Episode:020 朝焼け
目を閉じ、歯を食いしばって、来たるべき時に備える。
本当は叫び出したくて、怖くてしょうがなかった。
情けない気持ちを、必死に抑え込んでいた。
最後まで葵の言ったような男でいたかったし、自分が帝国の兵士に言った事を、言った本人が実践できないのは格好悪いと思い、意地になっていた。
『間に合って良かった』
目をきつく閉じた限に、美しいソプラノボイスが語り掛ける。
走馬灯か、幻聴か、判然としない。
『初めまして、になるのかな? 君を助けるのは、これで2度目だ』
瞼を開くと、1機のアエルルスがキュアレーヌス・セレネの前に立ち、霧を障壁で防いでいた。
『イリアス・デルマ少尉ですね』
そういうセレネの声が、心なしか嬉しそうに聞こえた。
「あのときの……!」
限も思い出した。
ソサイエに放り込まれたときに最初に出会った魔術士だ。
意識不明の重体と聞いていたが、回復したらしい。
絶望するようなニュースばかりの中で、ようやくもたらされた吉報だ。
諦めるには、まだ早い。
『ちゃんとした挨拶は後で、全力で障壁を展開しているけれど、もって1分だ』
『「1分で十分!」です』
キュアレーヌス・セレネが両手を広げて天に掲げる。
対するホロウ試作1号機の双眸が、夜霧の中で輝いた。
互いの鬼気迫る魔術がノトス海を震わせる。
『決着をつけよう、ミストレイン』
『イーリス! どこまで私を苦しめるのよ!』
ホロウ試作1号機が、アエルルスの魔術障壁に円月輪を突き立てた。
だが、突破には至らない。
イリアスも人並み外れた魔力を持つ魔術士だ。
全魔力を使い切るつもりで魔術を行使したイリアスは、短時間だけ超高位魔術師に拮抗した。
今この瞬間だけは、時間は限たちに味方する。
『AMF、収束完了』
“戦場の霧”は薄い魔術障壁は透過するが、一定出力以上の障壁は通り抜けられない。
その性質を利用し、霧の領域を越えた範囲で魔術障壁を展開し、最大出力で霧ごと敵を封じ込め、AMFで切れ目なく狭めていき、破壊する。
限たちは勝率1%の先に到達したのだ。
「捕まえたぞ……約束は、守ってもらう」
霧が晴れる。
星と本物の月が、白み始めた空に薄っすらと輝いた。
多くの者が命を散らした戦場の空は、それでも美しかった。
ミストレインは、澄み渡った濃紺に目を奪われながら、ぽつりと呟く。
『ああ、憎らしいけど、奇麗ね』
力場に囚われた“戦場の霧”は、ホロウ試作1号機の周囲に滞留し、グリモアごと圧縮されていった。
ホロウ試作1号機の魔術障壁は、ステルス能力に特化されており、シークレット・フォースより優れた隠密性を発揮する一方、防御能力がまったく無かった。
外に漏れる魔力を抑制する魔術障壁を展開できる新型の自動魔術生成装置が上手く働かず、本来の障壁としての機能を阻害してしまうという重大な欠陥のせいで、歴史の表舞台に立つ事なく、ひっそりと消えていく宿命を負った幽霊を、ミストレインは「欠陥を抱えた者同士、仲良くやれる」と言い、倉庫から引っ張り出したのだ。
『……いいでしょう、このプリムローズ・ミストレインの首級、持っていくといい』
今わの際に、プリムローズ・ミストレインは決然と言い放った。
彼女こそ魔術の神髄を極め、魔術士とはどうあるべきかを体現する、真の魔術士だ。
目的を達成できなかった怨憎も、魔術戦で負けたという結果の前には、受け入れざるを得ない。
そういう風に割り切れる冷徹さが、彼女の誇りだった。
『でも心しなさい……私を倒したあなたは、世界から戦い続ける事を望まれるわ……永遠の戦場の霧に囚われるのよ。ここで殺されていた方が幸せだったって、思うかもね』
ミストレインの言葉は、死に瀕して自棄になって口走る虚言や妄言の類とは違った。
心からの親切心と、同情のようなものが混じった優しい声色に、限は戸惑う。
「何を、言っている……?」
手心を加えるつもりなどさらさらないが、限は思わず聞き返していた。
ホロウ試作1号機が形を失っていく。
『イーリスに使い潰されないように気を付けなさい……忌々しい国よ、本当に、心の底から滅ぼしてやりたかった……』
その言葉を最後に、“戦場の霧”は煙のように消えた。
同時に月と星が彩る濃紺の世界は終わる。
太陽が南の海を照らし出した。
神秘的な薄桃色のグラデーションが視界いっぱいに広がる。
その光景はまるで、世界が、多くの畏敬を集めた巨星の陥落を悼み、新たに生まれた月を喝采しているようだった。
(先に逝くわヒース……どうかこんな私のために泣かないで……)
まばゆい朝焼けの中で、プリムローズ・ミストレインの過去を垣間見た。
限は、自分が殺した人間と、その人間に殺された者たちに涙しながら、ゆっくりと意識を失った。