Episode:001 園芸部虚偽活動記録
放課後の旧校舎裏は、教師はおろか生徒すら滅多によりつかないため、絶好の非行スポットと化していた。
ここ白峰高校は特筆すべき点のない国公立の進学校だが、国公立だろうと進学校だろうと、素行の悪い生徒は存在する。
その日は5人の人間が校舎裏に集まっていた。
体格に恵まれた男子生徒4人に囲まれて、小柄な眼鏡の少年が震えているという、分かりやすい構図だ。
「な、頼むよ。ちょっと借りるだけだからさ」
「そうそう、必ず返すから、な?」
「オレタチウソツカナーイ! どうどう? 今の似てなかった?」
「似てねぇよばーか。あほなこと言ってないで、お前も酒井くんを説得しろよ」
「わーったよ。ほら、俺らこのあと用事あって、あまり時間ないからさぁ……あるなら早く出してくれない?」
渦中の酒井は、萎縮して俯くばかりだった。
一言も発しない酒井に痺れを切らした一人の男子生徒が、苛立ったように前に出た。
金色に髪を染め長身の少年だ。
「おーい、聞こえてますかー?」
彼はそう言って酒井の肩を小突く。
大した強さではなかったが、怯えきって竦んだ身体は、いとも簡単にバランスを崩して尻餅をつく。
「おいおい、どんだけやわいんだよ。ちょっと押しただけだぜ?」
不良たちの間に、嘲笑が広がった。
酒井は、見世物小屋に入れられた哀れな草食動物にでもなった気分だった。
理不尽な相手の言動に対して、逆らうことも逃げることもできずに、弄ばれるだけの存在に成り下がっている。
不甲斐ない自分自身に殺意を覚えるが、その激情は内向きにしか働かず、現実に影響を与えることはなかった。震える手足が、彼の感じている恐怖を物語っている。
どうして自分はこんなにも臆病に生まれてしまったのかと、酒井は神様を恨んだ。
そうやってすぐに他の何かに責任転嫁し、思考放棄した結果、変わろうとする努力を怠る。酒井の悪癖だった。
「…………ん?」
ふと、先ほど酒井を押した金髪の少年が、酒井が倒れた拍子にポケットから滑り落ちたものに気がついた。
「なんだよ、持ってるんじゃん、サ・イ・フ」
ハッとして視線を地面に向けると、そこに二つ折りの黒い財布が落ちていた。
倒れた拍子にこぼれ落ちたらしい。
慌てて掴もうとする酒井より先に、金髪の少年がそれを手にする。
「か、返してよ……」
なけなしの勇気を振り絞って発した抗議に耳を貸す人間は、この場にはいなかった。
酒井を取り囲む4人の顔には、嫌らしい笑みが張り付いている。
「だから、ちゃんと返すって言ってるじゃん、ほらっ」
金髪の少年は、財布を投げてよこす。
倒れたままの酒井の腹に、軽くなった財布がぽとりと落ちた。
中に入っていたお札は全て抜き取られていた。
「そんなっ……」
酒井は財布を手に握りしめながらか細い声でそう漏らした後、少年たちを恨めしげに見詰める。
心身を打ちのめされた酒井にできる精いっぱいの抵抗だった。
「おいタカ、酒井が何か言いたそうだぞ?」
「なんですかー酒井くーん、なにか言いたいことでもあるんですかー?」
「うっ……ぁ………………」
「ぎゃはははははは、タカのメンチ怖すぎー、酒井くんビビっちゃってるじゃん」
酒井は眩暈を覚えるほど悔しかった。
これほど虚仮にされているにもかかわらず、何の反撃もできない。
そんな姿を見て、少年たちの哄笑はさらに大きくなる。
もうだめだ――――酒井が諦めかけたその時、別のところから声が上がった。
「そこ、どいてくれないか?」
全員がいっせいに声がした方向に目を向けた。
そこに一人の少年が佇んでいた。
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金髪の少年、タカこと高田は、突然現れた男子生徒に見覚えがなかった。
制服に着けた赤色の腕章から、自分たちと同じ2年ということは判別できた。
ダークブラウンの髪とそばかすが特徴的な少年だった。
その右手には、なぜか緑色の如雨露が握られている。
「誰あれ?」
「お前知ってる?」
「知らね」
ほかの仲間の知り合いでもないということがわかると、高田は警戒の色を濃くする。
「誰? 何か用?」
そう問いかけながら、酒井の財布から抜き取ったお札を、相手から見えないように、ポケットに仕舞った。
弱者を放っておけない正義に燃えるバカか、旧校舎裏に偶然居合わせしまっただけの間の悪いバカか、如雨露の少年がもし前者だった場合、酒井と同じ運命をたどってもらう。後者なら適当に誤魔化すつもりだった。
高田には、生来の狡賢さという武器があった。火遊びをボヤのまま済ませる算段を立てるのはお手のものだ。たかが遊びで火傷は負うつもりはさらさらなかった。
「園芸部員だよ。そこの花壇に用がある」
相手はちょうど酒井が倒れている場所を手に持った如雨露で指し示した。
状況がつかめず呆けている酒井を余所に、高田は内心で警戒レベルを一つ下げる。どうやら眼前の少年は、後者――――通りすがりの間男ということらしい。
如雨露で指し示された場所をよく観察してみれば、確かに花壇らしきものがあった。花は咲いておらず、面積も小さい上に、雑草は伸び放題という有様だったが、地面に埋められた煉瓦の境界線と、中に敷き詰められた腐葉土が、かろうじてこの場所が花壇だと自己主張していた。
そうと指摘されなければ、絶対に気付かなかっただろう。
「水をやりたいんだけど?」
そう言って園芸部員は如雨露を少し持ち上げてみせ、立ち退きを催促してくる。
高田は再度、念には念を入れて、注意深く園芸部員の顔を観察した。
不良どもを束ね、日陰を生き抜いてきた高田は、隠し事や後ろめたい感情には敏感だった。
もし、自分たちを欺こうとか、陥れようなどという意志が少しでもあるようなら、“それ相応の話し合い”をする必要がある。顔色を見れば、必要性の有無も一目瞭然と、高田は考えていた。
高田はじっと園芸部員の顔を注視する。が、彼の顔に浮かんでいるものは、ソバカスと少しの疲労と嫌気だった。
非行を正してやろうという気負いは見受けられない。
雑務を面倒に思っているが、何らかの理由でサボることもままならず、事務的に済まそうとしている、といった様子だった。
そう洞察すると、高田は、途端に眼前の男に対する興味を失った。そもそも一刻もはやくこの場から立ち去りたいと思っていたのだ。
これ以上旧校舎裏に留まる理由は1ミリもなかった。
「あっそ、ごゆっくり。行こうぜ?」
高田はそう言って他の3人を促し、園芸部員の横を通り過ぎようとした。
すると、すれ違う瞬間に、それまでじっと佇んでいるだけだった園芸部員が、突然よろめいた。
その肩が高田の肩にぶつかる。
「いってぇなぁーおい! なにしてくれてんだ?!」
すかさず高田は食って掛かった。
ぶつかってきた相手の胸倉を掴み、顔を近づけ、すごんでみせる。
「…………悪い。少し立ちくらみがした」
「はぁ!? ふざけてんのか?」
「ふざけてなんかいない。悪かったって言っただろ」
園芸部員は淡々と答えた。
怖気づいた様子のない相手に、高田は毒気を抜かれる。
「もういいから行こうぜタカー」
「そうそう、そんなやつどうでもいいじゃん」
そう急かす仲間たちの興味は、すでにこの場所にはないようだった。
釈然としないものを感じながらも、高田は掴んでいた制服を乱暴に手放す。
「ちっ……」
舌打ちをした後、彼はほかの3人を連れだって、旧校舎裏を後にした。
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酒井は未だに状況がつかめずに困惑していた。
4人組が立ち去ったあと、園芸部員と名乗る少年は、如雨露を持ったまま無言を貫いている。
酒井も、不良たち同様、眼前の少年を知らなかった。
「あっ……えっと……その……」
沈黙に耐えかねた酒井が何か言おうとすると、少年はおもむろに如雨露を掲げてみせた。
それを『水をやりたいからそこを退け』という意味に捉えた酒井は、慌てて立ち上がる。
「ご、ごめん。水やりの邪魔……だよね?」
「それ、嘘だよ」
そう即答され、酒井は一瞬何を言われたか理解できなかった。
(…………うそ、嘘って言ったのか、この人?)
先ほど不良相手にあれほど堂々と言い放った所属は虚だと、この場にいた全員が信じていたことが偽りだと暴露され、酒井はあっけにとられた。
これほど鮮やかに手のひらを裏返された経験がない。
「俺は帰宅部。そもそもこの学校に園芸部なんてない。アイツらが馬鹿で助かったな」
「へぇー……」
意表を突く答えに、酒井は思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
「でも、じゃあ、なんで……?」
『こんな場所にやってきたのか』という言葉にしなかった部分を、少年は理解したようだった。
手に持った如雨露の先を、旧校舎裏から少し離れたところにある古めかしい倉庫に差し向ける。そこは文化祭や体育祭などで使う道具が詰め込まれているボロ倉庫だ。
「演劇部の顧問に頼まれて、使わなくなった道具をしまってたんだよ」
「え? でも君、帰宅部って言ってなかったっけ」
「そうだけど?」
「じゃあなんで演劇部の手伝いなんてしてるの?」
「帰る間際に顧問に捕まったんだよ。手伝ったらジュースおごってくれるって言うし、どうせ暇だったから……って、やけに根掘り葉掘り聞くね。酒井くん、探偵とか目指してたりするの?」
「別に、そういうわけじゃあないけど……その……」
「あー……みなまで言わなくてもいいよ。ああいうところを見られたくないって気持ちはわかる。別に言いふらすつもりはないから安心して」
「ち、ちがうよ! そういうわけじゃなくて、ただ……」
何故、自分を助けてくれたのか、わざわざ厄介事に首を突っ込んだのか、気になった。
高田という不良は、狡猾で執念深いやつだ。自分が騙されたとわかったら、必ず報復に出るだろう。
見たところ少年は正義漢という感じではない。その佇まいは自然体そのもので、人助けをしたという自覚すらない様子だった。
さっきの場面は、いつ暴力沙汰になってもおかしくなかった。
少年の身長は175センチ前後。か弱い印象はないが、腕力に自信があるようにも見えない。
万が一乱闘になっていた場合、酒井は喧嘩はからっきしなので、少年は四面楚歌となる。少年が如雨露一つで不良4人を打ちのめせるとは、とても思えなかった。
彼の行為はハイリスクノーリターンなのだ。それなのに――、
「どうして、助けてくれたの?」
その問いに対する答えは、すぐに返ってこなかった。
2メートルの間隔を空けて向かい合った二人の間を風が吹き抜け、生えている雑草を揺らす。
遠くから陸上部が練習のときに発する掛け声が聞こえてきた。
たっぷり時間をおいてから、ようやく少年が口を開いた。
「盛り上がっていたみたいだから水を差したくなった――――というのは、どうだろう?」
そう言ってまた如雨露を掲げてみせた。
酒井は、どう返答していいかわからず、目を白黒させる。
途端に少年はばつの悪そうな顔になった。
「ここ、笑うとこだ」
「あ、ご、ごめん……」
酒井が謝ると、少年は居心地悪そうにソバカスの浮かんだ鼻頭をかく。
「いや、謝るのはこっちだな……ごめん、忘れて、というか忘れてください」
「え? う、うん、わかった、忘れるよ」
また沈黙が降り立つ。
不良たちが立ち去った直後のものとは違う、居た堪れない静けさだった。
「そ、それより、ほらこれ!」
少年はこの場に充ち溢れる気まずい空気をかき消すように、早口でまくしたてた。
「え?」
唐突に如雨露を差し出された酒井は、当然困惑した。
酒井の頭上に疑問符が浮んでいる。
「これは酒井くんのだ」
そう言われても、学校に如雨露を持ってきた覚えはなかった。
しかし、生来の流されやすさを遺憾なく発揮した酒井は、訳も分からないまま如雨露を受け取らされる。
プラスチック製の緑の如雨露には水が入っておらず、思ったよりも軽かった。
無事に如雨露が持ち主?の手に渡ると、少年は素早く踵を返す。
去り行く彼の背を前に、酒井は途方に暮れた。
ふと、何かが如雨露に入っていることに気付く。
それは、お札だった。
酒井の財布から抜き取られた額と同じだけのお札が、如雨露に入っていたのだ。
酒井は慌てて顔を上げる。
「ねえ! キミ、名前は?」
驚くほど、大きな声が出た。ちょうど校舎の角を曲がる手前で立ち止まった少年は、斜に構えながら鼻の頭をかいた。それが彼の癖なのかもしれない。
「天野 限。じゃ」
少年――――天野限の姿は校舎の角に消えていった。