Episode:018 散っていった命のために
「第2飛行甲板大破、依然として火災発生中!」
「メインパス寸断、魔術出力が35%まで低下!」
「“戦場の霧”による魔力吸収が止まりません! 艦内の魔術装置に必要な魔力が不足しています!」
「死者47名、負傷者多数! 医療室のベッドがいっぱいですよ!」
クロノス・ミカニ主艦橋では、可及的速やかに解決しなければならない問題が次々に報告されていく。
「消火活動に砲撃班も回せ、どうせもう撃てんよ。医療室に入りきらない怪我人は、被害が少ない第1区画の部屋をすべて開放して運び込め、医薬品も忘れるなよ」
副長が素早く指示を出した。
「魔力伝送路はバイパスに切り替え、整備班にはメインパスの復旧を急がせろ! 応急処置でもなんでもいい、シーサーペントの餌になりたくなかったら飛翔魔術のコントロールを維持するんだ。艦内の魔術は医療室と整備班のところを第一優先に、こちらは第二、それ以外は二の次でいい!」
ヌースも声を張り上げる。
ヌースと副長が役割に応じて問題に対処していくが、問題の数は増える一方だった。
敵の大部隊に包囲されるよりも、たった1機のグリモアによる攻撃が、空母を瀕死に追い込んでいた。
指示を出し続けるヌースたちの背後に、いつの間にかやってきていたペインが立つ。
「お前にはグリモア隊の指揮を任せていたはずだが?」
指示の合間に、ヌースがペインの方を見ずにそう聞いた。
「指揮が必要な隊員は、もう居りませんので……」
「まだ1機いる」
「あれには、私よりも心強い精霊が付いています」
「なるほど……それで、この忙しい時に何の用だ?」
「グリモア隊は壊滅。優秀な人材を失いました。敵の力を読み損ねた私の責任です。処罰はいかようにも。しかしこれ以上の継戦は、いたずらに損害を増やすだけです。艦の放棄を進言します」
副長が口を挟もうとして、やめた。彼も同じことを言おうとしていたのだが、踏ん切りが付かずにいたのだ。
ヌースも副長も、思いは一緒だった
引き際を見誤ってはいけない。そう思いつつ、決断を先延ばしにしてしまったのは、空を見通せないほど濃い霧の中に、まだ蒼い満月が浮かんでいるからだ。
キュアレーヌス・セレネとアマノ・カギリは、王国の新しい要になる。
今のヌースはそう信じて疑っていない。
“戦場の霧”相手に苦しい戦いを強いられているようだが、あれは超高位魔術師の中でも5本の指に入る化け物中の化け物だ。
世界最高クラスの魔術士を、魔術戦で圧倒して見せたアマノ・カギリ特務准尉の戦いぶりは、絶望しかけていた艦橋のクルー全員が、阿呆のように口を開けて魅入るような劇的なものだった。
百年に一度、いや、千年に一度の技術革新と、千年に一人の逸材が、今ここに揃ったのだ。
新たなグリモアと魔術士に、ヌースはそれほどの可能性を感じていた。
もし艦を放棄し、降伏する事になれば、帝国はイーリスが手に入れようとする未来を、何らかの形で妨害するはずだ。
それがヌースは口惜しかった。
限の活躍が、艦長の判断を遅らせる要因になっていたのだ。
「しかし、それも、ここまでか……」
艦橋を見渡す。
汗を流しながら艦長の指示を整理して伝え、返ってくる悲鳴のような要請をさばいていくクルーたち。もたらされる報告はネガティブな物ばかりで、グリモア隊は1機を残して全滅、艦の被害は甚大で、死傷者も多い。
その元凶であるプリムローズ・ミストレインは、“戦場の霧”の中に消えた。
キュアレーヌス・セレネを危険な敵と判断し、安全かつ確実に勝てる戦い方に切り替えたのだ。
敵は依然として健在。なれど、味方は満身創痍。
「艦長……」
副長が黙り込んだヌースに心配気に問う。
「わかっている……退艦準備を急ぐように、全クルーに通達、交信魔術は使うなよ。ペイン、キュアレーヌス・セレネには時間を稼いでもらう。もう少しだけ“戦場の霧”を足止めしろと伝えろ」
「……わかりました」
夢のために何もかも犠牲にできるほど、ヌースは子供でもなく、愚かでもなかった。
それでも、あわよくば、という思いは、心のどこかにしつこく残り続けた。
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ケイ・ルーデ技術少佐は、医療室を走る。
魔術士が全員空に昇ったあと、整備班の中でグリモア専属のケイはやる事がなくなったため、一番忙しい救護班のフォローに来ていた。
衛生兵と協力して、怪我人の手当てを行う。
技術者とはいえケイも軍人だ。応急処置程度ならやり方は知っているし、修羅場も何度か潜り抜けている。
喀血を顔面に浴びても、手は動かし続けた。
血まみれの人間、ひどい火傷を負った人、体の一部がない重傷者などが、絶え間なく医療室に担ぎ込まれる。ケイは少しでも力になるために、迅速に応急手当を行いながら、弱音を吐く人間を叱咤し、生きる事を諦めてしまいそうな人を激励する。
それでも、どうしようもなく命はこぼれていった。
たった一人の敵に、クロノス・ミカニは惨憺たる有様だ。
その敵が“戦場の霧”というのならば、納得だった。
周囲の魔術的事物からのべつ幕無しに魔力を吸収してしまう彼女の異相魔術“戦場の霧”は、その特性上、味方との協働には制約が多いが、奇襲作戦においては戦略兵器の名に相応しい脅威となる。
普通ならとっくに降伏してもいいような状況だ。
まだ戦い続けていられるのは、セレネが飛んでいるからだろう。
その事実が、ケイに一縷の希望を抱かせる。
(カギリ、あなたなら帝国と王国の戦いの連鎖を断ち切れるかもしれない……だから、どうか負けないで……)
健気に願う少女の袖が引かれる。
振り向くと、ベッドに寝ていた一人の人物と目が合った。
ケイは驚きの声を上げる。
「あなた?! ま、待ってて、すぐ人を呼んでくるから!」
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霧が立ち込める夜空には、月も星も見えない。
巨大なクロノス・ミカニの飛翔魔術を示す起動陣と、炎上する船体だけが、ぼんやりとノトス海を照らし出す。
あたりには耳が痛くなるような静けさが横たわっている。
『こちらコマンダー1、ブルー9、聞こえるか?』
「……はい、聞えています」
『艦長命令だ。もう少しだけ時間を稼げ。終了時刻はまた指示する』
「……了解」
限はペインからの指令を、冷静に受け答えしていく。
キュアレーヌス・セレネは淡々と魔術を解除し、次の戦闘に備えた。
その落ち着いた様子とは裏腹に、限の内心には収まりがつかない気持ちが、ふつふつと煮えたぎっていた。
噛み締めた唇から血が滴り落ちていく。
何もできない事が悔しくて、どうにかなりそうだった。
その気持ちを吐き出したくない。
セキヤも、ヤニスも、ヨアンナも、ペトラも、みんな限を受け入れようとしてくれた。
嬉しい事も楽しい事も、辛い事も悲しい事も経験してきた善良な人たちだった。
どこにでもいる普通の人たちだった。
優しい人たちだった。
全部だった、だ。
誰も彼も過去形になってしまった。
せめて、彼らの思いだけは、過去にしたくない。
いま感じている何もかもを、血と骨と臓腑に染み渡らせたかった。
少年の律義さが、敗北を受け入れようとする弱い心を拒んだ。
簡単には諦められない。
しかし相手は超高位魔術師だ。ちょっとやそっとの事では、一矢報いる事もできないだろう。
今も“戦場の霧”の中に身を潜め、キュアレーヌス・セレネの様子を伺っているに違いない。
闇雲に動いても、先ほどの二の舞になるだけだ。
「セレネ、いい案は見つかった?」
『すみません、まだです。新たな変数が増えていき、シミュレーションが難航しています』
「俺の魔力が尽きる前に、答えは出せそうか?」
『不明です』
「わかった、じゃあ、勝率1%以下の作戦の中で、セレネが比較的マシだと思うものを見せてくれ」
『了解』
限はその中から直観的に一つを選ぶ。
悩まなかった。
ノトス海に消えた仲間の思いを果たせれば、何でもよかった。
「これでいく」
『しかし――』
「このまま時間を稼いで降参する前に、せめて皆のために一矢報いたい。簡単にへこたれられないんだ、男の子は」
『勝てないのに戦う。私には理解できません』
「戦闘補助精霊でもわからない事があるのか……なんか安心したよ」
『何故ですか? “戦場の霧”に対して有効な解決策を提示できない私は、役目を果たせていません。あなたは期待以上の働きをしています。ここまで追い詰められたのは、あなたをサポートしきれなかった私の能力不足。私が戦闘の不安材料になっている事は、不本意です』
「そう? 欠点がある方が人間らしくて、みんながセレネに親近感を持ってくれるかもよ?」
『理解、不能です』
「じゃあ勉強しなきゃな。セレネには悪いけど、嫌でも付き合ってもらうから」
『私はあなたの精霊です。地獄の底まで、お供いたします』
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霧の中で、プリムローズ・ミストレインは懐古する。
多くの帝国軍将兵がエテリア大陸の中央海に散っていった。
彼女自身も消えない傷を負い、人生を狂わされた一人だ。
イーリス王国にとってミストレインがそうであるように、ミストレインにとってもイーリス王国は怨敵だった。
事実、ミストレイン州の数度にわたる南進作戦は、すべて痛み分けで終わっている。
ミストレインたちの悲願の前に立ちはだかったのは、イーリス王国の超高位魔術師【盾の王】率いる中央海方面軍。その名の通り盾となり、帝国の進出を阻む精強な王国軍の主力は、“戦場の霧”をもってしても、大損害を覚悟しなければならない難敵だった。
その敵が、新たな力を手に入れようとしている。
盾の王とそん色ない矛は、反帝国の旗印となるだろう。
「ここで落ちなければいけないのは、あなたの方よ」
大きすぎる力は、人と国を狂わせる。
統一グランベル帝国自身も、肥大した力を持て余す老人だ。
意思統一もままならない強大な国を、誰もコントロールできていない。
最高権力者である皇帝グランベルは時々思い出したかのように命令を下すだけで、一貫性や統率力に欠けた。
直接謁見し、言葉をかわせる立場にいるミストレインですら、何を考えているのか読み取れない。
不遜にも皇帝グランベルこそ帝国の癌かもしれないとすら、ミストレインは考えていた。
敵が何であれ、帝国にとって、ミストレイン州にとって、夫にとって障害となるのなら、排除する。
「それが私にできる唯一のことだから、ヒース、愛しいあなた、見てて……」
不貞を働いていた女が囁く愛は、しかし純粋だった。
愛する夫のために、聖母のように美しく、英雄のように勇ましく戦い抜く。その覚悟がある。
他の男と逢瀬を重ねる事すら、夫のためになると信じていた。
自らの献身を、彼女は疑っていない。
ホロウ試作1号機のコックピットで油断なく周囲を警戒していた彼女は、すぐにその異変に気付いた。
センサに反応があり、モニタに映る霧が揺らいだ。
膨らむ風船に押されるように、空気が動いていた。
蒼いグリモアの魔術障壁だ。
「障壁を広げて霧を押しのけようとしているの? なんて愚かな……」
“戦場の霧”は弱い魔術障壁を通り抜ける。
どれほど膨大な魔力をもっていても、180平方キロメートルに広がる霧の侵入を防ぎ続けるような強力な障壁を維持できるわけがない。
万が一押しのけられたところで、外から魔力吸収を継続すればいいだけの話だ。
どちらにせよ、すぐに魔力欠乏症になって戦闘不能になる。
変わるのは、負けるまでの時間くらいだろう。
「可哀そうに……万策尽きたのね」
明らかに勝算のない魔術を使っていた。
“戦場の霧”の中では、焦りや恐れから、同士討ちや命令無視といった普通はしないようなミスをしてしまう人間が続出する。
霧は心理面でも戦場を支配するのだ。
訓練された人間でも、心の弱さを簡単には捨てられない。
弱りきった時に、信じられないような自分自身がふいに顔を出すのだ。
どうにかしようという思いだけが先走って、短慮に走ってしまったに違いない。
無駄に魔力を使って終わりだ。
ミストレインの読みどおり、“戦場の霧”は障壁をすり抜け、その場に留まり続けた。
霧を除去できるほどの障壁を展開できていないのだ。
ホロウ試作1号機自身にも実害はなく、通り過ぎていく。
この瞬間、プリムローズ・ミストレインは、勝利を確信した。
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限は顔面蒼白で、ともすれば意識を失いかけながら、瞳だけは輝きを失っていなかった。
キュアレーヌス・セレネは、魔術障壁を薄く伸ばして際限なく広げていく。
この間、自機は完全に無防備になっている。
超長距離まで障壁を広げながら自身を守れるような余裕はなかった。
幸い、今のところ攻撃はない。
限たちの意図は気付かれていなかった。
まだ敗北は決まっていない。
『魔術障壁、“戦場の霧”外に到達しました』
「たどり、着いたぞ……!」
出来るかどうかわからなかった第一段階をクリアした限は、拳に力を籠める。
これだけやっても、まだ勝率は1%以下から変わらない。
本番は、むしろこれからだ。
そして、洋上に朗々と声が響く。
「AMF、モード・アンリストレイント」
それは命令であり、詠唱であり、死刑宣告だ。
『了解、AMF、モード・アンリストレイント、ブートアップ』
誰にとっての死刑宣告になるかは、蓋を開けてみるまでわからないが、間違いなく勝敗は決まる。
限には、二の矢も、返す刀もない。
これが本当の最後の一撃になるだろう。
失敗すれば敗北し、死ぬ。
たとえそうなるとしても、躊躇いはしなかった。
直観のせいにするつもりはない。
そうすると決めてきたのは、いつだって自分自身だ。
散っていった命のために、
(セキヤ大尉、ヨアンナ中尉、ヤニス少尉、ペトラ……みんな、見ててくれ)
起動陣が一層輝きを増し、魂は力を漲らせ、
「フルバーストッ!!」
魔術士が全てを解き放つ。
//
覚悟と共に放たれた魔術は、現実を覆いつくした。
180平方キロメートルを越えて展開されたキュアレーヌス・セレネの魔術障壁が、“戦場の霧”を丸々包み込み、光り輝くドームとなる。
「これは……まさか、そんな!」
魔術センサでその様子を察知したミストレインは、はじめて大きい動揺を見せた。
魔術入力鍵を素早くたたき、情報を集めつつ、飛翔魔術を再起動する。
「この“戦場の霧”を封じ込めようというの!? 信じられない! あの魔術士、どんな魔力してるのよっ!」
高出力の魔術障壁が、その範囲を狭めてきていた。
“戦場の霧”とホロウ試作1号機をまとめて拘束するつもりなのだ。
“広いフィールドを逃げ回る敵の位置がわからないのなら、フィールドごと敵を取り除いてしまえばいい”という馬鹿げた発想だった。
異相魔術という例外を除き、世界抵抗の影響で魔術の有効射程は短い。
無人戦闘機やICBMのような兵器を使う地球の戦争に比較すれば、目と鼻の先と言える距離で戦うのが、魔術戦の常だった。
ソサイエという星で、長射程の魔術を使い続ける方法は3つ。
異相魔術を編み出すか。
物理法則に逆らわない魔術を使うか。
大量の魔力を消費し続けるか。
現実的に不可能な第3の選択肢――ひたすら魔力を注ぐという方法で、限は超広範囲の魔術障壁を維持していた。
魔術と呼ぶのも烏滸がましい力技だ。
それでも認めなければならない。
力任せに振られたその刃が、“戦場の霧”の中で唯一、ミストレインに届き得る、と。
「でも、こんな無茶をすれば、さすがに魔力が底をつきかけているはず……」
魔術センサで敵の様子を探り、反応が微弱な事を確認する。
「先に相手を落とした方が勝つ……いいわ、乗ってやりましょう」
ホロウ試作1号機は、魔動空母の待機する空へ、全力で飛んだ。
ミストレインは、捕らえられる前に撃破するために。
限は、撃破される前に捕らえるために。
お互いの魔術が迸る。
ノトス海の戦いは、佳境に入りつつあった。