Prologue 空と海と人型兵器と
エテリア大陸南方の大洋――――ノトス海の美しさは、圧巻の一言に尽きる。
太陽の光を浴びた紺碧の大海原は瑠璃の散りばめられた絨毯のように輝き、青空の果ては見えない。はるか遠くにはうっすらと大陸の影が望め、青と紺と黒のコントラストは息を呑むような雄大さを表現していた。
もっとも、ノトス海は美しいだけの景勝地というわけではない。
太陽を背にして飛ぶ巨大で歪なシルエットは、ワイバーンだ。
翼開長8メートルにも達する中型の竜種で、極めて獰猛な気性を持つ。
自分より小さい動物をすべて捕食対象にするため、沖に出る漁師たちからは非常に恐れられていた。
ワイバーンの狩りはシンプルで豪快だ。
いま、獲物を探して上空を旋回していた一匹のワイバーンが、急降下に移った。
ターゲットは、ちょうど海面に呼吸のために浮かび上がってきていた水棲哺乳類。
巨大な岩石が海面にぶつかったような爆音とともに水柱が立ち昇る。
血まみれの肉塊に変わった獲物がワイバーンの口に収まっていた。
ワイバーンは力強く羽ばたき、上昇を開始する。
その時、海面から大量の水飛沫が跳ね上がり、ワイバーンの頭上に影を落とす。
飛竜の生存本能が大音量で警報を鳴らしたときには、もう手遅れだった。
直後、ワイバーンは己の獲物と同じ運命をたどる。
襲撃者の正体は、シーサーペントだ。
海上に首を出すだけで、20メートル近くまで上昇していたワイバーンを捕らえたシーサーペントの体躯は、常軌を逸した大きさだった。
その大きさを示す有名な話に『朝の来ない島』というものがある。
それは「小さな島の小さな漁村に暮らす人間たちは、ある朝、異変に気付いた」という語りだしで始まる。
ある日を境に、いつまでたっても太陽が昇らなくなった小さな島。
異変はそれだけに留まらなかった。
海の水がうっすらと黒く濁りはじめ、日に日に魚は捕れなくなっていった。
村には地震が頻発するようになり、酸性雨も降ってくる始末。
すっかり住みにくくなった環境のせいか、徐々に島民の姿は消えていった。
一人、また一人、まるで初めからそこにいなかったかのように、人間が消えていく。
そして終に島の住民は誰も居なくなった。
やがては島そのものもなくなるだろう。
『朝の来ない島』の最後の一節は、「すべては、大海蛇の意のままに(胃の随に)」と言って締めくくられる。
この『朝の来ない島』では、百単位の人口が住む島を飲み干すシーサーペントが描かれているが、確認されているシーサーペントは、最大のものでも57メートル前後で、島を平らげるほど大きいというわけではない。
『朝の来ない島』に誇張されている部分があるのは事実だ。
それでも十分すぎるほど巨大な生き物で、しかもワイバーンすら餌食にする獰猛なモンスターという点にかわりはない。
舟で沖に出た人間が舟ごと丸呑みにされるという事件は一年に数件は起こる。
ノトス海に生息する最強の魔獣にして生態系の頂点に君臨する生物――――それがシーサーペントなのだ。
その海の王者が、海上のある一点を凝視した。
新たな獲物が現れたらしい。
シーサーペントに比べたら小さいが、人間の尺度で考えれば、その獲物も十分に大きく、不可思議だった。
身の丈8メートルに達する人型の物体が、宙に浮いているのだ。
紺色の西洋甲冑を着た騎士をそのまま大きくしたようなその人像は、己の肩幅と同程度の光る円の上に静止している。円には複雑な文様が描かれ、淡く輝きながら、ゆっくりと回転していた。
自分のテリトリーに入ってきた異質な物体に、海獣はすぐさま攻撃の意思を示した。
災害以外にこの海で自身の命を脅かせるものが存在しないことを、そのシーサーペントはよく理解していた。
襲い掛かる巨竜と、それに相対する巨大な騎士。
その構図は、神話や伝説に語り継がれる一場面に酷似していた。
シーサーペントが牙をむいて騎士を噛み砕こうとする。
牙が騎士に届く寸前、淡く光るベールのようなものが空中に浮かび上がった。
光るベールのようなものが、騎士と巨竜の間を隔て、牙の侵入を拒んだ。
転瞬、騎士は力を受け流すように高速で横にスライドして、シーサーペントの牙から逃れる。
停止からトップスピードに達するまでに要した時間は、コンマ数秒。武骨な見た目に反し、氷上のスケーターのような滑らかな運動曲線を描きながら素早く空中を移動してみせる。
騎士の受難はまだ終わらない。
逃げ延びた先の海面が盛り上がり、シーサーペントの尾が襲い掛かる。
これも再び現れた光るベールに阻まれた。
しかし勢いは殺しきれなかったのか、騎士は大きく後退することになる。
それを見たシーサーペントは巨大な口腔を開いた。
次の瞬間、海獣から一筋の閃光が放たれる。
超高圧の水流を対象めがけてぶつけるシーサーペント最大の武器――――アクアブレスだ。
それは岩石を容易く粉砕し、ダイヤモンドでも一刀両断できる凶器だった。
致死性の殺意に対して、いままで光るベールを頼りにしていた騎士が、はじめて大きな回避軌道をとる。
水撃が海面を爆裂させ、局所的に雨が降り、七色の光彩を青空に描き出した。
シーサーペントは大技を出した疲労のためか、動きが鈍かった。
騎士はこの好機を逃さなかった。
雨と虹を切り裂くようにして、猛然と突撃する。
シーサーペントとの距離をつめる途中、騎士はおもむろに右手を前方に突き出した。
そして、洋上に朗々と声が響く。
「AMF(Active Magic Field)、モード・ランス」
声は騎士の中――コックピットから発せられたものだった。
それは命令であり、詠唱であり、死刑宣告だ。
『了解。AMF、モード・ランス、ブートアップ』
命令に対して、もう一つの声が淡々と応じる。
すると先ほど壁として出現していた光のベールが、騎士の手の中で収束し、変形した。そこに姿を現したのは、一本の槍だった。
複雑な光の文様で編まれた円錐型の長槍を、騎士は力強く握りしめ、振りかぶった。
「最大出力!」
力強い声と共に、ゼロ距離から槍が放たれた。
騎士の手を離れた槍はシーサーペントの丸太のような首に直撃し、激しい光の明滅と金属が割れるような甲高い音が生まれる。
魔物は「魔力によって自身の存在を維持している」点が必ず共通している生き物の総称だ。
明らかに飛行できない重量を持つワイバーンが空を飛べるのも、水圧に耐えられる生体機能のないシーサーペントが深海で生きられるのも、全て魔力のおかげだった。
魔力は、魂という『形無き力』。ソサイエという世界では、一般的なエネルギー資源だ。
そして魔力同士は反発し合い、相殺し合う性質を持ち、その際には大きな光と音が発生する。
つまり、騎士の生み出した槍もまた、魔力の産物に他ならない。
魔力の槍には「貫き殺す」という意思が備わっているように見えた。水圧から身を護るためにある強固な魔力の防御をものともせず、ひたすら与えられた役割を果たすために邁進する。
海竜は、槍と騎士を前にして、大きな咆哮を上げる。海の王者が恐れ戦いていた。
あるいは、自らの最後を感じ取ったのかもしれない。
一方は守る魔力、もう一方は貫く魔力。二つの力の拮抗は長くは続かなかった。
程なくして、槍は己の目的を完遂する。
シーサーペントの首には巨大な風穴が開き、どこまでも続く青空が垣間見えた。
『目標の魔力反応、消失。戦闘モード解除。現行を持ってテストシーケンスのラストフェーズを終了します』
再び巨大な騎士の胸部にある狭い長方形の操縦席に、淡々とした音声が反響した。
「機体各部をチェック、魔力残量を報告」
そう言うと、すぐに回答がもたらされた。
『自動魔術精製装置、正常稼働中。 各関節部と装甲に軽度の損耗を認めますが運用に支障なし。イリアス・デルマ少尉の魔力残量46%。帰投分は確保されていますが、不測の事態が発生した場合、少々心元ありません』
「わかった。母艦へ帰還するための最短ルートを算出。なるべく早く、ここから退散したい」
『了解しました。メインスクリーンにルートを表示します。他に何か御用はございますか?』
「魔獣の巣で最新鋭機の実用性実証試験をしろと言われたときには生きた心地がしなかったが、何とかなったな。君のおかげだ、ありがとうセレネ」
『恐縮です』
セレネと呼ばれた何者かは、コックピットに声なき声を響かせる。
エテリア大陸に存在する列強各国の主戦力と言われる魔術兵器【グリモア】。
【魔力抽出機関】、【自動魔術精製装置】、【成形魔石】という3要素技術によって生み出されたグリモアと、それに乗って戦場を駆ける魔術士こそ、現代魔術戦の主役だ。
【キュアレーヌス・セレネ】は、イーリス王国軍が開発したグリモアの試験機だった。
いくつもの最新魔術を実験的に搭載しており、その一つが先ほどからイリアスと会話している【戦闘補助精霊】だ。
戦闘補助精霊のおかげで、グリモアの複雑な操縦系は劇的な省力化に成功しており、「操縦者の負担は従来のグリモアの半分以下になった」とまで言われている。
その反面、挑戦的な試みという名の無茶無謀が満載されたセレネは、魔力の乏しい魔術士を30分程度で干上がらせるモンスターマシンと化してしまった。
試験を開始してから1時間5分が経過している。
イリアス・デルマ少尉は、汗で張り付いた金色の前髪を払いのけながら、中性的な面差しに濃い疲労の色を浮かべていた。
めでたくセレネの連続稼働時間の最長記録を更新したわけだが、嬉しさは感じなかった。
『最新兵器の実用性実証試験』という重要任務を、士官学校を出たばかりの新米が任された理由を考えれば、喜びよりも危機感の方が先立った。
【統一グランベル帝国】の大規模な軍事演習がもう間もなく開始される。
三日月のような形をしたエテリア大陸の南方に位置するイーリス王国と、北部に覇を唱える【統一グランベル帝国】は、歴史的な経緯や領海問題などのさまざまな理由から、とても良好な関係とは言い難かった。
二週間前、そんな相手の軍港から大規模な艦隊が出港したという報せが入ったのだ。
イーリス王国は現在、国防の要となる高位魔術士たちを乗せた防衛艦隊を、国境上の島――――オンパロス諸島(グランベルではネイヴル諸島と呼ばれており、イーリスとグランベルの対立には、この島の領有権問題が少なからず関わっている)に集結させつつあった。
こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそ、新兵器を早急に実戦投入したいと軍の上層部は考えているらしい。
しかしながら並みの魔術士ではセレネをまともに動かせないことはわかっている。
イリアスの魔力総量は、けっして群を抜いているというわけではないが、手隙の魔術士の中では優秀な部類に入った。
それでも新任士官を登用する理由としては弱い。
キュアレーヌス・セレネの開発には多額の予算が投じられている。
不測の事態がいくつも想定される実用性実証試験を行う場合、細心の注意と最大限の下準備を整えてから臨むのが定石だろう。初戦は危険の少ない魔物が選定され、パイロットには歴戦の高位魔術士が推挙されて然るべきだ。
本来なら、シーサーペントなどという水棲魔物最高クラスを相手に冷や汗ものの大立ち回りを演じたり(ちなみに、アクアブレスが直撃していたら確実に撃墜されていた)、新任士官にお鉢が回ってくるような任務ではない。
イリアスはこの人選に作為的なものを感じていた。
それは、確信に近い直感だった。
「あなたはいつもそうだ、父様」
そう呟いて、イリアスは唇を噛みしめる。
若い士官の顔には、苦悩が浮かんでいた。
『何か仰いましたか』
「……何でもない、気にするな。急いで帰投するぞ」
『了解』
蒼い騎士は虹を背負いながら空を駆けていった。
ものすごい遅筆です。
気長によろしくお願いします。