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天の限りに昇る月  作者: 喜由
第一章 ノトス海戦編
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Episode:004 堕ちる蒼穹、昇る月 (前編)

 キュアレーヌス・セレネは空を滑るように飛行していた。


 イリアスは操縦桿から手を放し、紺色のパイロットスーツの襟元を緩める。

 実用性実証試験の山場を越えたため、少しだけ肩の力を抜く。

 機体の簡単なコントロールは戦闘補助精霊に任せていた。


 ふと、モニターに表示された簡易世界地図に目を向ける。

 三日月の形をした部分がエテリア大陸だ。

 大陸中央の巨大な中央海は、西のゼフュロス海とつながっている。

 北のほぼすべての大陸が、統一グランベル帝国の領土だ。

 

 南エテリア大陸の西方に位置するイーリス王国に比べると、おおよそ6倍の国土を有している。そんな相手とイーリスは敵対的な関係にあるのだ。

 

 大規模な軍事演習が、本当にただの演習だったら問題ない。

 ノトス海と同じように中央海にも魔獣の巣は存在する。魔物の被害を未然に防ぐために軍が動くことがあるのは事実だ。兵士の教練のために魔獣の巣が利用されることもある。


(軍港から出港したのは師団規模の大軍と聞いている。大都市を半日とかからずに焼き払える大艦隊だ……多少の魔物を撃退するなら多すぎるし、魔獣の巣を壊滅させるには不十分だ)


 魔物の根絶は不可能というのが、各国の共通見解だった。

 彼らの数は把握しきれないほど多く、一体一体がとてつもない生命力を持ち、魔力を利用して何らかの超常的な現象を使役できる。


 統一グランベル帝国の総戦力なら、あるいは一つの魔獣の巣を地上から消し去ることができるのかもしれないが、それでも多くの犠牲が伴うだろう。

 魔物の相手をするためだけに大軍が動くとは思えない。

 そう考えれば、イーリスにとって都合の悪い想像の方が、より現実的だった。


 国の中枢を牛耳る貴族の過半数は、帝国の軍事演習というお題目を本気で信じているらしい。

 しかし、グリモアという兵器を預かる魔術士には、国と国民を守るという義務が伴う。

 義務をまっとうするためには、貴族たちと同じような考え方をしてはいられなかった。

 いまキュアレーヌス・セレネは、エテリア大陸南方のノトス海上空1500メートルの位置を、最大出力の半分の速度で東に向かっていた。


 目指す場所は、ノトス海南東の名もなき島々だ。

 そこに、イリアスが所属する部隊の母艦が待機している。


 母艦と試験実施場所が離れていることにイリアスは当初から懸念を抱いていた。

 しかし、部隊司令官の艦長、参謀本部付きの将官3人というお歴々が参加したブリーフィングで任務を言い渡されたとき、新任士官のイリアスが異論を差し挟む余地はなかった。

 魔獣の巣の近くに船を停泊させておくのは危険なため、と聞かされていたが、それだけが理由とは思えない。


(交信魔術は封鎖、支援なしの単独テスト。異例尽くしのミッションだ……)


 疑念は濃くなるばかりだった。

 ともかくテストスケジュールは無事に消化したことが今は嬉しい。あとは母艦に戻り、試験結果をレポートにまとめて報告すれば、イリアスの仕事は終わる。

 現在の速度なら、目的地まで約30分といったところだろう。


(少しの間、空の旅を満喫させてもらおう)


 自らの魔力で空を飛ぶ解放感は、魔術士の特権だ。

 自動魔術精製装置と魔力抽出機関と、“魔力を安定して運用できる人型の入れ物”が揃ったグリモアに乗り、はじめて飛翔魔術は完成する。


 鳥や妖精が遊びまわる大空を自由に飛び回るという夢を抱いた人間は数知れない。

 イリアスも同じ夢を抱いた人間の一人だった。

 魔術が発展した現代。

 グリモアがあれば、魔力があるかぎり、人は空を飛び続けることができる。


 しかし、グリモアが飛ぶ空は、人々の望んだ自由な空とは、程遠いものだった。

 戦場に現れる死の先触れとして、グリモアは兵士たちから恐れられている。

 魔術士は差し詰め、グリモアを操る疫病神か死神と言ったところだろう。


 自由な空に憧れ、親の反対を押し切って魔術士になったイリアスは、最初の実戦で、グリモアが忌避される兵器だということを、嫌というほど思い知らされていた。


 一年前、イーリス王国辺境に領地を持つ貴族が起こした反乱の鎮圧に、イリアスは新任士官として派兵された。

 結論から先に言えば、反乱は三日という短い期間で、あっけなく終結した。

 反乱軍が保有していた15機のグリモアに対して、その4倍にもなる59機のグリモアを王国軍が投入したことが、早期決着の大きな要因だった。

 開戦前から勝敗は目に見えていたのだ。

 再三にわたって降伏勧告も出されていた。

 それにもかかわらず、反乱を主導した貴族たちは、自分たちの戦後の処遇を恐れるあまり、無謀な行動にでた。


 彼らは、勧告を無視して特攻をしかけてきたのだ。

 イリアスの配属された部隊は、特攻が行われた近くに配置されており、反乱軍に引導を渡す役割を担った。

 生身で突撃してきた人間たちを、グリモアで壊滅させたときのことは、いまでも鮮明に覚えている。


 その特攻に、貴族に仕えていた給仕や執事などの非戦闘員が参加させられていたことを知ったのは、全てが終わった後だった。


 グリモアで彼らを踏み潰したとき、同時に自分の夢も潰えたような気がした。

 実用性実証試験後、キュアレーヌス・セレネは、すぐに戦線に投入されるだろう。

 そして、多くのグリモアを壊し、より多くの街を焼き、さらに多くの人を殺す。


(彼女は、それをどう思うのだろう……)


 外の景色を眺めていたイリアスは、いつの間にか、そんな詮無いことを考えていた。

 彼女(セレネとの交信魔術で聞こえてくる音声が女性の物に近いので、イリアスはこの戦闘補助精霊を女性と勝手に考えていた)と話すことで、グリモアと魔術士の在り方や自分の夢と、イリアスは今一度向き合っていた。


「セレネ、君は『夢』をみるのか?」


 軍務とはまったく関係ない質問だ。

 しかし“聞いてみたい”という衝動を抑えられなかった。

 グリモアの疑似人格と呼べるような存在が夢を抱くとするならば、それはつまり、グリモアがただの兵器ではないことの証明になるのではないか。

 セレネから夢を聞くことができれば、グリモアと魔術士の存在理由に、救いを見出しだせるような気がした。


『睡眠時に見る夢という現象でしたら、答えはノーです。創造されてから現在まで12159時間18分46秒ほど経過していますが、いまだに夢と呼ばれる現象を確認したことはありません』

「そうじゃなくて、自分がやりたいこととか、いつか叶えたいこととか……そういう夢だ」

『――――私は、このキュアレーヌス・セレネを操縦する魔術士の戦闘行動をサポートするために生み出されました。操縦者の命令に従い、操縦者の能力を十全に引き出し、最高の戦果をもたらす手助けをすることが、私の望みです』


 セレネの解答は、ごく当たり前のものだ。

 彼女は自身が語った通りの役割を持たされた精霊(プログラム)。その存在理由を、彼女は正しく理解している。


「……変な質問をしてすまなかった」


 それだけに落胆が大きかった。

 人殺しの道具は、それ以上にも以下にもなりようがないと、道具自身から諭されたような気がして、やるせなかった。


 唐突に、落ち込んだ思考をかき消すような警報音が、鳴り響く。


「何が起こった!」


 魔力を検知するセンサの針が振り切れていた。

 シーサーペントよりも巨大な魔力反応だ。


『本機から約4500メートル上空に強力な魔力反応を確認』


 頭上の空には、信じられない光景が広がっていた。

 魔力の放つ蒼い光が、大空を覆い尽くしている。

 その輝きは太陽や月や星が生み出す自然な光とは違う、美しくも禍々しい力の光彩だ。

 魔力の波は大気をかき乱し、暴風を発生させていた。


「くっ……」


 激しく揺れる機体にイリアスの体が翻弄される。

 海でも異変が起きていた。

 巨大な水棲魔獣から普通の生き物まで、ありとあらゆる生き物が異常現象から遠ざかろうとして発生した荒波と混乱が、海を支配していた。


 いまやノトス海は常世とは思えない景色に様変わりしてしまった。


 イリアスも逃げ出したいところだが、何も分からないまま下手に行動することはできなかった。


『解析結果、出ました。【魔力乱流】と思われます』

「馬鹿な、あんな高度で魔力乱流がおこるなんて聞いたこともない」


 魔力乱流とは、一定空間内に発生した魔力が【世界抵抗】の許容量を超えた際に起こる現象を指す。


 単位面積あたりに発生した魔力が世界抵抗の減衰率を超えると、抵抗が完全に0の空間が出来上がる。

 人間や魔物が体外で発生させた魔力は、一部の例外を除き、時間経過と共に自然消滅するようになっているのだが、それは世界抵抗がはたらいているためだった。交信魔術も世界抵抗の影響を受けることで、雑音や減衰が多くなり、使い勝手が悪くなっている。

 頻繁に起きるものではなく、大規模な魔術が何度も行使される戦場や大量の魔石が採掘される鉱脈、強大な魔物が群生する地帯などで発生する珍しい現象だった。


「よりにもよって、どうして今なんだ……」


 イリアスは自らの不運を呪った。

 処女飛行に不測の事態はつきものだが、これはあんまりだ。


『魔力乱流に変化有り。広がっていた魔力が空間の一点に収束していきます』


 魔力乱流が集まる一点は、もう一つ太陽が生まれたように強い光を放っている。


『魔力乱流収束点から、何かが出てきます』


「これ以上なにが起こると言うんだ……」


 イリアスの言葉は諦め交じりだった。

 もはや、異常なことが起こりすぎて、何が正常なのかも分からなくなってきそうだ。

 やがてセレネの報告通り、小さな魔力の太陽の中央から何かが出現する。


 最初逆光で詳細を確認できなかったそれは、セレネの魔術センサで詳細な様子が確認できる位置まで、急速に落下してきた。


『体外での魔力反応なし。おそらく人間と思われます』

「どうして人が降ってくる!?」


 思わず馬鹿な質問をしてしまう。


「違う、すまない、混乱していた……」


 いったん大きく深呼吸をしてから、気持ちを落ち着ける。


「本当に人間なのか? モンスターの類じゃないのか?」


『魔物の可能性は低いと思われます』

「根拠は?」

『魔物は自然に魔力を体外に発散していますが、人間は魔石、術式、詠唱なしに魔力を体外で利活用できません。対象の体外魔力反応がないため、人間と推定しました』

「わかった……しかし、どうして人が……」

『なお、対象人物がこのまま落下し続けた場合、約82秒後に着水します』


 そう言われて、イリアスはハッとする。

 セレネは“着水”と言ったが、飛来するものが本当に生きた人間だった場合、それは即死を意味する。

 モニター越しの人物が緊急降下用の道具を装備しているようにも見えなかった。


『どうしますか?』


 セレネはあくまで操縦者の意志を尊重する。

 助言はしても決定はしない。

 最終的な決定権は常に魔術士にあった。


 はっきり言って、助けることは難しく、見捨てることは簡単だった。

 実用性実証試験の内容に人命救助は含まれていない。

 むしろ新兵器の秘匿性から関係のない人間との接触は厳禁とされている。

 プロの軍人、プロの魔術士なら、任務に忠実であるべきだ。

 しかも残存魔力はあと3割をきっている。

 救助活動で魔力を使えば母艦との合流は難しくなるだろう。


 墜落者を助けている余裕はない。


『対象墜落まで、残り70秒』


 戦場で何人もの人間を殺す魔術士が、いまさら人一人救って何になる。

 グリモアは人命救助の道具ではない。

 戦争のための兵器だ。

 しかし――、



「…………助けるぞ」



 幼いころ夢見た魔術士なら、そう言うと思った。

 グリモアが、人々の願いの結晶というのならば、人々の願いは誰かを救うような素晴らしいものであってほしい。

 空に憧れ、自由に魅せられたイリアスは、グリモアに理想を求めていた。


「やれるな、セレネ」

『御心の侭に』


 あらかじめ準備されていたかのように、海面と自機と墜落者の位置関係が正面モニターに映しだされ、墜落者救出のための方策が3つほど表示された。


 イリアスは一言も発さないまま選択肢から瞬時に一つを選び、操縦桿に魔力を注ぎこんだ。

 機体の速度が飛躍的に高まり、起動陣の輝きが強くなる。


 かつてないほどに集中している操縦者に対して、セレネはその集中力を乱さないように、言わなくてもいいことを全て自動で処理した。

 要救助者の墜落まで残り一分をきっている。

 キュアレーヌス・セレネは小さな弧を描きながら急速に上昇した。

 ものの10秒足らずで対象と交差する。


 瞬間、キュアレーヌスセレネは四肢を抱え込んで身体を180度ひねった。

 同時に慣性を相殺する方向に飛翔魔術が変更され、軌道が上昇から下降へ直角に切り替わる。イリアスの集中力とセレネのサポートと機体性能が合わさり実現した超急速反転だった。


 問題はここからだ。

 選択したプランでは、対象人物を追走し、空中でキャッチしたあと、AMFを用いて制動をかけつつ軟着水することになっている。セレネのスペックならば、理論上は可能だった。


 不安材料は、イリアスの魔力残量だ。

 要救助者の生還率がもっとも高いこのプランは、終始飛翔魔術とAMFを最大出力で行使しなければならない。3割以下となったイリアスの魔力残量では、あまりに心もとなかった。


『海面まで残り1000メートル』

 機体と墜落者の位置が狭まると共に、急速に海面が近づいてきている。

 このまま速度を落とさずに降下し続けたら、あと20秒足らずで墜落だ。


 そうなれば、墜落者はおろか、イリアスもただでは済まない。


『残り500』


 紺碧の水面に映る儚いきらめきが、死を連想させた。



「届けええええええええええええええええええええええええええっ――――!!」



 死神を威嚇するようにイリアスは吠えた。

 イリアスの操縦によってキュアレーヌス・セレネが腕を伸ばすのと同時に、セレネがAMFに隙間を作り、救助作業をつつがなくフォローする。

 要救助者を機体の手の内に収めた。


 迅速かつ丁寧に救助者を抱え込む。

 そして魔術士は高らかに唱える。

「AMF、モード・アンリストレイント! フルバースト!」

 Active Magic Field――――戦闘補助精霊と同じく、キュアレーヌス・セレネに搭載された革新技術の一つだ。

 グリモアの魔術は、魔術士の要求(操縦桿や詠唱などを用いた機体への命令入力)に従い自動魔術精製装置が術式を生成し、術式に従って魔力抽出機関が魔術士自身から魔力を抽出してから現実世界に反映される。


 たとえば飛翔魔術の場合、自動魔術精製装置が、魔術士の要求通りの時間、指定の速度で飛翔魔術を発動するために、世界抵抗の減衰率を差し引いて、魔術の設計図となる術式を組み立てる。

 術式に従って魔力抽出機関が魔力を魔術士自身から引き出し、最終的に起動陣を伴い魔術は発動するのだ。


 一連の魔術行使プロセスをAMFは覆す。

 AMFは魔術障壁の発展形で、魔術を起動したまま、その範囲や機能を変更できるのだ。

 魔術障壁をコンスタントに用い、力場の形状を変化させて、攻撃、防御、移動、すべてに利用できる。

 もちろん良い事尽くめというわけではない。

 AMFを大雑把に言うと、発動した魔術に“魔術を可変するための魔術“を重ね掛けするようにして実現されているため、通常の魔術の約2倍、魔力を消費し続けることになる。


 しかも、キュアレーヌス・セレネの全魔術と全機能がAMFと連動しているため、どんな魔術を使っても魔力消費量は2倍だ。

 

 必然的に、魔術士には膨大な魔力が求められた。

 モード・アンリストレイントは、AMF各モードの中でも、もっとも魔力消費が大きい一方、魔術士の思う通りに素早く魔術障壁を可変できる術式だ。


 イリアスは、救助者を掴むために一時的に開放されていたAMFを瞬時に傘の形に変形させて物理的な空気抵抗を持たせられる厚さで機体後方に展開。同時にセレネの操作で飛翔魔術が重力とは逆方向に切り替わっている。

 空気抵抗と飛翔魔術で、落下速度を相殺しようというのだ。


『残り200』


 落下スピードが思ったよりも大きい。距離も短い。

 真っ青な海がモニターを埋め尽くしていた。

 もはや墜落は免れない。

 

 次の瞬間、キュアレーヌス・セレネは海面に激突した。


 ワイバーンが狩りをしたときよりも巨大な水柱が生まれる。


 空中に巻き上げられた海水がすべて落ち切ったころ、海水が盛り上がる。



「なんとか、まだ生きているらしい……」



 イリアスは自らの悪運の強さに感謝した。


「セレネ、機体の状態を報告」

『全身の成形魔石繊維に異常を検知、全装甲に無数の損傷を確認、運動性能、防御性能、共に44%ダウン。メインモニタ以外の各種魔術センシングユニットの95%が機能不全に陥っています。現状、本機の索敵能力はほぼゼロに等しいとご理解ください。自動魔術精製装置と魔力抽出機関は無傷です』

「私自身も鞭うち程度で済んでいる。奇跡的だな」

『しかし、少尉の魔力は残り4%です。母艦との合流は絶望的と考えます』

「知恵を巡らせる余裕がある内は、まだ希望が持てる。どうするかは、これから考えよう。救助者はどうなった?」


 セレネが辛うじて生きているセンサを動かし、機体の手の平を映し出した。

 荒い画像の中に、水浸しになった少年が倒れていた。


『無事ですが、意識がありません。墜落寸前に少尉がAMFで作り出した機体前方の障壁と救助者の体を包む球状の障壁がなければ、彼も本機も危険でした。お見事です少尉』

「とっさの行動がたまたま上手くいった。同じことをもう一度やれと言われても無理だろうな。そんなことより彼の様態が気になる。出るぞ」

『了解しました』


 コックピットにつながる背中の開閉口が開く。

 外に出ると、穏やかな潮騒の音が聞こえてくる。機体を覆う魔術障壁を打つ波は、荒々しさとは無縁だった。

 ノトス海全体に広がっていた異変は、すっかり消え去っていた。

 白昼夢を見ていたような気さえしてくる。


 キュアレーヌス・セレネの無残な姿が、イリアスを現実に引き戻した。

 ところどころの装甲がひび割れ、へこみ、歪んでいる。成形魔石繊維と大型の魔物の鱗や外皮で作られた飛翔魔術制御用の2本の背鰭の片方が折れ曲がっていた。

 濃紺の鎧を身にまとった精悍な騎士のような外見は、いまや見る影もない。


「我ながら派手にやらかしたな……貴重な試作機を処女飛行でここまでボロボロにしたのは、私がはじめてじゃないのか?」

『イーリス王国軍では、過去に一人だけ該当する魔術士がいます。少尉は史上二人目です』

「その魔術士とは気が合いそうだ」


 そう言って、自嘲気味に笑った。

 試験機の損壊、任務の不履行、第三者との接触、どれも重大な命令違反だった。

 ほぼ確実に軍法会議にかけられることになるだろう。

 未来は決して明るくない。

 しかし、気分は晴れやかだった。


 後悔はしていなかった。

 はっきりと、そう断言できる。

 少しだけ、昔の自分を思い出すことができた。


 自分の意志で、自由に空を飛びたい。

 そんな子供のような夢を実現できると信じて、憧れて、追いかけていた。

 あの頃の自分は、まだ死んでいなかったらしい。

 それに気付けたことが、嬉しかった。

 きっかけをくれたのは、眼前で気を失っている少年だ。


「これが、空から降ってきた人間……ただの少年にしか見えないが……」


 体格は中肉中背、年齢は15歳といったところだろう。イリアスと同い年くらいだ。

 強いて特徴を上げれば、朴訥な顔立ちに浮かぶソバカスと、黒っぽい茶色の髪が少し目立つ程度だ。


「おい、君、しっかりしろ」


 膝をつき、少年の肩を軽く叩いてみるが、返事はない。

 口元に耳を近づけると、小さく息をする音が聞こえてきた。胸もわずかに上下している。パッと見たかぎりでは、命にかかわるような傷や出血は見受けられない。

 顔面に青痣や切り傷がいくつかあるが、墜落の際に負った傷ではないようだ。


「……ダメか。どこかを強く打っているかもしれないな。何にせよ、このままここで寝かせておくわけにもいかないか。セレネ、彼を中に入れるぞ」

『本機のコックピットは最重要軍事機密に該当します。機密の漏洩には厳罰が適用されますが、よろしいのですか?』

「無事に母艦に帰れたら、いくらでも罰を受けるさ。上げてくれ」


 今更罪が一つや二つ増えたところで関係ないという自棄な思考が、イリアスを大胆不敵にさせた。

 少年を支えながらセレネの指に掴まると腕が上昇し始める。


 このとき、イリアスとセレネは気付いていなかった。

 魔力乱流よりも大きな脅威が、すぐ近くまで迫っていた事実を、見過してしまったのだ。


 イリアスたちを載せた腕があと少しでコックピットに到達するところで、驚異は姿を現した。

 激しい揺れがイリアスたちを襲う。


「つッ……今度は何だセレネ!」


 機体の指を掴んだイリアスの耳に、鈍い音が飛び込んできた。

 少年がキュアレーヌス・セレネの手の上から吹き飛ばされ、コックピット内に転がり落ちる。

 少年の無事を確かめている余裕はイリアスにはなかった。

 セレネに聞いた質問に対する答えが、別のところからもたらされたからだ。



『イーリス王国軍の魔術士に告げる。おとなしく投降しろ』



 交信魔術による音声。

 キュアレーヌス・セレネ前方上空に、一つの黒い影が忽然と浮かび上がる。

 それは、青空の絵画にたらされた黒い絵の具のようだった。

 

 黒い人型――――黒いグリモアだ。

 

 その肩にあしらわれた紋章に気付いたイリアスは、今日最大の戦慄に身を震わせた。


「馬鹿な……どうして……こんな場所に……?!」


 紅の三日月を斜めに切り割いた白銀の片手半剣(バスタードソード)と、その刀身に絡みつく二匹の竜。


『もう一度言う、速やかに武装解除し、投降しろ。さもなくば、実力行使に移る』


 統一グランベル帝国の紋章をつけたグリモアが、イーリス王国の領海上空に浮かんでいた。

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