Episode:002 動き始める世界
ノトス海遠洋。イーリス王国の領海だが、俗に【魔獣の巣】と呼ばれる水棲魔物の群生域が目と鼻の先にあるため、地元の漁師すら滅多に近寄らない危険な場所として知られている。
そんな場所に、一人の青年が“立っていた”。
海の上で、白地に金糸の刺繍が施されたマントを潮風に揺らしながら、双眼鏡をのぞきこんでいる。
立っている場所に足場らしいものは見当たらない。
リラックスした様子で海上に佇む青年の姿は、あまりに不自然だった。
「情報通りだ」
年齢は10代後半から20代前半くらいで、背丈は180センチメートルほどの、金髪碧眼と端正な面貌、鍛えられた肉体を持った青年は、双眼鏡で何かを観察していた。
双眼鏡のレンズに映りこんでいるものは、空を往く蒼い騎士。
【セレネ】という開発コードで呼ばれるイーリス王国軍の最新鋭グリモアに相違ない。
複雑な記号が描かれた光る円――――【起動陣】を従えている。
起動陣とは、魔術が現実に効果を発揮する際に発現する術式と魔力の輝きだ。グリモアが飛行するとき、起動陣は常に観測できる。
それは常に魔術が発動しているためだ。
グリモアによる魔力の抽出と魔術の自動化は、2つの副産物をもたらした。
それが【飛翔魔術】と【魔術障壁】だ。
「翼と盾のないグリモアは木偶と変わらない」と言われるほどで、飛翔魔術と魔術障壁はグリモア必携の魔術となっている。
飛翔魔術による飛行能力と魔術障壁による防御能力、この2つを両立することで、はじめてグリモアという人型魔術兵器は、陸・海・空の全領域を支配する万能兵器となるのだ。
イーリス王国軍最新鋭のグリモアの起動陣内に観測できる術式は、従来のグリモアのものより複雑で緻密だった。
『単身で魔獣の巣に突入し、魔物相手に戦闘試験を行う』という任務は無事に達成したらしいが、操縦している魔術士の魔力が少ないのか、起動陣の輝きは強くない。かなり魔力の消費を抑えて飛んでいた。
一刻も早く魔獣の巣から遠ざかりたいと、セレネの魔術士は思っていることだろう。試験の結果を報告する必要もある。
進路を南東にとった蒼いグリモアが、本隊との合流を企図していることは明白だった。
魔術による通信――――【交信魔術】という遠距離の連絡手段もあるが、使用できないか使用が制限されているはずだ。
多くの魔力を消費するわりに有効距離が短く、音質も劣悪で、傍受や盗聴が容易な交信魔術は、信頼性に欠けた。数キロメートル離れただけでまともな会話ができなくなるような連絡手段を、軍隊で多用できるはずがない。
また、簡単に傍受・盗聴できてしまう欠点は見過ごせず、重要な任務であればあるほど、軍では交信魔術を厳禁とする傾向があった。
青年が口にした『情報通り』とは、単身の実用性実証試験、魔物との戦闘による消耗、孤立した状況、それらすべてを指していた。
「しかし、こうも上手くいきすぎると喜びよりも疑心が先立つのは、隠れ潜み後ろ暗いことをしている人間の性かな。お前はどう思う?」
双眼鏡から目を離した青年は、斜め後方に向かってそう問いかけた。
誰の姿も見えない海から、当然のように返事がもたらされる。
『我々を誘き出すための罠という可能性も捨てきれません。敵機の帰投ルートから敵部隊の位置を把握した後、我々も本隊に合流したほうが得策では?』
交信魔術による音声だ。
ごく短距離の通信なら、交信魔術の音質と秘匿性は(ある程度)保障される。いちいち顔を合わせたりする手間がないため、こういうとき交信魔術は便利だ。周辺の索敵に万全を期しているからこそできる横着だった。
しかし、短距離の通信でさえ雑音が混じり、耳を凝らさないと聞き取りづらい。
ソサイエという世界に存在する絶対不変の“とある法則”が作用するため、音質の劣化がどうしても防げないのだ。交信魔術の音質改善方法の研究と暗号化術式の開発に各国は心血を注いでいるが、実現の目処は今のところ立っていなかった。
「模範的な解答だ。しかし、それでは行儀が良すぎるな。我々は何のために此処にいる?」
『“あの男”がもたらした情報の真偽の確認、新型機の情報収集、および作戦予定海域の先行偵察であります』
「額縁はそうだが、最後の『皆の臨機応変・迅速果断な行動に期待する』という重要な部分が抜けているな」
『それは幕僚長がブリーフィング終了間際にもらした激励の言葉であって、紙面上で文言が残されていない以上、何ら実効性を伴いません。いざという時には白と尻尾を切られるでしょう。与えられたミッションプランの中でベストを尽くすべきです』
「ならば、“あれ”を拿捕し、持ち帰る。それがベストな選択だ」
『お戯れはお止め下さい、アシュリー様』
「あの蒼いグリモアの魔術は我が国にはないものだった。帝国の更なる躍進の礎となろう。陛下もお喜びになられるはずだ」
『まだ敵機の性能をすべて把握できたわけではありません、どうかお考え直し下さい』
「まさか、私が消耗しきっている魔術士相手に後れを取ると思ってはいまい?」
「それは……」
「【帝国三剣】が一人、アシュリー・シエロ・グランベルが弱っている敵に敗北すると、お前は言うのか?」
『しかし、万が一の場合、全体の作戦に影響を及ぼす危険性があります。アシュリー様と言えど、軽い罪では済まされません。最低でも本国への送還は免れませんよ』
「私が私であるためには、安易な上策で得る成果よりも、困難な状況下で掴み取る勝利が必要なのだ。万が一も億が一もない。無量大数の彼方でも勝利してみせよう。それが帝国三剣を背負うという意味だ」
嘯く青年からは、並々ならぬ決意が感じられた。
それは、燃えるような野心、魂を震わす大望、誰もが焦がれる熱情、そういう類のものだ。
『夢』と言っても差し支えない。
夢を抱く者が口にする言葉には、重みが宿る。
そして、重みのある言葉は、いつだって周りにいる者の心を動かすのだ。
『……もう、何も申しますまい』
通信相手は諦め交じりの溜息を吐いた。
アシュリーの意志を覆すことができないと悟ったのだ。夢と実力を併せ持つ人間の芯は決してぶれない。
これがアシュリー以外の人間なら殺してでも止めるところだが、帝国三剣という称号は、困難を打破し、不可能を可能にしてきた者だけに与えられる名誉だった。
彼らが「できる」と言えば1%も100%になる。帝国三剣に二言はない。
『しかし、殿下お一人で行かせるわけにもまいりませぬ。不肖ブレンダン・ロア、お供いたします』
「なんだ、申しているじゃあないか」
『アシュリー様!』
「冗談だ。行くぞ」
青年――――帝国三剣が一人にして統一グランベル帝国第三王子アシュリー・シエロ・グランベル三佐が、一度指をはじく。
すると、彼の体が徐々に浮かび上がり始め、海面下からは黒い影が浮上してくる。
出現したのは、黒い軽装の西洋甲冑をまとった線の細いグリモアだった。アシュリーはグリモアが展開していた魔術障壁の上に立っていたのだ。
いま、魔術障壁の一部に穴が開き、コックピットへとつながるグリモアの首筋から背中の部分が開口した。アシュリーはそこにするりと入り込む。
アシュリーが操縦桿に手を添えると、棺に似た狭いコックピットの中に明かりがともった。魔力に反応した魔石が淡い輝きを放っている。
自動魔術精製装置が臨戦状態に切り替わった黒いグリモアの背後から、ブレンダンのグリモアも姿を現す。アシュリーと同型のグリモアだ。
2機のグリモアの視線の先には、空を往く蒼いグリモアがいた。
「作戦行動を開始する。御国のために死力を尽くせ」
『御意』