Episode:022 鳴らない鐘
11世紀前。北エテリア大陸の小国家【ワ国】の君主――大鐘は、魔術も何もなかった時代に、魔物たちに苦しめられて栄枯盛衰を繰り返す北の小国家群を併合した。
大鐘は、取り込んだ国々に、完全な隷属を求めなかったばかりか、主権は有しつつも、その権能のほとんどを10ヶ国の統治者たちに貸し与えた。
大鐘の偉業はそれだけにとどまらず、通貨、度量衡、言語を一つにまとめる事で、経済的に国を発展させ、魔術という火に代わる新たな道具で文明を飛躍させた。皇帝の尊称を、多数派の言語圏の人間が聞き取りやすいグランベルと改めもした。
神のように偉大で寛大な大鐘――皇帝グランベルに、10ヶ国の統治者たちは忠誠を誓い、緩やかな封建社会が形成される。これが、統一グランベル帝国の始まりだった。
帝都グランベリウムは、皇帝とその係累である大鐘家が居を構える、世界最大の都市だ。
街のそこかしこに直立する高層ビルのような高さの黒い八角柱は、【ピラー】と呼ばれる公共魔術装置だった。
それは各地区に設置された人型の安息所――【クレイドル】に接続されており、クレイドルに入った人間から魔力を抽出し、ピラーが魔術を発動する事で、都市のインフラが賄われていた。魔動空母にあるコロッサス式動力炉の都市版だ。
帝国国民は、クレイドルに入る事を税金と同様に義務付けられており、滞在時間によって税額を控除する制度があるため、公共事業と社会的援助を創出するシステムだった。
列強各国でも同様のインフラ基盤が用いられているが、グランベリウムはその先駆けであり最大規模の都市だ。巨大な黒い柱が大量に並ぶ独特の景観から、『摩天楼街』という異称で呼ばれることもある。
ピラーには魔術障壁などの魔術を発生させる防衛機構の側面もあった。
都市の中央に行くほど、ピラーの密度は増していく。
もっとも過密にピラーが林立し、厳重に守られた都市の中心。
そこに大鐘家の御所がある。
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統一グランベル帝国近衛師団の華やいだ黒い礼装に身を包んだ金髪碧眼の美青年が、座敷の部屋で平伏する。
「この度の敗戦、私の不徳の致すところ。皇帝陛下のご下命を賜りますれば、即日この身を処する所存でございます」
アシュリー・シエロ・グランベル帝国第3王子は厳かに告げる。
御簾の向こうに胡坐をかいて座る人物の顔はうかがい知れない。
「久しぶりに家に帰って来たかと思えば、他人行儀じゃのう。よい、許す。面を上げよ」
姿は見えないが声の高さから女性とわかる。
現皇帝グランベルは、女帝だった。
「しかし……」
「我が許すと言っている。もうこの件は終わりじゃ」
「はっ、感謝の言葉もありません」
「小さな波が起きただけの事よ。それより我が息子よ、もっとよく顔を見せておくれ」
「尊き血の末席に置かせてもらっている私如きが、陛下のご尊顔を易く拝する等、恐れ多い事です」
本音はただ憎い女の顔を見たくないだけだった。
反吐が出る。
「何度も言わせるな」
二言は許さないと、雰囲気で伝わってくる。
アシュリーが折れるほかなかった。
「……失礼、いたします」
御簾をくぐると、そこに居たのは、豪奢な着物をこれでもかというほど着崩した、妖艶な少女だった。その顔は人形のように整っており、床まで伸びた長い髪は黒金剛石のように輝いていた。
若く瑞々しい肉体を惜しげもなく露わにした少女に、アシュリーは近寄る。
帝国皇帝グランベル。
本名コト・アマツカミ・オオガネ。
今年で171歳になる彼女は、しかし少女の姿のまま時間を止めている。
彼女の【魔法】だ。
帝国に巣食う怪物は、魔術に頼らず、その身一つで奇跡を起こせる。
そういった才能を持つ人間は、俗に“魔法使い”と呼ばれた。
大鐘の血筋の大半は、魔法の才能を持って生まれる。
始祖皇帝グランベルも同じ力を持っていたらしい。
「ミストレインが敗北し、南方戦線突破作戦は瓦解しました。ノトス海と中央海に侵攻していた南方三州の軍は撤退した今、国家戦略を再考する必要があります」
努めて真面目に振舞うアシュリーに、はだけた着物からのぞく白磁のような細い手足が、獲物を捕らえる蜘蛛のように絡んでいった。
「煩わしい事をつらつらと、よく囀る……だんだん殺した男に似てきたな」
力は受け継がれてきたが、高潔な精神は違う。
彼女は、小言が多くて気に入らないという理由で、アシュリーの父親を処刑した。
「いま帝国は岐路に立たされているのです」
「此度の戦争で国の興亡が決まる、とでも言いたげじゃのう」
決まるかもしれないのだ。
“戦場の霧”を失って敗走した帝国は、大きく揺れている。
皇帝が許可した南方戦線突破作戦は、全州協働の一大プロジェクトだった。
大きなリターンを期待された国家事業が失敗する事で、州同士の軋轢は確実に深まったのだ。
期待が大きいほど、それが裏切られたときの失望は大きくなる。
水面下では、各州の不平不満が爆発し始めていた。
特にミストレイン州は苦しい立場に置かれている。
この状況を放置すれば、帝国三剣の抑止力を持ってしても埋まらない溝が出来上がってしまう。
下手をすれば、分離独立の潮流が国土を引き裂くだろう。
「そのような些事にかかずらわうほど、我は暇ではない……」
現皇帝は政治に興味がなかった。
もっと言えば、国そのものに関心がない。
ほとんど公の場に出ないのは、この国の行く末をどうでもいいと考えているからだろう。
3年ほど公務を放棄したかと思えば、東部紛争地域での争いを煽るような政策を打ち出し、州同士が争うのを黙って見ているかと思えば、南方戦線突破作戦を認めて全州の団結を言い渡すような指導者だ。
アシュリーと彼の異父妹を、魔法の才能がないと知ったら一瞥もくれずに放逐し、貧民街でドブネズミ以下の暮らしをしていた2人を、「好みの顔に育った」という馬鹿げた理由で救い上げた。
「何の成果もなく“戦場の霧”を失った帝国は弱り、勝利したイーリスは他の列強と共謀して、我々に対抗するでしょう。まさしく国家存亡の危機です」
見た目通りの幼さで、巨大な帝国を翻弄する女は、帝国に巣食う深刻な病魔だ。
「我ら大鐘はただ生きたいように生きていくだけじゃ。小賢しい者共は、生きる事以外に価値を求めようとするが……本来、生き物に生きる事以外は全て余計。国も、土地も、権力も、自由も、欲しいならくれてやろう。自由に滅びればよい……鳴らない鐘が炎上する帝都で在り続けるだけの事よ……」
老いた童女が楽しげにそう語る。
こんな無責任な人間が、帝国の命運を握っている事に、アシュリーは眩暈を覚えた。
皇帝に対する尊敬は、遥か過去にしかない。
現在の帝国は、10の州を治める貴族達の粉骨砕身の努力があって、何とか形を保っていた。もっとも、その努力が各州の増長に繋がり、自州第一主義が横行しはじめた結果、政治は混迷を極めている。
(暗君が……お前のせいで、俺たちは追い詰められつつあるんだぞ)
だからこそ、アシュリーは大鐘ではなくグランベルと名乗り、大望を抱く必要に迫られたのだ。現皇帝と大鐘家は、グランベルという巨大な獣にとりついた寄生虫に過ぎない。
(鳴らない鐘など、誰も必要としていない)
いまの帝国には、始祖皇帝グランベルのような本物の統治者が求められていた。
北エテリア大陸最高権力者の座は、各州長も狙っている。
国外にも大陸の覇権を握るという野望を秘めた者は雌伏している事だろう。
(この女を超え、州長どもを黙らせ、イーリスを打倒し、国を盤石にするためには、力がいる。圧倒的な力がいるんだ……)
帝国三剣程度の肩書では足りないのだ。
そう思いながらも、アシュリーは黙って皇帝の抱擁に身を任せた。
したたかな競争相手全員を出し抜き、勝利するためなら、面従腹背も辞さない。
統一グランベル帝国を、在るべき姿にするために、アシュリーは自分が頂点に立つという決意を新たにする。
だがしかし、今はまだ、その時ではなかった。