せめて夢の世界では
今回は少しシモ系かもしれません(汗)
苦手な方は次回からお願いします。
インキュバスという名前の魔物が居る。
女性の夢に夜ごと現れ、女性と淫らな行為を行っては生気を吸い取っていく夜の魔物だ。
取りつかれた女性は身ごもったり、最悪では相手に夢中になって、食べ物が喉を通らなくなり、死に至るケースも見られるらしい。
私は自身が男である事と、私の周囲にインキュバスとの接点を持つ者が居なかった為に、彼らの存在を知っては居たが、興味を持つ事は一度も無かった。
その日、その夜、夢の中で彼ら自身に出会うまでは。
私はその夜、夢を見ていた。
最初は坂道を上っていたと思う。
すると、前方の坂の上にフェネルの顔が現れたのだ。
フェネルは私を見るなり笑い、「腰抜け腰抜け」と連呼しはじめた。
その時点で意味が分からなかったが、直後にはフェネルの顔が膨らみ、巨大な球のようになって坂道の上から転がってきた。
転がるフェネルの声は低く、たまに「リアルに」と、普通に言いつつも、「腰抜け」という言葉は止めなかった。
私は走り、坂を下って、脇道に見える草むらに飛び込んだ。
すると場面が一気に変わり、牢屋の中のような場所で、私は磔にされていたのだ。
口には猿轡がかまされて、四肢を拘束されていた。
恰好は良く覚えていないが、なぜか犬の口のような愛らしいマスクをつけられてはいた。
そこにそいつはいたのである。
黒い髪に白い肌。
怪しい赤いルージュを引いた美青年と言って良い男性が。
青年は私の正面に立ち、私の体を舐めるように見ていた。
そしておもむろに服を脱ぎ捨てて、私の腰に両手をあてたのだ。
この時私は「いやあああ!!」だとか、「やめて!」だとかを叫んだと思う。
青年はそれが聞こえないのか、私に「にたり」と笑いかけた。
そして、私に下半身をつけ、
「……ああ、やっぱアレだわコレ」
と、気の抜けるような声で言ったのである。
その声は100%親父声で、あまりにもヴィジュアルとかけ離れていた為、夢の中の私ですらも口を開けて「ぽかーん」としていた。
私が夢から目を覚ましたのは、その直後の事であった。
目を開けると当然夜で、上半身を起こした私は「嫌な夢を見たな……」と片目で呟いた。
「なんか、アレ、すみませんね……」
という、声が聞こえたのはその時だった。
声の主は私の左手の入口近くの椅子に座り、ばつが悪そうに頭を掻いて、卑屈に「へへへ……」と笑っていた。
年の頃なら40中盤。
頭の上は少し寂しげで、右の頬に見えるほくろから長めの黒毛が一本伸びていた。
言うならばそう、疲れた事務員。
かなり失礼な表現だろうが、私の彼への第一印象はそう例えるのが一番適切だった。
「アレ、わかります? 夢の中のアレ、アレしようとしたの俺なんで」
男が言って「へへへ」と笑う。
これは何だ、挨拶なのか、と、疑問する私には何も言えず、むしろなぜここに居るのか、というか一体あなたは誰なのか、と、質問したい私にとって、その笑顔は恐怖の対象ですらあった。
「ああすみません。アレ、アレでしたね? 俺、インキュバスのトミーと言います。アレね、先生のアレを聞いてね、アレしてもらいたくてアレしてきたんです」
私の表情から空気を察したのか、男、改めトミーが言って、照れくさそうに頭を掻いた。
が、要所にアレを使い過ぎの為、私は正直名前しか理解する事が出来なかった。
「なぜ、インキュバスのあなたがここに……?」
とりあえず、敵意が無い事を見て、私は初めて口を開いた。
そして、少しずつではあるが、居る理由や訪ねて来た理由をトミーに向けて聞いていった。
トミーの話にはアレが多く、まとめるのに中々苦労したが、要するに何らかの病を患って治療してもらいに来た事は分かった。
「なるほど……」
と、息をつき、私は私なりに一つ思う。
それはまぁ理解できたが、時間と場所は少しくらいは弁えて欲しいものだな、と。
人の夢にいきなり出てきて、あんな事をしようとするか、と……
「あれ? アレの事まだアレしてんですか? アレはアレですよ、アレですよ先生」
私のため息で何かを察したか、トミーが言って謝罪(?)したが、やはりはアレが多すぎて何も伝わって来ないというのが私の正直な感想だった。
朝、私はトミーと共に台所で食事が出来るのを待っていた。
現在、食事は居候をしているレーナが担当してくれており、その他にも掃除、洗濯、雑用等々、自ら進んでやってくれていた。
見た目の年齢は20前後だが、実際の年齢は私も知らない。
フェネルが前に一度聞いたが「うぇぇえ!?」という声を発した後には「シラナイ・ナニモキイテナイ」と、聞いた事を話そうとしなかったので、私も聞くのが怖くなったのだ。
しかしまぁ、おそらくはだが、流石に私よりは年下だと思う。
「あの、先生、アレですかあの人、先生のアレなんですかあの人は」
そう言ったのはトミーだった。
一応は気を利かせているのか、レーナには聞こえないよう、右手を添えての声ではあった。
「あー、いや、友人から預かっている娘さんです。アレが何を指すかはわかりませんが、特別どうという関係ではないですよ」
「はー、そうなんですか。そりゃ勿体ない」
トミーが呟いてレーナを眺めた。
そこは一応インキュバスなのか、女性への視線は何となくだが、ねちっこいように私は感じる。
「で、トミーさん、アレについて、もう少し詳しく伺いたいのですが」
「あれ? アレの事話してませんでしたっけ?」
そんな視線を外させる為、また、本来の仕事でもある為、私がトミーに質問したが、本人は終わったと思っていたのか、怪訝な顔を私に見せる。
正直、アレが多すぎて意味が分からなかったと言おうとしたが、魔物関係を熟慮した私は少しずつ外堀を埋めていった。
そして、十数分をかけ、トミーがここを訪ねた理由をようやく聞き出すに至るのである。
トミーはつまり、インキュバスとして、アレがアレしなくなった為に、それを治療してもらいたくてここを訪ねてきたのだと言った。
原文がそのままで申し訳ないが、流石に露骨には記せないので、アレはアレとして勘弁してほしい。
「しかしそれは何というか……私の専門外の事で、治療してくれ、と言われても困る類のものなのですが……」
私は確かに内科も外科も、ある程度の事なら把握しているが、所謂、泌尿器に関わる事にはあまり造詣が深くはなかった。
故に、それは引き受けられないかも、と、やんわりとトミーに断ったのである。
「いやいや先生、アレですよアレ、あるんでしょ? ああいうアレなクスリが。アレでアレがレアっちゃうんでしょ?」
「レアる!?」
新しい単語に私は驚き、少々ながら鼻水を噴き出した。
「あの、詳しくは分かりませんけど、下半身の相談でしたらフォックス先生に話したらどうですか?」
料理を置いてレーナが言った。
フォックスとは私の古い友で、市街で産婦人科を経営している老いた医者の事である。
レーナはフォックスとは面識は無いが、話で存在を知っていた為に、今件の出口として提案してくれたのだ。
「確かに、それが良いかもしれない。トミーさん、詳しい医者を紹介するので、そちらの方を訪ねてくれますか?」
それが分かった私が言ったが、
「んー……」
と、トミーは微妙な表情。
「人間の町に行くのはちょっとアレだなぁ……」
インキュバスらしからぬ言葉を吐いて、私とレーナを困らせるのである。
「突っ込んだ所を聞きたいのですが、アレがその、アレなままだと、トミーさんは一体どうなるのですか?」
もしかして大した事が無いのでは、だからこそそんなに暢気でいるのでは、と、思った私がトミーに聞いた。
「え? 死ぬよ?」
が、返されてきた言葉は衝撃的で、医者としての私はそれでトミーの事を見捨てられなくなるのであった。
朝食を終えた私とレーナは、プロウナタウンの市街に来ていた。
目的は私の友人でもあるフォックス医師に会う為である。
フォックスは老齢だが、産婦人科を経営しており、私よりはそういう方面の知識が豊富だと思われたからだ。
自宅を出てから30数分。
私達はようやく目的地に着く。
フォックス産婦人科の「ブリッと一発」という見慣れた看板を一瞥した後、「こんにちは」という声が出る謎のボタンを私が押した。
いつもであれば反応は無く、ドアが閉まってさえ居なければ私が中に入るわけだが、
「おっ、イアンか。入れ入れ」
今日は珍しく本人が出てきた。
クロスワードの本を片手に顔を向けずに言って消える。
初めまして、と言おうとしていたレーナは「は」で固まったままだ。
「クロスワードに夢中のようだ。まぁ、とりあえず入りましょうか」
「は、い!」
私が言って、レーナが頷いた。
は、じめましてを強引に、は、い! に変換した為だろう、レーナの口の形はヘンだ。
そう思い、私がほくそえんでいると、
「あ、で始まって、ら、で終わる5文字の何かがわかるかイアン? ヒントは雨の日らしいんじゃがな」
と、診察所の奥からフォックスが何かを質問して来た。
「雨の日……? あー、水溜りか……?」
唐突の事で困惑してしまい、私は適当に言葉を返した。
「あ……ん……こむら? あんこ村……いや、雨は関係無いか」
どうやら「あ」と「ん」と「ら」までは出ているのか、そこを強調してフォックスが言ったが、どうやら違うと判断したようだった。
「アンブレラ、じゃないですか?」
私の背後でレーナが言った。
「アンブレラ? 傘か! なるほどなるほど! これで解けた!」
それを聞いたフォックスが飛び、「うひょおおう!」と叫んで本を叩いた。
続けざまにロッカーを蹴り、落ちてきた書類を宙に巻き上げてパズルの完成に狂喜する。
「ちょっと喜びすぎじゃないか……自分の年を自覚してくれ」
流石に少し行き過ぎと思い、私が好意からの忠告をした。
しかしフォックスは「なぁーにを言うか!」と、私の忠告に聞く耳もたずだ。
「あんたのお蔭じゃお嬢さん! 景品が当たったらプレゼントするからな!」
ついにはレーナの両手を取って、二人して「くるくる」と回り始める。
レーナは少々迷惑そうだが、しかし嫌ではないのであろう、苦笑いを作って喜びに付き合っていた。
「所であんたイアンとは??」
少しの間を回転した後、フォックスが唐突にレーナに聞いた。
冷静になって見てみた所、記憶に無い人物だったので急速に気になってきたのである。
「あ、えっと、レーナと言います。初めまして。イアン先生の所に居候させてもらっています」
聞かれたレーナがフォックスに答える。
フォックスは「ほーん?」と納得したが、私の方を「ちらり」と見てもいた。
多分だが「前の女と違うの?」と、フォックスは私に言いたかったのだろう。
「まぁ、私にも色々あってな」
それが分かる私はそう言い、少々強引にでも話を切り上げて訪ねた理由の本題へと入った。
「にゃーるへそ。まぁ事情は分かった。本人を診にゃ何とも言えんが、とりあえずコレでも飲ませとけ」
全てを聞いたフォックスは言い、「-30度からの98度」という、謎の薬を私に差し出した。
「ワシらはそいつをマイサンと呼んどる。コレが効かにゃあ精神的なもんだ」
そして、特に聞いても居ないのに私に向かってそう説明し、私の手に薬を置いて、隣の部屋へと行ってしまうのだ。
この事によりとりあえずはだが、フォックスを訪ねるべく用事は終わった。
私は壁越しに「邪魔したな。助かった」と告げ、レーナと共に診察所を出る。
帰り際レーナが「どういう意味ですかね?」と、薬のラベルを見て聞いてきたが、私としても想像の域を出ない事ではあるし、何よりレディには説明できないので、それには「さぁ……」とだけ答えておいた。
私とレーナは家へと戻り、フォックスから渡された例の薬を、昼食時にトミーに手渡してみた。
トミーはそれを三錠程飲み、しばらくの間「ぽけー」としていた。
しかし、3分程が過ぎ、鼻の両穴から鼻血が垂れると、
「なんか変わったんですかね?」
と、無表情で私に聞いてきたのだ。
正直に言えばむしろ私がそれを聞きたい所であったが、医者として、とりあえず「何も変わった気がしませんか?」と、体調の変化をトミーに聞いてみた。
「強いて言うなら気持ち的な何か……? ああ、駄目だったんだな、みたいな絶望感?」
そこはそう変わってはいけない、と、私は励ましてやろうとしたが、下手に刺激するのもまずいと思い、今回は敢えて言わずに置いた。
言って、いきなり「あんたに何がわかるんだぁぁあ!!」と爆発されたら困るからだ。
「先生ね。俺ね。アレにアレされてんですよ。アレが居るのにアレされてんです」
だから分からない、と言いたかったが、先の理由から私はやむなく「アレとはなんですか?」と優しく聞いた。
「アレっていえばアレですよ……有り体に言えば彼女ですよ……」
「アレは彼女……?彼女に彼女されている……?」
「いやいや、後ろのアレはアレです。また、別のアレですよ先生」
ここで私にも限界がやってきた。
「もう無理!」という声を殺し、「申し訳ないが……」と言ってレーナに頼む。
レーナも気持ちを汲んでくれたのか、「わかりました」と言ってすぐに代わってくれた。
その結果、トミーは彼女に逃げられているという事が分かり、子供が居るのにそれを放置して、挙句にアレがアレになった為に(原文で失礼……)苦悩しているという事が分かった。
フォックスの言った精神的な何か、とは、もしかしたらこの事だったのかもしれない。
私は精神科医ではないが、抱え込ませるよりは良いと思い、トミーになぜそうなったのかを順序を追って質問してみた。
そして分かった事はこう(アレアレは省く)。
トミーは今から1年ほど前に、後日、恋人となる女性と出会った。
女性は人間で、年齢は22才。
特別美人というわけではないが、気立ての良い人だった。
出会った場所は当然夢の中。
生きる為にトミーが彼女の生気を吸い取ろうとしたわけである。
しかし、トミーは彼女に触れて、彼女の心に惚れてしまった。
故に生気は殆ど吸い取らず、夢の中での逢瀬を何度も重ねた。
結果として子供が生まれ、彼女達が生きる為には、現実世界でのトミーの力が必要不可欠となってしまった。
だが、トミーは現実世界では、見た目がちょっと……な、インキュバス。
夢の中ではイケメンだったが、それはまぁ狩りの為の仕方がない手法だったのだ。
だからトミーは現実世界では、彼女達に会わなかった。
彼女に不満が募っていたのは、トミー本人も分かっていた。
だが、会えば100%失望される事も分かっていた。
そんなある日、夢に入ると彼女が別のインキュバスとよろしくやっていたのだそうだ。
そいつはリアルにもイケメンであり、人間の女性を餌としか見ないような、トミーから見て格上のインキュバスだった。
「もうどうでも良くなっちゃった……ここには来ないで、もう二度と……」
そのインキュバスに落とされたのだろう、トミーはそんな事を彼女に言われ、その時から今の病を患った。
このまま死んでも別に良いが、本当にこのままでも良いのかとも思った。
そんな時、私の噂をどこかの空で聞いたのだそうだ。
そこからの流れはご存知の通りだ。
全てを知った私達はトミーの次の言葉を待っていた。
そう、「自分はこれでいいのか」という、自身の未来を問う質問である。
ここで諦めてしまうようなら、トミーもある意味私と同じだ。
後々きっと後悔するはずだ。
出来る限りの事をやって、それで駄目なら諦めがつく。
しかし、何もしないで居たら、必ず後で悔やむ事になる。
だから私はトミーには決して諦めて欲しくなかった。
私と同じ後悔をいつまでも引きずって生きて欲しくなかった。
言葉には出さず、視線だけで、私はそれをトミーに伝える。
「先生……俺は本当にこのままで居て良いんですかね……?」
そしてトミーはそれを言った。
私の答えは決まっている。
「良いと思っているのなら、あなたはそんなに悩んではいないでしょう? やれる事をやりましょう。それで駄目なら諦めがつくはずだ」
トミーの表情が初めて輝いた。
私達はドリアードゲートを通り、南国のイグニスへとやってきていた。
この土地には私は過去に温泉巡りでやってきたが、人間の町を目標として訪ねた事は初めてだった。
私達が訪れたのは「ボルダー」という名の宿場町で、その町の市場で野菜を売っている一人の女性に会う事が今回の最大の目的だった。
「ああ、ケイトの事だね。だけど最近あの子はこないよ。子供が生まれたばかりだってのに一体全体どうしちまったのかねぇ……」
市場で同じく野菜を売っていた50代位の女性はそう言った。
ケイト、即ちトミーの恋人は、察するに、もはや外に出る事が億劫になってしまう程に生気を吸い取られてしまっている。
いや、もしくはもうすでに、命を奪われているのかもしれない。
「もしかしたらもうケイトは……先生、ちょっとアレだったんですかね……?」
「いや、絶対に間に合います! 間に合わせるんだトミーさん!」
一抹の不安を抱いたトミーを励ましながら私達は急ぐ。
ケイトの家は町はずれの大木の脇に立つ一軒家だった。
「すみませんケイトさん! ちょっといいですか!」
私が言って、扉を叩くも、中からの返事は帰って来ない。
太陽が西へと沈み始め、夜の帳が少しずつ空と周囲を侵食していく。
「夜になるとあいつがアレです! 今の内にアレをしないと!」
相変わらずのアレアレだったが、言いたい事は今なら分かる。
私はやむを得ず扉にぶつかり、強引に錠をこじ開けた。
そして、3人で中へと飛び込み、ケイトの現状を知るのである。
「あぶぅ……わーわ……! わーわ!」
喚いているのは赤子一人で、その母親たる人物ケイトは寝息もたてずにベッドに寝ていた。
頬は扱け、目の下には大きなクマも窺える。
胸の上で組まれた両手は殆ど骨と皮だけだった。
「これは不味いな……」
私は言って、ベッドへ走った。
念の為にと最低限の医療器具を持ってきた事は正解だった。
「大丈夫、生きている! 手遅れでは無かったトミーさん!」
私はケイトの生存を確認し、栄養剤が入った袋を素早く展開してそれを刺した。
「あ、ありが、ありがとう先生……! 俺は……俺はもう……」
トミーは何かを言っていたが、喜んでいる事は確かなようで、来るべく次の戦いへの覚悟をここで決めたようだった。
「はーいもう大丈夫ですからねー。先生とトミーさんがお母さんを絶対に助けてくれますよ~」
不安がっている赤子を抱え、そう言ったのはレーナであった。
流石は女性と言って良いのか、男達では気付けなかった、子供の事に気づいてくれたのだ。
赤子はそれで安心したのか、「ぶぅぶぅ」と何かを言っていたが、先ほどまでに見られたような不安気な様は見られなくなった。
それから1時間程が経っただろうか。
ケイトの容体は安定していたが、突如として体が痙攣しはじめた。
「来た……あいつがついに来た」
その様子を見たトミーが言った。
そして今までに無い決意の顔で、
「俺……ありのままの姿で行きます。ありのままのこの姿で行って、あいつの心を奪い返して来ます! それでアレなら後悔はしません!」」
と、私達に向かって行った。
アレの意味は勝手に察し、私が頷き、レーナが頷く。
トミーはその後に姿を消して、彼女の夢に入って行った。
トミーの戦いと想いが実る事を私とレーナは祈っていた。
トミーが私達の元に戻ってきたのはそれからおよそ2時間後の事だった。
ライバルであったインキュバスは、トミーから見るなら格上だったが、気合と、愛と根性で、それをどうにか撃退したらしかった。
それは良かった、と、私は言って、もう一方はどうなったのかと質問してみた。
トミーはそれには「それは……アレです……」と、微妙な反応を私に返す。
私とレーナは顔を見合わせ、「ああ……もしかしてやっぱりアレだったか」という、残念な気持ちを大きくさせた。
そこで、トミーの恋人であるケイトが目を覚ましたのである。
トミーはバツが悪そうだったが、それでもケイトが目を覚ました事に、喜んでいるように私には見えた。
「トミー……」
ケイトに名を呼ばれ、トミーが「びくり」とする。
直後にはゆっくりと顔を向けて、複雑な笑顔をケイトに見せる。
「俺……俺は本当はこんななんだよ……せめて夢の世界ではお前の前でカッコよくいたかった。だからこっちでは会いたくなかった……今までその、アレだったよな……」
トミーが俯き、ケイトに謝罪した。
聞いたケイトは「ふふっ」と微笑み、
「アレだったって、意味わかんない……」
と、微笑みながら涙を流した。
「でもトミーはやっぱり来てくれた……これからはずっとその顔で居てよね……」
そして、涙を流しながらに笑って、トミーにそう言ったのだった。
絶望していた顔を上げて、トミーが「ぼろぼろ」と涙を流した。
「良かった……良かったよ……アレしてきてさ……お前が生きていてくれて……ホントにアレだったよ……!」
私とレーナはひっそりと彼らの新しい家から去った。
後日、彼らが挨拶に来た。
わざわざすまないなと私は思ったが、新婚旅行のついでと言われ、若干拗ねた気持ちになった。
インキュバスであるトミーであったが、今は人間の社会に溶け込み、煙突掃除の仕事を見つけて家族の為に頑張っているそうだ。
まぁ元々は飛べるのだから、高い所で行う仕事は彼には向いているのであろう。
「先生もそろそろアレしたらどうです? アレ、実はアレなんでしょう? 自分、アレはアレだと思いますよ?」
立ち去り際、私に耳打ちし、トミーがそんな言葉を残したが、相も変わらぬ「アレアレ」だったので、何が言いたいのかは分からなかった。
しかし、取り敢えずアレはアレして、来年には二人目が生まれてくると、トミーは最後に嬉しそうに言った。
アレがアレしてアレがアレ。
結果としては最上だったが、一生分のアレをここで聞きつくしたかのような一件だった。