった。約束しよう」
と、私の提案を受けてくれた。
そして、
「息子は明日連れてこさせる」
と言って、配下と共に帰って行ったのだ。
「ねー、何だったんですか先生? ねーってば、ねー」
オーク達が去った後にフェネルが私に近寄ってきた。
こいつが朝から居なかったなら、今回の依頼は引き受けなかったわけで、そう考えるとこいつはやはり私にとっては邪魔者である。
しかし「ねーねー」とやたらうるさいので、仕方なく成り行きを教えてやると、
「マジっすか! 先生マジプギャー! バカにつける薬は無いのに!」
と、恩知らずにもそう言って私をバカにするのであった。
「(確かにそれはその通りだな……)」
目の前に居るフェネルを見つつ、私はそこだけは同意をしていた。
そして、流石にこいつ以上のバカは存在しないだろうと、若干の安心もしたのである。
翌日、ドギマが連れられてきた。
年齢は前にも聞いた通り、見た目には15、6才の少年だった。
人間との間に作った子らしく、その顔は父より人間風で、悪い言い方だが人間の子を少し不細工にしたような感じであった。
ドギマはほんの少しだが、人間の言葉が話せるようで、初対面の私とレーナに人間の言葉で「はじめまじで」と言った。
私達は感心し、ドギマに「初めまして」と、挨拶を返した。
するとドギマは鼻をほじって、
「なにが?」
と、私達に言ったのである。
私達は困惑し、ドギマの中の異常に気付いた。
しかし、今更追い返すわけにも行かず、やむを得ず家の中へと招いた。
ドギマは暫く「じっ」としていたが、入れという事が伝わったのか、いきなり猛然と走り出して、
「おっだまぁ! おっだまぁ!」
と、連呼しながら私の家へと飛び込んだのである。
ドギマは直後に壁に激突し、曲がった先でもまたぶつかった。
そして、なんとか応接間に着き、倒れるようにして寝転がったのだ。
寝転がったドギマは笑い、そのまま寝ようとして静かになった。
「(これは話以上だな……)」
それを見た私は息を飲んだ。
保険を張っておいて良かったと思う。
これを治せる者が居るなら、それは医者ではなくきっと神だ。
15、6才でこれはヤバ過ぎる。
甘やかしも度が過ぎて居ればそれは教育の放棄と言える。
私はこの時点で治療を諦め、預かっている10日間で、ドギマをどれだけ矯正出来るかという、違った方向へと考えを変えた。
その日の昼からドギマへの教育と、性格の矯正が開始された。
担当は基本私だが、他の患者が訪ねて来た時はレーナが代わってくれる事になった。
今日はフェネルは学校なので、来るとしたら3時間から、4時間あとの事だと思われた。
しかし、私の意見としてはフェネルには出来れば来てほしくはない。
ドギマ一人でも厄介なのに、更に厄介なフェネルが来たら矯正どころではなくなるからだ。
「まぁ考えていても仕方がないか……」
フェネルは殆ど毎日やってくる。
フェネルが来ない午前中と昼間でなんとかするしかないだろう。
私は甘い幻想を捨て、現実と向き合って覚悟を決めた。
時間が丁度良いという事で、私はまず昼食でドギマのマナーを見る事にした。
料理はスープとパンとハムだった。
スープとパンは人数分だが、ハムは一つの皿に盛られて、全部で12枚に切り分けられていた。
普通であれば私とレーナ、そしてドギマの三人で一人4枚ずつの計算である。
「うまうまっ!」
が、ドギマはそれを一人で、全て「ペロリ」と平らげてしまう。
挙句に私のパンを奪い、懐の中へとしまいこんだ。
きっと後で食べるのだろうが、しまう場所と人のモノという、二点がやはり常識からズレていた。
「駄目だぞドギマ。それは一応私のものだ」
言って、私は取り返そうとしたが、ドギマは素知らぬ表情である。
目を「ぱちぱち」と瞬かせ、「何か?」と言わんばかりの顔だ。
「(ブン投げすぎだろう……お父さん……)」
と、私はそう思っていただろう。
しかし、ドギマには罪は無いので、優しく、ゆっくりと話してやった。
一人に一つずつパンがあるのは、それがその人の分だからだ。
だから他の人の分を横取りしてはいけないんだよ。
と。
ドギマはそれに「あー」と言ったが、直後にはレーナのパンを奪った。
それを見た私は額を抑え、「これは無理だ……」と早々に諦めた。
もっと幼い頃なら出来たが、これ位の年になっては矯正ももはや難しいのだ。
さて、どうしたものかと悩んでいると、レーナが横からこう聞いてきた。
「先生、わたし流で教えていいですか?」
と。
正直、私は諦めていたので、それには「ええ、どうぞ」となげやりに答えた。
「ありがとうございます」
レーナはそう言い、直後には、レーナ流の教育が開始された。
すぐにも飛ぶのはスープの皿で、それはドギマの顔に当たった、
「アディィィィ!!?」
流石に少し熱かったのか、ドギマは椅子ごと後方に倒れた。
そして、レーナが素早く動き、ドギマの体に馬乗りになる。
「これはわたしの! わかる!? これは人のものなの! 人のものは盗っちゃダメなの!」
レーナはドギマからパンを取り返し、馬乗りのままでそれを言った。
ドギマは何かを言おうとしたが、続けざまに懐の中をまさぐられ、
「あー! あぁぁぁぁ!!?」
という、ちょっと情けない声を出した。
「これは先生のパン! あなたのじゃない! あなたのはコレ! ここにあるコレ!」
懐の中からパンを引き抜き、レーナがドギマにそれを見せつける。
続けてそれをテーブルに置き、ドギマの本来のパンを持って、それを顔に「ぐいぐい」押し付けた。
ドギマは「ふぐぅぅぅ!」と呻いていたが、一応理解はしたのだろうか、「こくこく」と何度も頷いていた。
その目はなんだか涙目である。
こんな目に遭ったのはきっと生まれて初めてなのだ。
「わかったならよし。さ、起きて」
レーナが言って、右手を伸ばす。
ドギマは少し震えていたが、レーナが伸ばしたその手を取って、倒れていた体と椅子を起こした。
「口で言っても分からん奴には行動で教えてやるしかない。これは私の父の言葉です」
言って、「にこり」と微笑んだレーナに、私は若干の恐怖心と、敬意を覚えずには居られなかった。
レーナがこうしてくれたお蔭で、その後のドギマの矯正は飛躍的に進むようになった。
尤もそれは私の時ではなく、レーナが教育を担当したその時に限っての事だったのだが……
ドギマが私の家に来てから、はや5日が経過していた。
レーナがドギマを叱ってくれたお陰で、その後の経緯は順調だった。
とりあえずは人のものをとらなくなったし、レーナの前ではなんとなくだがドギマは品行方正になった。
現在、ドギマは命じられて我が家の応接間の掃除をしている。
命じたのは勿論レーナだが、これとて5日前の彼であったなら全く想像ができない事だった。
「だいぶ様になってきたな。家に帰っても続けるんだぞ」
本を読みつつ、私が言った。
ドギマは「ちらり」と私を見たが、特に何も言葉を発さず、再び掃除に集中し始めた。
「ま、まぁ、集中しているのは素晴らしい事だ」
内心では「無視か!?」と、思いはしたが、そこは大人の対応である。
折角褒めてやったのに、という気持ちを殺して、読んでいた本に視線を戻した。
「ドッギマー! あーそーぼ!」
と、フェネルの声が玄関から聞こえた。
学校が終わって遊びに来たのだ。
ドギマは「フェー!」と声を返したが、まだ掃除が終わっていないので、どうしたものかとあたふたし始めた。
「遊んできてもいいよ。今日はもう頑張ったから」
台所からレーナが現れて、「にこり」と笑ってドギマに言った。
ド ギマは嬉しそうな顔を返し、一応、箒と塵取りをまとめて、それから玄関に走って行った。
フェネルとドギマはやはり、というか、思った通りに馬が合った。
会ったその日に一気に打ち解け、それからは私やレーナに絡まず、フェネルはドギマとばかり遊んでいた。
それは私には有難かったが(邪魔する者が居なくなるので)、一方で、フェネル独自のバカが伝染しないかと心配もしていた。
大人をおちょくる例の態度に、子供らしからぬ言動の嵐。
そう言ったものがドギマにうつれば折角の矯正も台無しである。
しかし、それだからと言って、「あの子と遊んじゃ駄目!」というのも、なんだか大人として間違っているかなと思い、私は何も言えないでいるのだ。
要するに、私が悩んでいるのは私自身の責任なのである。
これでドギマに感染しても、フェネルを責めるわけにはいくまい。
「しかし、随分と言う事を聞くようになりましたね。すべてはあなたのお蔭ですよ」
そんな気持ちに到達した後、現れたレーナに私は言った。
レーナは「いえ」と、それを否定して、
「あの子は色々と知らなかっただけです。誰にも教えられていなかったから。子供が可愛いのは分かりますけど、何をしても怒らないとか、甘やかすだけで放置するとかでは、やっぱり、おかしな方向に行っちゃいますよね」
と、母親のような顔で言った。
レーナを育てた父と母(父親は私の友人だが)はなんと立派だろうかと私は思う。
レーナがこの考えに至ったのは間違いなく親の影響であり、この考えはまた次世代にきっと受け継がれていくものである。
レーナとその夫の生き方と考え方を見て子供は育つのだ。
そう考えると教育はその代限りのものではないだろう。
反面教師という言葉があるように、「こうなっては駄目だ」と思う子も居ようが、基本的には子供はやはり、親の考えに似るものだと思う。
私には教育を受けた記憶は無いが、もしかしたら父と母も私の考えに似ていたのかもしれない。
そうすると私にもそれなりの愛が注がれたのであろう。
「もしかすると教育とは、親の愛そのものなのかもしれないな……」
そんな事を思った為に、私はつい、そう呟いていた。
ドギマを預かった日から10日が過ぎた。
ボスオークと交わした約束の日である。
ボスオークは20人程の配下を連れて、あの日のように裏庭にやってきた。
そして、配下を整列させて、私とレーナとドギマを呼んだのだ。
結論を言うと微妙な所だが、初日よりは間違いなく、ドギマは立派な男になった。
奇妙な言動はかなり減ったし、一日一回のお掃除をサボった事は一度も無かった。
食事の後の皿洗い等も自ら進んでやるようになったし、何より人の話……というか、レーナの話を聞くようになった。
そこに、私は不安を抱く。
つまり、レーナの言う事は聞き、レーナの前では良い子なのだが、他者の前でもその品行を保てるかどうかが分からないのだ。
故に私の額には汗が。
そして、目は浮ついていた。
現在、フェネルはここに居ないので、最悪、キレられて暴れられてもなんとかなるのは理解している。
しかし、それは避けられるなら、勿論避けたい事ではあるのだ。
「ご苦労でしたなイアン先生。息子のバカは治りましたかな?」
例の、嫌に渋い声でボスオークが私に聞いて来た。
それには断言はできなかったので、とりあえず「え、ええ」と言葉を返す。
「そうですか! いや、さすが先生! これでワシも息子も安泰だ! 勿論我が部族の者もな!」
それを聞いたボスオークが言い、配下のオーク達が口々に喜んだ。
その方法として相手の腹をグーパンチで殴った者がおり、これは相手にブチ切れられて一瞬険悪な空気になったが、ボスがすぐそこに居る手前、喧嘩に発展する事は無かった。
「おい、先生にお礼の品を。ドギマはこっちに来い。今夜はお前が族長になる前祝の宴を開いてやろう」
ボスオークが言い、配下が動いた。
それから重そうな箱を運んで、私とレーナの前に置いた。
「どうぞ。お受取り下さい」
と言って、配下が箱を開けてくれ、中に入った大量の衣服が疑問する私達の視界に入った。
それは男女の統一感無く、価値も高低まばらであった。
察するに、人間の旅人や商人などを襲って奪い、それらを貯めておいたものを私への報酬としたのであろう。
はっきり言って凄い微妙だ。
要らないとは言いにくいし、かと言って決して要るものでもない。
銅貨の一枚でももらった方が、気持ち的にも遙かに楽である。
「どうしたドギマ。こっちに来なさい」
息子、ドギマが動かない事に気付き、ボスオークが怪訝な顔で言った。
見れば、ドギマは無表情で、父親のボスオークを静観しており、来い、という呼びかけに応じる事無く、レーナの横に立ち尽くしていた。
「ドギマこっちに……」
来なさい、と、ボスオークはもう一度言おうとしたのだろう、だが、その前にドギマ本人が口を開いてそれを阻止した。
「嫌だ。おでは族長にはならない」
「なっ……!?」
聞いた族長と、配下のオーク、そして、私も口を開いた。
レーナはドギマを見てはいたが、私達のように驚いては居なかった。
「おでは、魚取りになりだい。族長になりだいだなんで言っだ事ない」
父親を真っ直ぐ見据え、ドギマが自身の気持ちを語る。
語られた父親はまさに茫然。
やっとの事で「な、」と言い、その2秒後に言葉を出せた。
「お前は、族長になるんだよドギマ。それがお前と……ワシらの為なんだ。ワシはお前をそうする為に愛を注いで育ててきたのだ」
「いやだ。おでは魚取りになる。それでレーナとけっごんするんだ」
父が言って息子が言った。
「結婚……!?」
それから少しして私が焦った。
どういう事かと私は聞いたが、ドギマはそれには答えてくれない。
やむを得ずレーナを見ると、困った顔でレーナは微笑んだ。
「バカな……いや、それは分かっていたが……先生! 治ったと言っていたが、前よりバカになっているではないか! この落とし前はどうしてくださる!」
結果としてボスオークは全てを私の責任にした。
ここまでの教育を一切省みず、10日ばかりを預かっていた私に全てを押し付けて怒ったのだ。
幸いここにはフェネルは居ない。
揉め事は避けたいと思っていたが、私ももはや限界だった。
「お言葉ですが。私とレーナは、この10日間彼を見てました。あなたは15年間何をしていた? 彼のした事に怒った事は? 彼の間違いを正した事は? いや、それ以前に息子を見ていたか? 4才の時の事件をきっかけに、ずっと目を反らしていたのではないか? 教育は愛だ! 甘やかす事、怒らない事が愛ではない! 子供を本当に愛しているのなら、必要な時には叱り、叩け! それが子供の未来を作る親の正しい有様だろう!」
私は言った。
一気に言ってやった。
実際、怒ったのはレーナだし、叩いたりしたのもレーナだった。
が、一応、私もこっそり、ひっそりと彼に関われたはずだ。
15,6年間の教育を放棄し、人にそれを投げた上で逆ギレする者よりはマシなはずである。
「……」
言われたボスオークは無言であった。
しかし、私はせいせいしていた。
戦いになるならなれとすら思う。
今度は拳で教えてやるぞ、と(レーナが)。
「……確かに、先生のおっしゃる通りだ。ワシはあの時から見ていなかった。見ているフリをしてまるで見ていなかった」
「えっ……?!」
ボスオークは意外にも、己の非を認めたようであった。
戦いになるとすら考えていた、私としては肩透かしである。
「どうしても漁師になりたいのか?」
「違う、魚取りになりだい」
父が聞いて息子が答える。
「魚取り、な……」
それを聞いた父親が「ふぅっ」と大きく息をついた。
「……わかった。お前の好きなものになれ。ただし、会には出てもらうぞ。勝ち負けも族長になるという事も問題じゃない。これはワシの父としての頼みだ。その後の事はお前が決めろ」
そして、初めての甘やかしではない、息子の考えを尊重した上での、父としての頼みをドギマに向けるのだ。
「わがっだ」
ドギマはその頼みを受け入れ、父と共に帰って行った。
去り際、
「おぜわになりまじだ!」
と言ったので、私達が
「元気でな(ね)」
と言葉を返すと、ドギマは初日と変わらない様で、
「誰が?」
と、私達に返すのだった。
「あと1か月もうちに居れば、あの辺りも治せたかもしれないのにな……」
「ですね。でもその頃には顔中きっとアザだらけですよ?」
私が呟き、レーナが言った。
「確かにな……」と思った私だが、そこは苦笑いを作るだけにしておいた。
ドギマは部族の長になった。
漁師になりたいのかと思っていたが、定期的に魚を捕る事が出来れば、どうやらそれで良かったらしく、族長になっても暇を見つけては川に魚を捕りに行っているそうだ。
元、族長のボスオークも真剣に息子と向き合っているようで、息子をここまでにしてくれた方なら、と、レーナの嫁入りにしつこかった。
いつだったかは雨の日なのに、玄関の前に正座で待っており、
「うん、と言ってくれるまでワシはここから一歩も動きません」
と言い張って、翌日の朝まで正座をしていた。
私がそれを見つけた時には、彼は完全に風邪をひいており、また、足の感覚がまるで無いと震えて言って困らせてくれた。
結局は1日入院をして、風邪を治して帰って行ったが、その際にもレーナへの嫁入り交渉は欠かしていない様子であった。
それから何度来ただろうか。
少なくとも10回以上は来ていたボスオークがついに諦めて私に言った。
「どうやら好きな男が居るらしい……先生に心当たりはないですか?」
と。
当然、心当たりが無かった私は「さぁ……」と、ボスオークに答えた。
ボスオークは「そうですか……」と力なく言い、「何度もお邪魔してすみませんでした」と、非礼を詫びて去って行った。
残された私には引っかかるものが出来た。
レーナの好きな男とは一体誰なのか、と考えたのだ。
そして、以前のある一件を思い出して、勝手に胸を熱くするのだ。
そう、もしかしたら、と思った為に。
我ながらバカな考えである。
今回一番バカだったのは、案外私なのかもしれない。