Episode:007 交錯する思惑
ほの暗い闇に閉ざされた室内で、甘い情事が繰り広げられていた。
ベッドに組み敷かれた男に跨った女が扇情的に跳ねる。
美しくも艶かしい曲線を描く女の肢体に汗が伝い、ベッドが軋み、両者の荒い呼吸と、微かな嬌声が入り乱れ、混ざり合った。
女性の腹部には、大きな傷跡があったが、魅力的な体の前には、些細な瑕疵に過ぎない。
濃密な時間が過ぎていく。
やがて女の体が一際大きく跳ね、暫く震えた後、情事はおごそかに終わりを迎えた。
倒れ果てた女は最初の内は男と抱き合っていたが、やがて起き上がり、ベッドから出る。
女は、部屋にシャワールームがないため、体液をタオルでふき取ると、すばやく服を着込んだ。逢瀬を重ねた相手を一瞥もせずに、彼女は部屋を後にする。男の側は、そんな女の態度に不平不満を抱いている様子はなかった。熱い絡み合いが嘘だったかのように、両者とも終始無言だった。
男の部屋を出た女は、振り返らず進んでいく。
向かった先は、高級士官用の区画だった。
大人三人が並んで通れるような広さの通路の中央を彼女は歩くと、すれ違う軍人は全員道を譲り、最敬礼で彼女を見送った。
豊満で妖艶な肢体を持つ30代の女性は、高貴な立場にある高位の軍人である。自信に満ち溢れた立ち居振る舞いは秘め事の後でも変わらない。艶やかにウェーブの掛かった赤い長髪を靡かせて歩く姿には壮麗さすら感じられる。
ほどなくして辿り着いた自室の扉を開けると、中には先客がいた。
「やあローズ。お邪魔させてもらっているよ」
その男は、不遜にも、豪奢な高級士官用の個室にある長椅子に寝そべり、置いてあった彼女の私物の本を読んでいた。
他の誰が同じ事をやっても許されないが、彼だけは例外である。ローズと呼ばれた女性と彼は、それほど気心の知れた仲であった。もちろん、先の男性とは違う“健全な”仲である。
「あら、いらっしゃいアシュリー」
ローズは妖艶な流し目で彼――アシュリー・シエロ・グランベルを出迎えた。
帝国第三王子にして、帝国三剣の称号を持つ、超高位魔術師の一人。
帝国が抱える要人の中でもトップクラスの権能を持つ人物だ。そんな彼と対等なローズもまた、尋常な立場ではない。
アシュリーは本を置き、立ち上がる。
そして何かに気付いて、顔をしかめた。
「あまり感心しないな」
アシュリーはローズが纏っている大人の香りの正体をすぐさま看破した。
「ヒースは、私が他の男と寝た話をすると、すごく興奮してくれるのよ」
当の本人はアシュリーの言葉をどこ吹く風と受け流す。
ヒースとはローズの夫だ。
ヒース・ミストレイン公爵は代々優秀な魔術士を排出してきた名門貴族の当主である。
ローズは、公爵夫人にも関わらず不貞を働いていると、公言していた。
「私が心配しているのは、君ら夫婦の倒錯しきった愛の確認に巻き込まれる間男の方だよ」
「あら、自慢じゃないけど、関係を持った相手を失望させた事はないわよ、私」
そう宣言しながら自身の胸の稜線をなで上げるように右手を蠢かせる。
扇情的な振る舞いに、アシュリーは頭を抱えた。
「ローズ、君と関係を持った男たちの異動先は知っているかい?」
「ええ、もちろん知っているわ。一度限りとはいえ逢瀬を重ねた相手ですもの。でも、ヒースの寛容さは、私の相手には示されないようね」
彼女の相手は必ず異動を言い渡される。
その異動先は、魔獣の巣付近の駐屯地や帝国東部紛争地域の激戦区だ。生きて帰れる保証はない。
ヒースのローズへの愛は捻じ曲がっているのだ。
夫は、妻に対してのみ慈悲深く、逆に彼女と関わる第三者へは容赦がない。
「極上の時間を過ごせる対価としては、安いものでしょう」
そう言うローズもまた、どこか頭の螺旋が外れている。
一人の兵士の人生を狂わせておいて、自責の念はまったく感じていない様子だった。
ローズの奔放さが黙認されるのには、わけがある。
それは彼女が貴族だからというだけではない。
「いくら【至尊の十冠】と言えど、節度は持ってくれ。君がそんなでは、同列の帝国三剣も品位が疑われる」
至尊の十冠。
帝国の大貴族が治める10の州それぞれで、最高の魔術士を決める【大魔術大会】が4年に一度開催される。
州毎に催される10の大会は、州に暮らす者であれば誰でも参加でき、貴族から平民、果ては戸籍のない貧民にまで参加権があり、全州民の有志が集う一大イベントとなる。
その大会の優勝者に与えられるのが、至尊の十冠という称号である。
全州民に門戸が開かれていると聞くと、公平な競技大会のように思われるが、魔術士の出来不出来は、血脈に大きく依存している。
魔術の素養は遺伝し、魔術士同士が子を成すことで、より優秀な次代が生まれてくるのだ。帝国の貴族は例外なく魔術士であり、貴族の家が古く大きくなればなるほど、何十代に渡って貴族同士の婚姻が繰り返され、より強大な魔術士となる傾向にあった。
つまり平民や貧民に、勝ち目はほぼないのである。
その証拠に、ここ100年で至尊の十冠が州を治める大貴族の家系以外に渡った例はない。
各州のマギスピアは、その州の統治者の家系がほぼ独占する出来レースと成り果てていた。
一方、帝国が誇るもう一つの超高位魔術士の証である帝国三剣は、実力、実績、素行に秀でた者のみに与えられる能力主義である。実力と功績が著しい者にのみ皇帝が与える名誉なのだ。
しかしながら、至尊の十冠が帝国三剣に劣るというわけではない。
「貴方たちに迷惑は掛けないから安心して。プリムローズ・ミストレインの名にかけてね」
当代ミストレイン州最強の魔術士にして超高位魔術師、至尊の十冠、“戦場の霧”プリムローズ・ミストレイン一佐は、魔術戦においてアシュリーに比肩する。条件さえ整えば、アシュリーを凌駕するかもしれない。
それ故に許されている。
ヒース・ミストレインも彼女の性格に難儀しているに違いない。
しかし魔術士として換えの利かない人材である彼女の不興を買うことを恐れている。
ミストレイン家は、一族の血をもっとも色濃く受け継いだ彼女を、手放す事はできないのだ。それ故に、彼女は自由を約束されている。
あるいは、彼女の夫が“そういった性癖”に目覚めてしまっただけかもしれないが。
「私の身体が目的じゃないのなら、何の用で来たの?」
「ここを発つ前に、一つ忠告をしようと思ってね」
「ああ、そういえば、例の失敗で本国に送還されるんだったわね。レポートは見させて貰ったけど、貴方の事だから、どうせまた変な遊び心を出したんでしょう? 私の事をとやかく言う前に、自分の行いを省みるべきじゃないかしら?」
「まったく耳が痛い。部下に重症を負わせ、作戦全体を危険に晒したのだから、弁明しようもないよ。本国では改めて自制心を学ぶ事になりそうだ」
そう自嘲気味に笑っているが、目には剣呑な光が宿っている。
アシュリーは魔術士として大きな自尊心を抱いていた。その自尊心に泥を塗られて、内心穏やかであるはずがない。表面上愁傷な体を取り繕っているが、彼に土をつけたグリモアは絶対に許されない存在である。
爛々と輝く返報性とは別に、彼は本国で待つ自分の未来に対し心構えしておかなければならなかった。
権謀術数渦巻く帝室で、実力に物を言わせて大きな顔をしていたアシュリーは、他の兄弟姉妹やその下につく貴族連中に快く思われていない。自制心が試される機会は多そうである。
そして、今一つ自制心を働かせた結果、個人的な感情を度外視し、同僚に助言をしにきたのだ。
「レポートに書いた蒼いグリモアには、くれぐれも気をつけてくれ」
「とんでもない速度の飛翔魔術とありえない堅さの魔術障壁ってだけで、私にはあまり脅威には感じられないのだけど」
「確かに、蒼いグリモアが私との戦闘で見せた魔術だけでは、君に軍配が上がるだろう」
「なるほど、それ以外にも何かありそうって事ね」
「ああ、蒼いグリモアの魔術は、今までに経験してきた物とは根本的に異なる印象を受けた。起動陣も従来のパターンに当てはまらない。飛翔魔術と魔術障壁の膨大な出力、それを可能にする底なしの魔力だけが、蒼いグリモアと魔術士の本領とは思えなくてね。これから作戦を主導する君には、私と同じ轍を踏んでほしくはない」
忸怩たる思いをかみ殺して、アシュリーはそう告げた。
本心では、机にしがみ付いてでも最前線に残り、蒼いグリモアとの決着を自らの手で着けたいと思っている。
その思い上がりが、部下と作戦を窮地に追いやったのだ。
帝国三剣と呼ばれ、鼻を高くしていた。自分に未熟なところがあっても、それを補って余りある魔術の才があると考えていた。
それが度し難い思い込みだと、蒼いグリモアはわからせてくれたのだ。
高みを目指す過程で躓いた己は、幸運である。
全てを手中に収めた後で、愚行を犯さずに済んだのだ。驕り高ぶった自身を省みるチャンスを貰った。
代償は高くついたが、おかげでアシュリーは更なる成長を自分に課す決心をした。
より人格的に完成するために、王宮の兄弟姉妹の相手を大過なくこなすつもりである。
その手始めに、今ここで、プライドよりも軍務を優先しているのだ。
アシュリーの本気が伝わったのか、ローズは、寄りかかっていた机から体を離し直立不動の姿勢をとる。
「了解した。グランベル三佐。南方戦線突破作戦、貴様と協同できないのを残念に思うが、私だけでも完遂してみせよう。手土産は蒼いグリモアの御首級だ。喜べ」
「ご武運をお祈りします」
流麗な所作で、アシュリーも返礼する。
南方戦線突破作戦は既に始まっている。
蒼いグリモア、そしてその母艦の攻略は、通過点に過ぎない。
統一グランベル帝国とイーリス王国が巻き起こす大戦争、その火蓋は、両軍の大艦隊が集結しつつあるエテリア大陸内海ではなく、南方のノトス海で切って落とされる。