Episode:XX3 すべては此れから
大勝を収めたイーリス王国では、連日連夜、お祭り騒ぎが続く。
そんな街の様子を、王都の中心に建てられた豪邸の書斎から、年配の男が遠い目で眺めていた。
男の名はティシポネ・ト・テロス・デルマイユという。公爵の位を有する、イーリス王国保守党の現党首にして、国王に次ぐ発言力のある大物政治家だ。
「栄光と頽廃、此処に極まれり、と言ったところか……」
イーリスは恵まれた国だ。国内に魔石の鉱脈を多数保有し、気候は冷涼ながら寒くなることはない。国民はその豊かさに胡坐をかき、戦う牙を抜かれていく事に気付いていない。
王国の軍事的損失は膨れ上がっていた。
列強最強と名実共に認められている帝国軍の度重なる侵攻によって、能力と志がある人間から順に、国の豊かさを守るために散っていった。
国力の衰えを示すサインはすでに出始めており、魔術士不足によってピラーの維持管理が困難になりはじめた地方都市から、魔術士の派遣要請が次々に上がってきている。
根本的な経済の立て直しと、外交戦略の見直しは急務だ。
そんな時に、帝国から派遣された特使団が持って来た一時的な休戦協定の申し出は、渡りに船だった。
ティシポネの個人的な感情を無視し、保守党党首としての立場だけで考えれば、受け入れない選択肢はなかった。
休戦協定によって王国の勝利は決まった。
薄氷の上を歩くような勝利だ。
メサとマーシャフラッツの【至尊の十冠】を相手に、王国は【盾の王】を“一人使い切っている”。
盾の王が空位となった状態で、ノトス海から“戦場の霧”に奇襲されていたら、今頃ラトレイアには帝国の国旗がはためいていただろう。
(私の見積もりの甘さもあったが、皇帝の気まぐれに振り回された面もある。あの狂人には計算が通用しない……。しかし、まさかたった一人の少年に救われる事になるとはな……)
件の少年は、まだ病院で眠り続けており、その正体は一部の人間にしか知らされていない。少年が目覚め次第、10日前に行われた戦勝式典とは別の式典が開かれ、彼の事が公表される予定だ。
保守党党首としては歓迎するが、手放しには喜べない展開だった。
ティシポネが個人的に思い描いていた絵図とは異なる未来になっていた。
憂いに染まる思索に耽溺していた彼を、書斎の扉のノックが現実に引き戻す。
「失礼します。ゲート・ペイン様をお連れしました」
「……入れ」
白髪の執事に伴われて入ってきたペインが敬礼する。
ティシポネから下がるように言われた執事は、一礼してから音もなく退室した。
「よく来てくれた、まあ座りたまえ」
「はっ」
二人は対面する形でソファーに腰を下ろした。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。君が予見した通り、帝国は新しいやり方を選んだ。表向き問題はあるが優秀な魔術士を集め、南海方面軍に配置する策は、間違っていなかったようだな」
帝国の戦略を、ペインは部分的ながら言い当てていた。
頭の回る男だ。神聖ガルテニア皇国が幇助し、イーリス国内の貴族が反乱を起こしたミトロの内紛の前兆も見逃さなかった。
内紛の混乱に乗じて諸外国が付け入る隙を最小限にとどめるために、非情な決断を躊躇わず選ぶ、その冷徹さを、ティシポネは評価している。
「はい。しかし、今回は本当に肝を冷やしました。ミストレイン州が“戦場の霧”をノトスに投入し、帝国の各州が協力し合うとは思いませんでしたから……正直、アマノ・カギリの働きがなければ、負けていたでしょうね」
「そのアマノ・カギリの報告を聞かせてもらいたくて呼んだのだ」
「わかりました――」
南海方面軍魔術兵器開発実験部隊の設立には、ティシポネが大きく関わっている。
魔動空母、グリモアといった魔術兵器をどう使い、外交を行っていくかという方針は、保守党と革新党で意見が割れており、何をやるにもイーリス王国軍の腰は重く、後手に回りやすかった。本戦争では、対立構造が明確になった二大政党制の悪いところが顔を出してしまった形だ。感情的な足の引っ張り合いと事なかれ主義が横行すれば、健全な政策策定は難しい。
王国の政治的な弱点を補うために、ティシポネは個人的に動かせる独立性の高い部隊を作り、その有効性を確認しているところだった。そのための“実験”部隊だ。
ペインは、実験部隊の発案者であり、ノトス海へ投入するように具申した張本人にして、ティシポネの懐刀だった。
「――有用な人材を失ったことは悔やまれますが、キュアレーヌス・セレネとアマノ・カギリは、嬉しい誤算でした。王国の危機を救ったばかりか、懸案事項だった“戦場の霧”を取り除けたのは、大きいかと」
「ああ、ここ数年で一番いいニュースだ。公私混同も甚だしいが、あの超高位魔術師はイーリスを目の敵にしていた。交渉や説得のできない敵の退場は素直に喜ばしい」
そう言うティシポネを、ペインが眼光鋭く睨みつけた。
「公私混同は、あなたもでは?」
「何のことだ?」
「政治家お得意の二枚舌ですか……あなた子飼いの私といえど、今回の件は、問いたださなければなりません。私心で参謀本部まで使い、ご息女を亡命させつつ、イーリスの存亡を脅かすなど、あってはならない裏切りだ」
「私はイーリス王国保守党党首だぞ? 私と私の党が、もっとも戦争に反対している。娘も、小さいころに家出して以来、行方知れずだ。必至に捜索したが見つからず、悲しみにくれるしかなかったのだ……その私の傷をえぐるとは、飼い犬に手を嚙まれた気分だぞ」
「中央海方面軍に居られた奥方とご子息を、ミストレインとの戦争で亡くされたそうですね……あなたは、ミストレインと同じか、それ以上に敵を憎む理由がある。本音は、ミストレインと戦い、遺恨を晴らしたくてしょうがなかった、違いますか?」
「いい加減にしたまえ。私に対する侮辱も、過ぎれば聞き逃すことができなくなるぞ」
「娘さんは、魔術士になりたいと言って家出されたそうですが、あなたほどの権力者が、家出した小さな子供の行方を探り出せないわけがない。見つからなかったのではなく、見つけなかったんだ。イリアス・デルマ……いえ、イリアス・ト・テロス・デルマイユの事を、あなたは意図的に放置した。その方が都合がよかったから」
そうペインが指摘すると、はじめてティシポネの表情に、僅かな、本当に僅かな変化が生まれた。
しかしその表情の変化から、感情までは読み取れなかった。
ペインは構わず続ける。
「憎しみ続けるために、逃げ道になる暖かな存在は邪魔だったのでしょう? しかし情を完全に捨てきれもしなかったあなたは、遠縁のデルマ家に養子縁組の形で、秘密裏に保護させた。身分を偽り、男装して軍に入隊するなんて、普通は不可能ですが……大きなバックがいれば、話は別だ。それに、軍歴の浅い彼女が精鋭部隊に入り、新型機の魔術士に選ばれたのには、はっきりと誰かの意志の介入が見える……そんなことができる人間には、あいにく一人しか心当たりがない。彼女の存在が、私がこの戦争に疑問を持つきっかけになりました」
「…………」
「あなたはまず、実験部隊と新型の情報を含めたイーリスの内情をミストレインへ漏洩し、好機と思わせ、ノトス海に誘い込んだ。我々は大部隊を前に降伏。捕虜になったイリアス・デルマは事前に手を回しておいた親王国派の帝国貴族に保護させ、王国はミストレインと本土で決戦を行う。敗北するリスクすら織り込み済みで、世界最強の軍事大国によって娘さんの命は守られる――これが、あなたの思い描いていた未来だ。しかしその思惑は、あれほどバラバラだった州同士が皇帝の気まぐれで一致団結した時点で潰えた。こうして今の状況は出来上がった、というわけです」
「すべて憶測だ」
「ええ……事は、第三者から第三者へ何度も経由して行われていた。参謀本部のお三方も知らぬ存ぜぬで、誰も委託元を把握していませんでした。なので、証拠は何もない。私の妄想と言われたら、それまでだ」
「で、君は私の不興を大いに買ったわけだが、いったい何のために、そこまで愚かな事を口走ったのだ? 弁明の余地がなければ、処遇は考えさせてもらうぞ」
冷酷な声音でそう告げるティシポネは、政治の世界に身を置く蛇蝎のごとき存在だ。
穏やかな笑顔を浮かべたまま言葉だけで敵対者を殺せるような恐ろしい権力者が、知られたくない腹の内を探った小賢しい部下をどうするか、想像に難くはない。
返答を誤れば、一生安らかな暮らしはできなくなるだろう。
「ノトス海の戦いで、帝国は弱り、イーリスは強くなった、と表向きには取り繕っている。それは危ういところで成り立っていた南エテリア大陸の均衡を崩してしまった……」
ゲート・ペインは、躊躇う事なく地雷原に足を踏み出した。
そうするだけの信念を持っている。
「帝国と同じく、出る杭は打たれる。今後、イーリスと諸外国の協力関係の維持は難航するでしょう。ミトロの内紛を手引きしたガルテニアあたりは、特に怪しい。帝国も、今回の敗戦を大いに利用するはずです。南エテリア大陸の国々が国防戦略の主軸に据えている対帝国戦略が、対王国戦略に転換する可能性すらある。何にせよ、台風の目は新たな力を得たイーリス王国です」
魔術士として無能な軍人は、魔術戦のような戦いの王道は歩めない。
非才が命を懸けられる場所があるとすれば、言葉と情報を武器にして戦う、この日陰だけだ。
ミトロの内紛で殺した民と、ノトス海に散った仲間たちに恥じない戦いをしなければならない。
その果てに、胸を張って地獄に行くつもりだった。
「私は、イーリスの虚飾に塗れた華やかさなど、どうなってもいい……ですが、守るに足る本当に美しいものも、まだこの国に残っていると、信じている。奥方とご子息が守ろうとした国は、まだ死んでいない。だから、新しい部隊をつくりたい。新たな超高位魔術師を中心に据えた、内優と外患を素早く叩く、高い機動力を有した正式な独立遊撃部隊です。詳細は後日レポートで提出しますが、私の推測では、ティシポネ・ト・テロス・デルマイユは、これを支援してくださるはずだ。美しい祖国を安んずるために……役に立ちますよ、私も、アマノ・カギリも、必ず」
「…………」
「報告は以上です。さて、私は死刑でもいいように、身辺を整理しておきます。お暇させてもらってもよろしいでしょうか、閣下?」
無言を肯定と受け取ったペインは、肩をすくめた後、一礼してから退室した。
後には重苦しい静けさが残された。
ソファーに深く腰掛けたティシポネが、首を回らせる。
その視線が、書斎に置かれた大きな絵画で止まった。
絵画の中には、ティシポネと、軍服に身を包んだ凛々しい青年と、ドレス姿の美しい婦人に抱かれてあどけない笑顔を浮かべた小さな女の子が、描かれていた。
幸せの肖像が収まった額を眺めるティシポネの瞳は、何の感情も映さない。
政界で研磨された男の内心を読める者は、今はいない。
過去には、一人だけいた。
彼が心を許した妻だけが、唯一、彼の心を読むことが出来たのだ。
『ティシポネ、また無理してるでしょう? 私たち家族なんだから、悩みがあったら打ち明けてちょうだいな』
その妻と息子をミストレインとの戦争で失った時、ティシポネは涙すら流さなかった。
『ほら、そんな難しい顔しないで、イリアスが怖がっちゃうわ。あなたは人一倍愛情深いのに、その表し方が下手だから、少し損よね』
ペインが指摘した政治家の思惑が、当たっていたのか外れていたのかは、終ぞわからなかった。
ただ、ペインは後に、転属を言い渡される。
イーリス王国軍に新たな独立遊撃部隊が作られたのは、その密談から一年後の事だった。