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天の限りに昇る月  作者: 喜由
第一章 ノトス海戦編
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Episode:003 有為転変

『天野』と書かれた表札の掛かった木製の屋根付き門をくぐると、古めかしい日本家屋が姿を現す。

 何の変哲もない平屋建てで、それほど立派というわけではないが、人の住む温かみがある良い家だった。


 小ぢんまりした庭には花壇があり、チューリップ、リネリア、パンジーなどの花々が咲き誇っている。雑草は一つも見当たらない。世話をしている人間の愛情と献身が窺われた。

 (かぎり)が引き戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。


「ただいまー!」


 大声で帰宅したことを告げてから、靴を脱ぎ、綺麗に揃えておく。こうしておかないと、後々面倒なことになるのだ。一度荷物を置くために、玄関から入ってすぐ右手側にある自室へと向かった。

 六畳ほどの大きさの自室には、机、ベッド、本棚が置かれていた。本棚に並べられた本や雑誌は綺麗に整理されており、畳の上にはほこりや髪の毛が一切見当たらない。隅々まで整理整頓されている。これも限が家主の言いつけを日頃から守っている賜物だ。


 荷物を置いて私服に着替えたあと台所に移動する。

 うがいのあと、手と顔を洗い終えた。

 そのすべてで限は盛大に顔をしかめ、地団駄を踏んだ。


「くぅうううう!」


 何かを堪えるように体を震わせる。

 やがてその“何か”が収まったのか、台所にある冷蔵庫からお茶を取出してコップに注ぎ、一口で飲み干した。

 すると限はまた同じことを繰り返した。


「ぐぬぬぬぬぬ……!」


 再び体の中から湧き上がる衝動を抑え込むことにどうにか成功した少年は、次いで廊下に出る。


(あおい)さーん、いないのかー?」


 葵なる人物を呼びながら家の中を練り歩く。

 返答はない。


 限は南西にある床の間に差し掛かった。

 襖を開けると、漆塗りの木製テーブルを前に、麻色の木綿着物に身を包んだ初老の女性が正座して瞳を閉じていた。


 彼女の前には、空になった湯呑と急須が置いてある。

 どうやら静かなお茶の時間を嗜んでいたらしい。


「なんだ、ここにいたのか」


 少年が声をかけると、葵と呼ばれた老婆の閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。

 深い皺が刻まれた顔、枯れ枝のような手、白髪が目立つ長い髪、年齢相応に老いがうかがえる老婆は、しかし美しかった。内面から滲み出る精彩が、実年齢を感じさせない力強さを放っている。


「おかえりなさい、限。その傷はどうしたの?」


 葵の眼光は、日本刀の煌めきに似ていた。

 鋭い目線に晒された限の姿勢は自然と正される。

 葵が指摘したのは、限の顔面にある怪我のことだ。擦り傷や切り傷、青あざが出来上がっていた。


 うがいをしたとき、顔を洗ったとき、飲み物を口に含んだとき、それぞれ顔をしかめていたのは、水やお茶が傷に沁みたからだった。


「ちょ、ちょっと、道で――――」

「転んだわけではないですよね? そこに座りなさい」

「……はい」


 ぴしゃりと言い訳を封じられた孫はしゅんと項垂れながら、おとなしく葵の対面に腰を下ろした。もちろん正座だ。限が座るのを待ってから、祖母は言葉をついだ。


「大方、厄介事に首を突っ込んだのでしょう?」


 目に見えて限は縮こまる。


「気に入らないことがあると後先を考えなくなる癖は直しなさいと、あれほど言ったのに、懲りていないようですね」


 更に肩を落とす。すべて正解だった。

 限は早々に白旗を上げる。


「面目次第もございません」

「謝罪は結構です。訳を説明なさい」

「えーっと……」


 限は、ことの顛末を葵に説明した。

 ジュースに釣られてお使いを承諾し、旧校舎裏に向かったら、いじめの現場を目撃してしまった。

 そこに居た不良たちの態度があまりに鼻持ちならなかったため、盗られた少年のお金を盗り返して少年に返却したことを、かいつまんで話す。


「そこまでは良かったんだけど、ジュースをもらって帰る途中、お金がないことに気付いた奴らが追いかけてきやがりまして……それで……まあ、こういう感じになりまして……」


 話すにつれて葵の眉間の皺は濃くなっていき、限の語勢は小さくなっていった。

 最終的に、二人の間に無言の空間が横たわる。


 限の頬に汗が伝った。

 汗が傷に染みたが、何とか痛みを表情に出すのは堪えた。

 すると葵は険しい表情のまま、おもむろに立ち上がった。


(これは久々に説教コースかな……)


 葵は短慮を何よりも嫌っていた。

 とかく他に良い方法を探す努力を放棄して選ばれる暴力という解決策を、葵は嫌悪している。それは限も十二分にわかっていた。『まずは落ち着いて深く考えなさい。暴力は非常手段です』と葵から言われた回数は数知れない。


 葵自身もその言葉を順守しており、これまで限がどんな過ちを犯しても、彼女は決して手を上げなかった。


 そのかわりに彼女は粛々と諭すのだ。

 孫を正座させてから、どうしてそうなったのか、どう考えてそうしたのか、1から10まで説明させてから、間違いがあれば正し、不正があれば戒め、褒める点があれば称賛した。


 問答はたいてい長時間に渡るため、年寄りの小言と正座に関する忍耐力について、限は自信があった。

 

 厄介事に首を突っ込んだのは、深慮遠望があったからではない。

 不良たちが気に入らないという一時の感情に従った結果だ。

 短慮とは、こういうことを指して使う言葉だろう。


 つまり祖母は現在進行形で機嫌が悪いに違いない。

 そう結論付けた限は、次に吐き出される言葉のトゲに備えて身構えた。

 そうやって四肢を強張らせている孫の隣を、葵はスッと通り過ぎた。


「あ、葵さん?」

「少し待っていなさい」


 そう言ってから彼女は部屋を出て行った。





 //





 言葉通り、30秒もせずに戻ってきた葵の手には、濡れたタオルと薬箱が握られていた。


「顔は洗ったのですね? 頭痛や耳鳴り、吐き気などはありませんか?」

「えっ? あっ、うん……ないよ」

「そうですか。少し沁みますよ」


 そう言うと、葵は素早く傷の手当てを開始した。

 軟膏を塗り、ガーゼを当て、包帯を巻いていく手さばきは、丁寧で素早かった。

 すぐに治療は終了する。


「はいお仕舞しまい。もういいですよ」

「ちょっとこれは大げさじゃないですか、葵さん?」


 顔だけミイラのようになった限がそこに居た。

 包帯の下は軟膏でぬるぬるだ。湿潤療法と呼ばれる治療方法で、ガーゼが自然治癒する皮膚に固着しないように、軟膏は多めに塗っておく必要があるのだ。

 鼻の頭をかこうとしたが、包帯だらけのためかき損ねる。

 それを見た葵は、少しだけ微笑んだ。


「それくらいの方が自分の過ちを再確認しやすいでしょう? これに懲りたら、どうしても、というとき以外は、危険なことに関わらないようにしなさい。火中の栗を拾うのは猿におだてられた猫くらいのものです。猫以下にはなりたくないでしょう?」

「了解です」

「本当にわかっているのかしらね、この子は……失敗から学ばない人間は、いずれ大怪我をしますよ」


 今日何度目かになるため息を吐いた葵の表情は、しかしどこか嬉しげだった。

 彼女も孫の行為を全て否定しているわけではない。


 過程はどうあれ、打算抜きで人助けをした限を褒めてやりたい気持ちもあった。

 しかし、保護者としては、その無鉄砲さが危なっかしくてしょうがないのだ。


 限には、己の中にあるルールに素直に従うところがあった。

 自分が是とする道を突き進むことを、限は躊躇しない。

 善悪や社会通念といった価値観に左右されず、ひたすら自分自身の直観に従順だった。

 それはあまりに危うい感性だ。

 葵はよく考えてから行動するようにと、事あるごとに言い聞かせてきたが、限の直観的な言動はいまだに矯正される気配がなかった。


 周りの環境が大きく変われば、限の考え方も変わるのかもしれない。

 そんなことを考えながら立ち上がろうとした葵の膝から、唐突に力が抜ける。


「あら――――」


 葵の目の前は真っ暗になり、急速に五感が遠ざかって行くのがわかった。

 完全に意識が消えさる直前、葵は限の悲痛な声を聞いたような気がした。





 //




 祖母が気絶したのは、熱中症と疲労が重なってしまったせいだと、医師は言っていた。

 庭仕事で大量の汗をかいた後、自覚症状がないまま室内で過ごし、少し水分をとった程度では回復できないほど症状が悪化してしまったらしい。


 すぐに救急車で搬送されたため、大事にはならなかったが、念のため葵は一日入院することになった。


 葵の無事を確認できたときは、心の底から安堵した。

 病院のベッドで点滴の管を腕に着け、静かに寝る葵の姿を見ていると居たたまれない気持になる。

 弱っている家族を見るのは辛かった。

 長年一緒に過ごしてきた家族が倒れるほど疲弊していたことに気付けなかった自分自身が憎かった。


 大げさかもしれないが、たった一人しかいない家族が倒れたのだ。平静ではいられなかった。


 限の両親は6歳のころ交通事故で死んだ。物心がつく前の事で、昔のことははっきり覚えていない。

 ただ、ときどき苦しくて辛くて逃げ出したいという強い衝動がフラッシュバックしてくることがあり、自分の過去を詮索しようとういう気には、未だになれなかった。


 天涯孤独の身となった限を引き取ってくれたのは、母方の祖母の葵だ。


 限は一人息子だったためベタベタに甘やかされて育っていたが、事故直後、抜け殻のようになっていた限に対して、葵は一切遠慮しなかった。


 靴を揃えないで家に上がると正座で説教、自室の掃除を怠ると綺麗にするまで自室に軟禁され、箸の持ち方が悪いと毎日注意された。

 テストの点数が悪いとつきっきりで勉強を見てくれたし、熱を出せば日頃の不養生を諌めつつ寝ずに看病してくれたりもした。


 思い出されるのは葵に厳しくされた記憶ばかりだったが、けっして嫌な思い出というわけではなかった。

 葵は自分の孫をけっして甘やかさなかったが、それが葵なりの優しさだと幼いながらに気付けたからだ。

 葵が引き取ってくれなければ、いまの限は存在しない。


『下ばかり見ていても落ち込むだけです。さあ、立って、前を向いて。男の子が簡単にへこたれてはいけませんよ』


 パイプ椅子に座って俯いていた限は、はっとなって顔を上げた。

 そこには、先ほどまでと変わらず病室のベッドに横たわっている葵の姿があった。


(……いつだったかな)


 おぼろげな昔の記憶の中で、同じ言葉を葵から聞いた覚えがあった。

 葵の言う通りにしようと思った。

 面会時間が終わる5分前、寝ている祖母に一礼してから、限は病室を後にした。





 //





「こっちだって簡単にへこたれてもらっちゃ困るんだ! まだ、なにも恩返しできてないんだからな!」


 そう吐き捨てながら、長い石段を上りきると、限の目の前にひっそりとした神社が姿を現す。

『福知山神社』と鳥居に書かれたその神社は、静まり返っていた。

 時刻は20時半。

 空に昇っている青白い満月が境内を照らし出している。

 境内に人の姿は見えない。風が木の葉を揺らす音も、鳥や獣の鳴き声も、聞こえてこない。

 夜の神社は、昼間の神聖な空気とはちがう、異質な気配を孕んでいるように見えた。


 限は狛犬に睨まれながら石畳をゆっくりと進んでいき、賽銭箱の前で歩みを止める。

 軽く会釈をしてから鈴を鳴らしたあと、おもむろに5円玉を投げ入れた。


「葵さんが元気になりますように!」


 静寂をかき消すような大声でそう言い放ち、律儀に二礼二拍手一拝する。

 限は包帯だらけの顔を手の平で覆いながら空を振り仰いだ。

 そのまま賽銭箱の前にある階段にすとんと腰を下ろす。


「……なにやってるんだろう、俺……」


 それは、今日一日を通しての自問自答だった。

 葵が倒れたことが尾を引いているせいか、今日は彼女から散々指摘されてきた自分の性質が、いつにも増して心に引っかかっていた。


 放課後の旧校舎裏での限の行動は、人助けなどという崇高な行為ではない。

 誰のためでもなく、ただ自分が思う通りにしただけだ。

 自分勝手、我が儘、そう言われても仕方ない。

 心の隅でそう理解しながら、結局実行してしまった点に罪がある。

 しかし、下卑た笑いが聞こえてきたとき、自然と体が動いていた。

 失敗するリスクを度外視して、その場に落ちていた如雨露を使い相手を煙に巻く算段を立てていた。


 結果的にお金は取り戻せたが、手痛い反撃を食らうことになった。

“してやったり”という個人的な充足感は得られたが、当事者の酒井が置かれた状況は、昨日までと何も変わらないだろう。


 いじめに他人が横やりを入れると、病理が悪化する場合が多い。他人の力を借りて一時的な危機を凌いでも意味がないのだ。次は、より陰湿に、周到に、水面下に潜りこんで、同じことが繰り返される。

 覚悟もなしに不良たちが気に入らないからという理由だけで限は行動した。

 それではあまりにも無責任だ。

 今日のことだけではない。

 人生を振り返ると、反省点は山ほど見つかった。

 自然と、顔は俯き気味になる。


「駄目だ駄目だ! 下を向くな、立って前を向け、男の子は簡単にへこたれない!」 


 限は勢いよく立ち上がる。

 声は静かな境内に良く響いたため、少し頬が赤くなっていた。


 限が立ち上がるのと同時に、境内で変化が起きたことに、限は気付いていない。


 その変化は、ごく小さな現象に過ぎなかったからだ。

 限の隣にある賽銭箱の上方――――地上から2メートルくらいの高さに、小さな歪みが出現していた。

 風景の一部分だけが、夜闇よりも深く黒ずみ、歪み、捻じれているのだ。

 それは小指の爪ほどの大きさで、蜃気楼のように不確かだった。


『蜃気楼の歪み』のような不可思議な現象は、癌細胞のように音もなく自らの版図を拡大していき、30センチほどに成長する。

 その時になってようやく限は『蜃気楼の歪み』に気付いた。


「なんだこれ?」


 錯覚かと思い、目をこすって見直してみたが、『蜃気楼の歪み』は相変わらず宙に浮いていた。

 しかも、依然それは成長し続けている。


「幻……にしては、やけにはっきり見えるな」


 限は『蜃気楼の歪み』に手を伸ばした。

 伸ばしてしまった。

 限の悪い癖が発揮された。

 そして限の指先が『蜃気楼の歪み』に触れる。

 瞬間、激しいめまいと耳鳴りが、限の脳を直撃した。

 景色がこね回された粘土のように形を失う。

 ガラスを爪でひっかく音に似た酷いノイズが脳髄を埋め尽くした。

 一瞬で前後不覚に陥った限は、自分が立っているのか倒れているのかもわからなくなる。


「……これ……やば……」


 助けを求めようと手を伸ばした。

 いつもその手を掴んでくれた人は、ここに居ない。

 青ざめた満月だけが少年を見下ろしていた。


 

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