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天の限りに昇る月  作者: 喜由
第一章 ノトス海戦編
7/63

Episode:005 堕ちる蒼穹、昇る月 (後編)

 グリモア【シークレット・フォース】の操縦席には、入力端末が敷き詰められていた。

 ピアノの鍵盤に似たそれは、パイロットの背面以外を、惑星の環のように取り囲んでいる。

 36個の魔術入力鍵(コントロールキー)、2つの操縦桿、3つのペダルを駆使して操作するシークレット・フォースのコントロールは、グリモアの中でも簡単な部類だ。


「わざわざそちらの国の言葉を使ってやったが……言われなくても自分の置かれた状況は理解できているだろう。さて、どう出る?」


 アシュリーは唇を軽く舐めた。

 魔力乱流後の蒼いグリモアの行動は、アシュリーたちには理解しがたいものだった。

 魔力乱流から出てきた何かを空中で捉えたことはわかっていたが、離れて追跡していたアシュリーたちは、その正体を把握できていない。


 重要なのは、獲物が自ら進んで好機を用意してくれた、ということだ。

 グリモアの搭乗者が無防備に外に出てきたのを確認したとき、不確定要素があったとしても有利と判断したアシュリーは、鹵獲作戦を決行した。


 ブレンダンには、万が一蒼いグリモアが罠を敷いていた場合の援護と、イーリス王国軍が現れたときのために逃走経路の確保を命じている。


 もちろん2機で奇襲するという選択肢もあった。

 そうしなかったのは、アシュリーが自らの能力に絶対の自信を持っていたことと、彼がイーリスの魔術士に興味を抱いたからだ。


 2機のグリモアによる奇襲に対抗することは不可能でも、敵が単機ならば、魔術士の実力と運次第で、逆転できるかもしれない。

 危急に際して、一筋の光明は、よく輝いて見えるものだ。

 そうやって追い詰められた時、何を思い、どう行動するかが、アシュリーの興味の対象だった。


 怯え、諦め、逃げ、戸惑い、立ち止まるか。

 信じ、勇み、進み、歯向い、立ち向かうか。


「逆境の中で垣間見える感情の発露と行動の結果が個人の本質だ……イーリスの魔術士、お前という人間をさらけ出してみろ」


 アシュリーの悪いところは、好奇心が合理性を上回ると遊び心が生まれてしまうところだった。

 もともと敵グリモアの拿捕もアシュリー発案の余興のようなものだ。


 周辺海域の探索は終わり、イーリス王国軍の新型機の性能は見せてもらった。

 あとは、"あの男"の情報に偽りがないか確認するだけだが、アシュリーは、すでに疑いを抱いてはいなかった。


 つまり、アシュリーたちの当初の作戦目標はこの段階で達成されている。

 ここから先は、アシュリーの独断。不可解極まりないイーリス王国軍の魔術士の行動にアシュリーの好奇心は刺激された。もっと楽しいことが起こるのではないかーーーーそんな期待に、胸を躍らせていた。


 アシュリーの期待は、しかし裏切られる。

 機体の掌の上に乗ったイーリスの魔術士は、両手を上げて無抵抗の意志を示してきた。


「…………なるほど、凡手だが賢明な判断だ」


 納得しつつも、声に滲む落胆の色は隠しようがなかった。

 紺のパイロットスーツを纏った魔術士は、男のようにも女のようにも見える、若い魔術士だった。

 貴重な新型機を任される魔術士は、おおむね経験豊富で優秀な魔術士ばかりだ。

 今回は違ったらしい。


「――――んっ?」


 相手のパイロットを観察している最中、アシュリーは違和感を覚える。


 水面に反射する太陽光の加減が、いつの間にか変わっていた。

 水面下に沈んでいる蒼いグリモアの足元に、うっすらと光がにじんで見える

 それだけのヒントで、アシュリーはすべてを悟った。


「そうだ、そういうのを待っていた!」


 目にもとまらぬ速さで鍵を叩き、操縦桿をひねる。

 魔術センサが警告音を発したときには、アシュリーの飛翔魔術の再起動は終わっていた。

 起動陣が展開し直されたシークレット・フォースは素早く飛び退る。

 その直後、機体がいた空間を、3条の細い光線が駆け抜けていった。

 蒼いグリモアが放った攻撃魔術だ。

 魔力消費量を極限まで抑えることで、シークレット・フォースの魔術センサが魔力を感知するのを遅らせ、起動陣を海水に浸っている足元に作りアシュリーの目を欺いた。称賛に値する機転だ。


 中でも特筆すべきは魔術の起動速度。

 別の場所に身を潜めているブレンダンにすら気づかせなかったということは、術式の組み立てから発射まで非常に短い時間で行われている。


 グリモアの装甲は、全て成形魔石繊維が使われている。成形魔石繊維は、グリモアの手足を動かす筋肉であると同時に、魔力を伝達する伝送路にもなる。装甲のどこかにパイロットが接触していれば、魔術の入力を、自動魔術精製装置に伝えることは可能だ。

 

 しかし、機体外部から魔術は、簡単なものでも、起動に非常に時間がかかる。

 アシュリーがグリモアを外部から操作したときは、あらかじめ浮上する設定の飛翔魔術を用意しておき、指を鳴らす合図で起動させていた。下準備をせずに同じことをやろうとすれば、少なくとも20分は必要だ。実戦レベルの技ではない。

 それを、イーリス王国の魔術士は実演してみせた。しかも、ごく短時間で、だ。


「退屈せずに済みそうだ」


 今頃ブレンダンもさぞ慌てていることだろう。

 己の優勢を確信していたアシュリーに油断がなかったと言えば嘘になる。

 だが警戒していなかったわけでもなかった。

 アシュリーもブレンダンも歴戦の魔術士だ。


 戦場の油断が死を招くことを、知らないわけではない。

 この場合、圧倒的不利な状況下で2人の魔術士の目を欺き、見事魔術を組み上げた若い魔術士の腕を褒めるべきだ。


 抜け目のない敵は、アシュリーが攻撃を回避している内に、素早く機体に乗り込んでいる。


「魔術士とグリモア……どちらが優秀なのか、あるいはどちらもそうなのか……試させてもらおう」





//




 イリアスは、シークレット・フォースに比べれば格段に広いコックピットに飛び込んだ。2つの操縦幹と2つペダルのみで操作できるキュアレーヌス・セレネの操作端末は規格外だ。

 先にコックピットに転がり落ちていた少年は、まだ気を失っていた。

 操縦席の足元に無造作に横たわっているが、いまは、気遣っている余裕がない。


「あれに反応されるのか……まずいな……」


 飛翔魔術を起動しながら、イリアスは危機感を露わにする。


 グリモアが敵に腕を向けて起動陣を敷いているということは、攻撃魔術をいつでも放てると威嚇する一方、魔術障壁を停止していることを示唆している。そうしなければ自身の魔術障壁が邪魔で攻撃できないからだ。


 あからさまに魔術障壁を切って近づいてきた帝国のグリモアに乗っている魔術士は、自らの優勢を疑っていない様子だった。


 グリモアのコックピットを離れたパイロットは陸に上がった魚も同然だ。


 帝国の魔術士の判断は間違っていない。しかし、正解でもなかった。


 キュアレーヌス・セレネには、戦闘補助精霊が搭載されている。

 本来なら実戦で使えるような代物ではない外装経由の自動魔術精製装置の操作を、戦闘補助精霊の手を借りて実現したイリアスは、完璧に帝国の魔術士の意表を突いたつもりだった。


 残り少ない魔力を注ぎこんだ渾身の一撃を、しかし帝国の魔術士はなんなくあしらってみせた。


 一瞬で浮遊静止状態の飛翔魔術をキャンセルし、回避軌道をとる飛翔魔術を発動した敵の魔術は、神速の領域にある。


 イリアスは戦闘補助精霊のおかげでグリモアをインタラクティブに動かせているが、本来グリモアの魔術は、一瞬一瞬に即応が難しい。


 魔術を用いるには、操縦者の命令を自動魔術精製装置に入力する一手間が、必ず必要になるからだ。


 ――――翼と盾のないグリモアは木偶と変わらない。


 魔術障壁や飛翔魔術の切れ目を攻撃されて撃墜されたグリモアは数知れない。

 現代魔術戦でグリモアが一般兵に撃破される唯一にして最大の弱点、それが【魔術の空白】だ。

 グリモア同士の戦いでも、魔術の空白が勝敗の分かれ目になることが多い。魔術の空白を解消する方法がない事はないのだが、経験と才能と技量が必要な高等テクニックであり、すべての魔術士が使えるわけではなかった。

 

 魔術による機動力、攻撃力、防御力が備わったグリモアは圧倒的だが、絶対的ではないのだ。

 魔力消費が多いAMFと戦闘補助精霊が革新技術として注目されている理由は、“どんな魔術士でも魔術の空白を解消できるようになる”からだった。


 敵は、一度起動陣を張り直したところから、通常のプロセスで魔術を発動しているのは明らかだ。それなのに、魔術の発動スピードはキュアレーヌス・セレネに匹敵している。

 防御ではなく回避を選択したのは、魔術障壁で受け止めるよりも消費する魔力が抑えられるからだろう。


 すべてを一瞬で判断し、実行している。敵は、間違いなく歴戦の魔術士だ。


 魔力が底を尽きかけている新米魔術士としては、いますぐ泣いて命乞いをしたいところだが、王国に身命をささげた魔術士が、我が物顔で領海侵犯している敵国の魔術士に、易々と膝を屈するわけにはいかない。もちろんいざという時は機密保持のため自爆も考慮しなければならないが、それは最終手段だ。


 まだ考える余地はある。イリアスは攻撃に気付いた瞬間に反撃がなかったことを不自然に思っていた。


(回避する魔術を放てたということは、同じように攻撃もできたはずだ……)


 そもそも初撃で簡単に撃墜できたはずだ。そうしなかった何らかの理由があるに違いない。


「まさか――――」


『敵グリモア魔力反応増大。攻撃、来ます』


 セレネの報告と同時に、黒いグリモアの起動陣から無数の氷柱が現れた。

 氷柱は何本にも枝分かれし、複雑に絡んで、キュアレーヌス・セレネの行く手を塞ぐ。

 まるで“氷柱の迷路”だ。


 もう障壁を作る余力すら残っていないイリアスは、飛翔魔術のみで攻撃に対処しなければならなかった。


 辛うじて迷路を抜ける。

 すると、今度は“氷の格子”がキュアレーヌス・セレネに襲い掛かってきた。


 全方位から囲い込むように迫ってくる氷の格子を、間一髪で逃れる。

 すべての攻撃が、破壊を目的としない魔術だった。


「やはり狙いはこの機体か……!」


 戦闘中の敵機の鹵獲は破壊の何倍も難しいと言われているが、帝国の魔術士は、そうするだけの価値をキュアレーヌス・セレネに見出しているらしい。


 あえて難しい戦い方をしていた。

 敵の自信と余裕が伺える。

 

 そうやって手心を加えてくれているうちに、現状を打開するための策を考え出す必要があった。


(しかしこの魔術士、強い……)


 帝国のグリモアが使う魔術は、“全て切れ目なく繋がっている”。それは黒いグリモアに乗っている魔術士の非凡な操縦スキルを表していた。


 戦闘補助精霊では補い切れないほどの力量差が、イリアスと敵の魔術士の間に存在している。

 その上、魔力切れ寸前のイリアスが唱えられる魔術は少ない。


 必然的にキュアレーヌス・セレネは防戦一方となった。

 あれだけ広かったノトス海の景色が、今はひどく狭い。

 信じられないことに、たった一機のグリモアに、魔術による制圧攻撃を受けているのだ。捕縛用の魔術だからダメージを受けずに済んでいるが、それらがすべて攻撃用の魔術だったらと考えると、生きた心地がしない。


 いまはセレネのサポートで魔力消費量を極限まで切り詰め、誤魔化し誤魔化し飛んでいるが、限界は近かった。

 攻撃に次ぐ攻撃に、イリアスの魔力と精神は、着実にすり減らされていく。

 追い詰められたイリアスの脳裏に嫌な想像が生まれる。



超高位魔術師ブランドメイジ】と呼ばれる魔術士がいた。



 彼らは、各国の軍事戦略に影響を与えるほど強大な力を備えた、魔術士の頂点に君臨する存在だ。

 存在そのものが戦略的に大きな意味を持つため、超高位魔術師の能力やプロフィールは、一部の国を除き、最重要軍事機密にされている。


 それでも、戦場に出れば十中八九、八面六臂の活躍をする魔術士の存在を、完全に隠ぺいすることはできない。

 どこからか漏れた超高位魔術師の不完全な情報が、民衆の間で広まっていた。


 曰く、戦場で彼らに遭遇して無事に戻った人間はいない、とか。

 曰く、超高位魔術師の何人かは、各国が戦争の抑止力として生み出した虚像であり実在しない人物だ、とか。

 曰く、三人の超高位魔術師が戦った戦場で魔力乱流が発生し、大森林が砂漠になった、とか。


 その他にも実しやかな噂は枚挙にいとまがない。

 軍属のイリアスは、各国の超高位魔術師の暗号名までは知っていた。


 イーリス王国の【盾の王】。


 クリノン共和国の【破軍四星】。


 神聖ガルテニア皇国の【死迷の聖女】と【神に選ばれし奴隷】。


 独立都市国家の【昏き書庫の悪魔】。


 そして、統一グランベル帝国の【帝国三剣】と【至尊の十冠】。


 称号に数が含まれるものは、その数だけ超高位魔術師がいることを意味する。

 帝国の軍事力を裏付けるものが、13人の超高位魔術師の存在だった。


 どんなに強力な魔術士といえど、グリモアから降りれば一人の人間にすぎず、食事や休息は必要だし、病気やケガだってする。彼らを信用して戦争を行っても勝ちが確約されるわけではない。極端な話しをすれば、超高位魔術師頼りで開戦したのに頼みの綱の超高位魔術師が戦中に大病を患い敗戦する可能性だってある。


 故に列強各国は、『自国には想像を絶する魔術を扱う得体の知れない超高位魔術師が所属しており、いつでもそれを貴国に送り込み報復が行えるぞ』とけん制し合い戦争を回避する外交を常道としている。


 その中で帝国は、超高位魔術師の能力や人物像が露見する事を恐れず他国へと派遣し、戦争の道具として活用するのだ。侵略行為による世界の反発すら、超高位魔術師によって封殺する。


 戦略兵器積極運用路線。その無謀ともいえる行為がまかり通るほど、世界の軍事バランスは統一グランベル帝国に傾いていた。


『戦場でブランドメイジに出会った時の対処法はただ一つ――――諦めろ』


 士官学校スクール時代、超高位魔術師について語っていた教官が漏らしたその一言は、強く印象に残っている。


 膨大な魔力と強大な魔術を操る超高位魔術師のグリモアは、一騎当千と言っても過言ではない。

 味方に居れば頼もしいかぎりだが、敵にすると最悪だ。

 帝国のグリモアの魔力、魔術、戦い方、すべて尋常ではない。

 ただ強いという言葉だけで片付けられない凄みを感じる。


「くっ……! 相手が何であれ、ここで捕まるわけにはいかない!」


 イリアスは頭を振って嫌な想像を無理やり掻き消した。

 また一つ捕獲用の魔術を避ける。


「残り魔力は攻撃魔術換算で何発分だ?」


『最小出力で3発です』

「1発で良い、それであとどれくらい飛べる?」

『4分で継戦不能になります』

「くそッ……!」


 そう吐き捨てる。もはや知恵を巡らせている余裕はなかった。

 必死なイリアスをあざ笑うように、新たな魔術がばらまかれる。


『危険です。この魔術は捕縛用ではありません。』


 一つ一つが1メートルくらいある巨大な魔力の剣が幾重にも重なり、キュアレーヌス・セレネを取り囲む。

 絶望が形を成して襲いかかってきた。

 魔力をほとんど使い果たしたイリアスが操る機動力の半減したキュアレーヌス・セレネでは、避けようがなかった。


『直撃します』


 激しい光りの明滅がモニターを埋め尽くし、耳障りな金属音と装甲がひしゃげる音が鳴り響いた。

 コックピットが激しく揺さぶられ、衝撃で剥きだしになった成形魔石繊維から魔力が電流のようにほとばしり、様々な部品の欠片が飛び散る。

 イリアスは脇腹に鈍い痛みを感じた。

 急に身体に力が入らなくなる。

 力を入れようとしても、穴の空いた浮き袋のように、すぐに抜けてしまう。

 失われる力と一緒に、何かが止めどなく流れ出ていた。


『搭乗者の心肺機能低下。少尉、大丈夫ですか?』


 セレネに返事をしようとしたが、紙を擦りあわせるようなか細い吐息が漏れるだけだった。

 キュアレーヌス・セレネは、ゆっくりと下降していた。

 イリアスは敵の追撃がないことを疑問に思ったが、どうすることもできなかった。

 急激に心身が弱っていく。時間の感覚も曖昧だ。

 自爆用の魔術の起動すらできそうにない。

 そんな状態でも、メインスクリーンに映った青空だけは、やけに鮮明だった。


 無意識に手を伸ばす。


(ああ…………)


 夢見た空。

 憧れた空。

 自由な空。


(遠い……な…………)


 本当はとっくにわかっていた。

 この世界に、自由な空など、どこにもなかった。

 家から飛び出し、親の手から逃れて、何もかも上手くいくと思っていた。


 しかし、逃げた先に待っていたものは、逃げる前と何も変わらない、ただの現実だった。


 グリモアは戦場の空しか飛ばない。

 魔術士はただの職業軍人だ。


 焦がれた場所も、憧れた存在も、全て夢だった。


 本当のことを知る機会がなかったわけではない。

 士官学校時代、一年前の初陣、グリモアで一般人を殺害した時、様々な状況で、真実はつまびらかになっていた。


 そうやって現実を見せつけられるたびに、必死で自分を誤魔化してきた。


 本当はそうじゃない。

 今は違うだけだ。

 いつかは叶う。


 自分を誤魔化し続けて未来の可能性を追いかけるばかりで、今を蔑ろにしてきた。

 だから何も叶わなかったし、何も果たせなかった。

 その付けを返す時がきたのだ。

 もう、子供の頃に見た“あの空”には、たどり着けそうにはない。

 ついに伸ばした手から力が抜け落ちる。

 意識が混濁し、五感が完全に消失する。

 その直前、ほんのわずかな温かさを、伸ばした指先に感じた。


(――ありがとう。助けてくれて――)


 どこからか、感謝の言葉が聞こえてきた。

 誰が口にした言葉なのか、誰に対して使われた言葉なのか、何一つわからなかった。

 わからなかったが、意識が消える最後の瞬間、イリアスは、少しだけ救われたような気がした。


(――受けた恩は返すよ――――》





 //





「ブレンダン、私は手を出すなと言っておいたはずだが?」


 地獄の底から響くような声が、帝国三剣の口から吐き出される。

 魔術が効果を発揮したわけでもないのに、空間一帯が凍えるようだった。

 黒い機体の周りに充ちる膨大な魔力のゆらぎと輝く起動陣が、搭乗者の心情を言葉よりも雄弁に物語っている。

 イーリス王国のグリモアを撃墜した攻撃魔術は、アシュリーの放ったものではない。


 一騎討ちに横やりを入れたのは、彼の僚機だ。


『恐れながら殿下、“我々は戦争に来ているのです”。周辺海域の探索は95%完了していますし、イーリス軍新型機の実用性実証試験に関する“あの男”の情報の真偽は、こうして確認できました。これ以上、敵機の拿捕に固執する意味はありません。殿下はお強いが故に完璧を求めすぎる嫌いがおありだが、戦場に完全性など不必要です』

「他に言い残すことは? 冥途の土産だ、どんな悪罵も許そう」

『殿下は帝国三剣程度で終わるようなお人ではない。いずれ帝国そのものを背負って立つお人だ。私亡き後も、どうかご自愛ください』


「…………少しは怯えろ。気に入らないな」


 一つ舌打ちしてから、アシュリーは攻撃魔術の起動陣を消した。


『聡明な殿下ならば、私情で部下を断罪することはないと確信しておりました』

「確信犯か。覚えていろ、ブレンダン。本国に帰ったら、お前の活躍をエルネに報告してやろう。自分の命を蔑ろにして上官を嗜めた武勇伝などは、エルネが喜びそうだ」


 エルネという名前を出したとたん、ブレンダンの反応が変わった。


『で、殿下、それだけは何卒! 何卒お慈悲を!』


 エルネとはブレンダンの妻のことだ。

 彼女は夫を陰日向に支える良妻なのだが、夫への想いが大きいあまり暴走することがよくあった。

 自身の命を御国のために役立てるという決意表明を家庭で行った翌日、ブレンダンは顔面に青痣を作って出勤してきたことがある。

 妻の夫に対する愛情が窺える心暖まる?エピソードだ。


「部下をねぎらおうという上官の好意を無にするな。遠慮せず受け取れ」


 軽口をたたき合いながら、アシュリーとブレンダンは、蒼いグリモアが落ちていく様子を油断なく見つめていた。

 ブレンダンの魔術攻撃が直撃した蒼いのグリモアは、まだ全壊していない。


 攻撃が当たる直前に少ない魔力を振り絞って魔術障壁を作ったらしく、辛うじて姿形を保っていたが、ブレンダンの一撃は間違いなく致命傷だ。


 まだ飛翔魔術を起動できているが、落ちるのは時間の問題だった。

 放っておいても、勝手に海の藻屑になる。


 蒼いグリモアと、それに乗っている魔術士の全ての力を見てみたいという未練が、アシュリーの後ろ髪を引っ張ったが、先程のブレンダンの言葉を思い出し、自重する。

 ブレンダンの言い分は正しい。

 当初の作戦内容は完遂している。

 拿捕は、任務に対するアシュリー個人の目標――――つまりは遊びだ。

 遊びが度を越え、当初の目標を疎かにするわけにもいかない。


『殿下、よろしいですね?』


 ブレンダンのシークレット・フォースが、攻撃魔術の起動陣を浮かび上がらせる。

 蒼いグリモアにとどめを刺すつもりだ。


「ああなっては、もう心躍る闘争は望めないだろう…………好きにしろ」

『はっ』


 起動陣の輝きがひときわ強くなる。少しの手心も加えられてはいない。

 間をおかず、ブレンダンは機械的に魔術を発射した。

 激しい光りの明滅に蒼いグリモアが包まれる。

 響き渡る甲高い金属音は、グリモアの断末魔の叫びのようだった。


『終わりましたな。帰投しましょう、殿下』

「…………いや待て」

『はっ?』


 グリモアが大破する時、搭乗者の魔力が流出し、激しい光りが発生することがあるのは確かだ。

 しかし、それは決して激しく明滅するような光ではない。

 甲高い金属音が鳴りやまないのは変だ。

 まるで魔力同士が相殺し合っているような。


「魔術を準備しろブレンダン!」



『アシュリー様、一体何が……』


 明滅と音が消える。

 そこに蒼いグリモアは、居なかった。

 唐突に、シークレット・フォースの計器が振り切れる。

 センサが示す方角は彼らの直上だ。


 見上げた空に、太陽と、もう一つの星が輝いていた。



『蒼い……月……?』



 ブレンダンが言う通り、蒼い満月のように見えるそれは、不可思議な球体だった。

 空中に静止し、静かな蒼い光を放っている。

 その球体が、おもむろに落下を始める。


「来るぞ!」


 アシュリーが素早く飛翔魔術で回避軌道を取るコマンドを打ちこんでいく。

 すると、落下していた月が、いきなり加速した。


 余裕を持って回避しようと試みていた二機のグリモアは、早急な対応を余儀なくされる。

 ブレンダンの飛翔魔術の再起動が間に合わない。


「ちいっ……!」


 アシュリーのグリモアがブレンダンのグリモアの前に出る。


 シークレット・フォースの腕を前方に突き出し、唱える。


「マジックフィールド、フルバースト!」


 魔術障壁の入力と詠唱を同時に終える。


『殿下! 私に構わず――――』


 月が、アシュリーのグリモアに接触し、ブレンダンの声が、甲高い金属音にかき消される。

 月の正体を間近で目視したアシュリーは、顔に喜色を浮かべた。


「まだ私を楽しませてくれるのか、イーリスの魔術士!」


 球状の魔術障壁を纏った蒼いグリモアが、蒼い月の正体だった。

 障壁に込められた魔力があまりに高密度だったため、障壁の不透明度が増し、球形の星――――満月のように見えていた。


「手加減していたのか? この私を相手に、愉快な真似をしてくれるな!」


 アシュリーは飛翔魔術と魔術障壁で押し切ろうとする相手に対して、真っ向から挑んだ。

 甲高い音が生まれ、光が飛び散る。


 二つの障壁は均衡するかと思われたが、蒼いグリモアの魔術障壁の一部が波打ち、状況が変わる。

 球状の魔術障壁から、人間の腕のような部位が何本も生まれ、シークレット・フォースを殴りつけてきた。


「ははっ、面白い魔術だな!」 


 魔術障壁がそのまま攻撃魔術になっていた。

 攻防一体の魔術は、起動陣を張り替えずに、リアルタイムで変形していく。


 絶え間ない攻撃は、帝国三剣を防御に集中させた。

 アシュリーの指が入力端末をせわしなく動き回り、新たな魔術を次々と“予約”していく。


 魔術の空白をなくすための高等技法、先読みによる先行入力だ。

 現状を正確に分析し、敵の行動、味方の存在、戦場の環境などに応じて、いくつもの魔術(せんたくし)を準備し、臨機応変に対応する者が、優秀な魔術士だ。

 敵の魔術の空白を見逃さないように集中し、自身の魔術の空白を可能なかぎり無くすように全身全霊で知恵を巡らせ、魔術を行使し続けなければ、戦場で魔術士は長生きできない。


 アシュリーはその一つの完成形だった。

 シークレット・フォースは魔術障壁の拳を半身になって回避しながら、自らの腰から一本の短剣を引き抜く。

【マナモーフ・ナイフ】と呼ばれる魔術兵装だ。


 短剣を巧みに操り、シークレット・フォースは魔術障壁から生まれた無数の手を切り裂き、確実に対処していく。

 それを見た蒼いグリモアは、急にアシュリーのグリモアから離れた。


 反転した蒼いグリモアが向かった方角には、アシュリーを援護するための攻撃魔術を準備していたブレンダンのグリモアがいる。


 ブレンダンは参謀としては優秀なのだが、グリモアを用いた直接戦闘は不得手としていた。

 おそらくブレンダンでは、蒼いグリモアに対処しきれない。


「私の悪い癖だっ……!」


 はじめてアシュリーの声に焦りが混じっていた。

 背を向けた敵に短剣を投擲したが、全方位に張り巡らされた高密度の魔術障壁に阻まれる。

 いまの蒼いグリモアの力は、ブランドメイジの操るグリモアに匹敵するだろう。

 同等の相手との戦闘は、美酒や美女に勝るとも劣らない興奮をアシュリーにもたらした。


 それはまるで、初恋の胸の高鳴りに似ていた。


 アシュリーのイーリスの魔術士に対する興味は留まるところを知らない。

 心躍る敵との戦いは、一時的に作戦と部下の存在を忘れさせた。

 その失態が部下を危険にさらしたのだ。


「逃げろブレンダン! 攻撃魔術は間に合わない!」


 アシュリーの警告にブレンダンは気付いたようだったが、魔術障壁を張り直す時間を惜しみ、攻撃魔術を決行した。

 それに対して蒼いグリモアは、更に加速した。

 あとを追っていたアシュリーが、簡単に引き離される。


(この私が、追いつけないというのか!?)


 超高位魔術師に匹敵する魔力から発生した飛翔魔術は、人型のグリモアに飛竜を超える速度を与えた。


『馬鹿な――――!』


 攻撃魔術が完成する前に、ブレンダンのグリモアと蒼いグリモアの距離がゼロになる。

 魔術障壁を伴ったグリモアと、そうでないグリモアの差が現れた。

 シークレット・フォースの四肢は千切れ飛び、吹き飛ばされる。


「ブレンダン!」


 アシュリーは攻撃魔術を敵の背後に放って牽制しつつ、胴体だけになってしまったブレンダンのグリモアを回収する。


「無事か! すまない、私のミスでお前を危険にさらした……」

『ア……シュリー……さま……私なら、大丈夫です……』

「馬鹿者が、強がるならもっとうまく強がれ。お前の妻にお前を叱り飛ばしてもらわねばならないのだから、ここで死ぬことは認められない。これは上官命令だ」

『御意……』


 部下を叱咤激励する間もアシュリーは攻撃魔術を、蒼いグリモアに打ちこんでいた。

 それを蒼いグリモアは魔術障壁でいとも簡単に受け止める。


 アシュリーも相当量の魔力を用いて魔術を行使しているのだが、魔術障壁に込められた魔力があまりに濃すぎて、びくともしない。ブランドメイジと呼ばれる人間の攻撃を、自然の風景を眺めるように淡々と見つめている。


 その余裕綽々な佇まいを見て、アシュリーの闘争心に再び火が灯りそうになるが、グッとこらえる。

 ブレンダンは得難い優秀な人材だ。ここで失うのは惜しい。

 部下を撃墜され、一矢報いることもできずに、おめおめと引き下がらなければならない自分のうかつさに憤りを覚える。

 収まりがつかない思いが、アシュリーに交信魔術を起動させた。



『イーリスの魔術士に告げる。満身創痍ながらよく健闘した。その戦いぶりに敬意を表し、貴君を我が敵と認めよう。私は帝国三剣が一人、アシュリー・シエロ・グランベル。今は退くが、次に相まみえた時は、貴君の命、必ず貰い受ける。そう心に刻め』


 言い終わるのと同時に、追撃を防ぐための目くらましとして、アシュリーは“氷の迷路”を形成する魔術を、最大出力で連射した。

 すぐに退却に移る。

 コックピットの中で、アシュリーは今日というこの日を神に感謝した。


「蒼いグリモア、イーリスの魔術士…………お前は、私の敵だ――――」


 金髪碧眼の端正な面貌に獰猛な笑みが浮かぶ。


 心に刻んだのは、アシュリーの方だ。


 魔克歴415年・第9月。

 

 帝国三剣は、空に昇った蒼い月に心を奪われた。







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