Episode:047 英雄問答
命の色を失いつつあるしゃがれ声が脳内に響く。交信魔術だ。
大きなベッドに寝かされた老人が、仄暗い光に包まれながら、枯れ枝のような腕を上げて、限を手招きしていた。
仄暗い光は、部屋いっぱいに置かれた医療用魔術装置の明かりだ。
交信魔術や各装置のために、クレイドルとピラーが館のどこかに設置されているのだろう。
何台もの機械から、電源コードのように管が延び、老人の体につながっていた。
その姿は、身体中を鎖で繋がれているようにも、全身を蛇に食い荒らされているようにも見えた。
重力が倍になったような陰鬱な空気が、部屋に立ち込めている。
倒れた祖母――天野 葵の事を思い出しながら、限は口を開いた。
「……私に、話があると聞きました」
『やあ、アーノ・カキュリ……それともアマノ・カギリ――蒼い月光と呼んだ方がいいかな?』
本当の名前を呼ばれても、もう限は驚かなかった。
海外留学が認められた事、「必要以上に目立て」というゲート・ペインからの指令、一騎討ちにキュアレーヌス・セレネの使用許可が出た事などを総合すると、うすうす気付く。
いつかの時点で、イーリス王国は、超高位魔術師の正体を隠すという大前提から、蒼い月光を除外している。
アマノ・カギリを積極的に明かそうとはしていないが、無理に隠そうともしていない。
ここに招かれた理由が、自分の正体に関係しているという事も、察しがついた。
わからないのは目的だ。
国の陰謀しろ、個人の思惑にしろ、限を利用するつもりなら無駄が多すぎる。油断を誘ったり、歓心を買うための罠だとしても、持っている情報をわざわざ知らせる意味がない。いずれにしても中途半端だ。
「蒼い月光以外なら何でも。そっちは?」
限は敬語を止める。もう正体を知られているのなら模範的な学生を演じる必要はないし、敵か、敵に近い存在なら遠慮する必要もない。
『アルベルト・コルレアーニだ』
その名前には聞き覚えがあった。
「あんたが、ユグランスの英雄か」
『過去の話だよ』
アルベルトの表情筋はピクリとも動かないのに、声だけは軽妙だった。
現実の老人は、管まみれで死にかけたままだ。
『ああ、心配しなくても、この部屋には、老いぼれと君しかいない』
念のため、いつでも逃げられるように、全身を強張らせていた限を、老人は諭す。
「信用すると思うのか?」
『捕えるつもりならとっくにやっているし、もっと良い手がある』
「じゃあ、何が狙いだ?」
『ダアトに私の答えを伝えて、この国を救う手助けをしてもらいたい』
ダアトという名前が出た時に、限の肩がわずかに動く。
『もう、ダアトには会っただろう?』
「……あれを会ったと言えるのか、俺にはわからない。夢を見ているようだった」
『ならば、会っているよ……私ばかり知っているのはフェアじゃないな……信用してもらうためにも、こちらの情報を開示しよう。オオガネ、アラマズド、クリファと共に、心象世界から世界を見る時に落ちる自己の認識の影――魂の存在を人間に教え、魔を超克する時代を築いた魔法使いの一人……それが、ユグランスの超高位魔術師【昏き書庫の悪魔】――“隠れしもの”ダアトだ。帝国との軍事同盟が軌道に乗り、お役御免になった途端、私の息子パルミロに殺された、哀れな私の共犯者……いや、友達だよ』
「たぶん凄い情報なんだろう……ただ俺はあまり学がない。もっとシンプルに頼む」
『馬鹿正直だな。いやすまない、この年になると、日によって体調の波が激しくてね……今日はすこぶる調子が良いんだ。こういう日は、つい口数が多くなってしまう』
頭の中で自嘲気味に笑う老人の肉体が、わずかに揺れた。
『要するに、君が夢で見たダアトという少年が、ユグランスの戦略兵器の成れ果てだ。肉体を失っても、面白半分に魂だけでこの世にしがみ付いている』
限は、持ち前の忍耐強さで年寄りの長話に付き合う。
『私はここから動けない。私の代わりにもう一度ダアトに会い、伝言をお願いしたい』
「どうして俺なんだ? ここまで案内してくれた家政婦さんみたいに、あんたには協力してくれる人間がいくらでもいるだろう」
『身内の恥を晒すようで恐縮だが、私とダアトは、パルミロと確執があってね……今更ダアトに頼る事を、息子は絶対に認めない。私と親しい人間がダアトと接触しようとすれば、息子に妨害されるだろう。それに、ダアトは魂を維持するために、自分の異相――“プロバーティオー・ディアボリカ”に閉じこもっているはずだ。カギリが見た夢には、一定以上の魔力を持つ者……ダアトは“強く儚い魂を持つ者”と呼んでいたが……つまり、超高位魔術師しかアクセスできないんだ』
「だったら――」
『君以外の超高位魔術師はここには来ないし、間に合わない。今日、魔物の群れと共に星が降り注ぎ、100万人の命が一夜の内に消える……ダアトが異相を用いて導き出した、起こるべくして起こる自由都市の終焉だよ』
限がギリっと奥歯を噛む。
少年の顔が、苦悩に歪んでいた。
「また俺に背負えっていうのか……」
誰のものかわからない掌が肩に触れる。
嘲るような声が脳に届き、細い腕が首に絡んだ。
誰かに頭をポンポンと叩かれる。
背後に感じる存在たちを、振り向いて確かめる勇気はなかった。
『その重み、わかるよ。私も、私の家族や友人が笑って生きていける場所を作るために、何千、何万と、名も知らぬ別の誰かを不幸にしてきた。やがて当初の目的は達成されたが、その時にはもう、立ち止まれなくなっていた。力をふるえばふるうほど、しがらみと業は増えていく。そうしてほしい、こうあってほしいと、他人から期待され、一つ目標を達成すれば新たな目標が生まれ、また片方を幸せにしてもう片方を不幸にする……そうやって屍を積み上げる者に、魂たちは絶えず寄り添い、問いかける』
「“お前の生は正しいのか、自分の死に意味はあったのか”」
『その年で聴こえてしまうのか……業が深いな』
「俺にだって目的、叶えたい望みは、ある……でも、そのためにこれ以上、多くを間違えたくない」
『間違えない人生なんて死後にしか存在しないよ。人は、どこまでいっても独善的で、主観的で、利己的だ。利他心も利己心の延長線上にある。生きるかぎり、何かを間違えながら、犠牲にせざるをえない。そうやって命を取捨選択していった積み重ねが歴史になる……今も私は、君を犠牲にして望みを果たそうとしている』
「その姿が、未来の俺だって言いたいのか? だからあんたは英雄になったと?」
『さあな……ただ、望みのために独善的に強い力で誰かを踏みつけにできてしまう者は、踏みつけられた側からすれば、ただの加害者だ……それもすべて、自分でそうすると決めた事。未来で、血を分けた肉親から地獄のような痛みの伴う延命処置を受けると、ダアトに忠告されながら受け入れたのは、それが私の大切な者たちにとっての最善で、私にとっての最良だと信じたから……後悔はないよ』
「俺はまだ、そんな風に奇麗に割り切って考えられない。迷いながら、自分をごまかして無理やり決断して、その結果に後悔する事ばかりだ。もっといい方法はなかったのかって、いつも考えてる」
『……ダアトが君に注目した理由がわかったよ。有史以前から生きる悪魔は、常に私たちを試している。生かすために殺す矛盾を抱えた人間が、何を選び、何を思うのか、面白おかしく高みから観察しているのさ。カギリの在り方は、実にダアト好みだ』
「一度しか会った事ないけど、なんとなく分かる気がする……」
『他人の幸せと不幸のピークを盗み見るのが三度の飯より好きなそうだ』
「最低の趣味だな。そんな理由で100万人が死ぬのを見過ごすなんて、普通できない」
『普通、か……それほど死に魅入られていながら、君はまだ正気を捨て切れていないんだな……だから迷い、後悔する事になる。もしかして、元からまともじゃないから普通のふりをしないと自分を保てないのか? どちらにせよ、心から同情するよ』
「余計なお世話だ。ユグランスで世話になった人もいる。その話がすべて本当なら、俺が選べる選択肢は、はじめから一つしかない」
『王国の軍人という立場だけで考えれば対岸の火事だ。気が進まないなら断ってくれてもいいが?』
「あんたの言った通りだ、アルベルト・コルレアーニ。他人の口車に乗った、状況に迫られた、同情心に流された――色々言い訳はできるかもしれないが……結局、最後にそうすると決めるのは、いつだって自分だ……それが独善でも偽善でも何が何でも、立って、前を向いて、進み続けるしかない。軍も国も関係ない、俺は俺の意思で、あんたに力を貸すと決めたよ」
『愚直だな……暗闇の中をまっすぐ進もうとする君の魂は、月のように輝いて、私には眩しいよ……蒼い月光』
「それやめろって……もう一度確認するが、伝言だけでいいんだよな? そうすればみんな助かるんだよな?」
『わからない。ただ、間違いなく勝敗は決まる』
「いや、意味が分からないんだけど?」
『私もさ、すべてを知っているのはダアトだけだ。本当に知りたい情報をダアトは常に隠そうとする。能力を使って導き出した予測を断片的に開示し、聞く人間の反応を見て、楽しんでいるんだ。どうだ? 我が友は殺されて然るべき悪魔だろう?』
そう言いながら、宝物を自慢するように、老人は脳内で楽し気に笑っていた。
年寄りの妄言に辟易するように、限は額をおさえる。
「はっきりしてくれよ、まったく……悪魔だから性格が悪いのか? 性格が悪いから悪魔と呼ばれてるのか?」
『両方だ』
「はぁ……それで、何をどう伝えればいいんだ? 糞くらえとかなら喜んで伝えるぞ」
『それもいいな。じゃあ、こう伝えてもらおう――』
限の脳に、交信魔術で言葉が伝わってきた。
その内容は、短く、シンプルだった。
さぞ長文で重要な事を言われると思っていた限は、拍子抜けする。
「――それだけ? 本当にそんな事でいいのか?」
『本当に知りたいことを占わないのは、ダアト自身についても当てはまる。ダアトは、ビックリ箱の中身を開ける前に知ってしまうような興の醒める展開が、心底嫌いなんだ』
「自分にまつわる事柄も予測しないようにしていたから、あんたの息子に殺されたって言うのか? 馬鹿じゃないのか?」
『最低最悪にして正真正銘の馬鹿だよ……そんな奴だから、私の伝言が意味を持つ……どうか、今は亡き友に伝えてやってくれ……私の、最期の答えを――』