満員電車のあなたと私
「健太って、夏希のこと好きらしいよ」
なんでそんなことわざわざ大きい声で言うの?
やめてよ、人の気持ち考えて。
「ばか、ちげぇよ!」
ほら、健太はそういうに決まってる。
わかってるんだから、そんなの聞きたくないんだから、傷つけないで。
「そんなわけないじゃん」
私だって、そういわなきゃならなくなる。
「健太って、夏希のこと……」
ねえ、やめて。放っておいて。
「おはよ……」
「……おう」
もう朝の挨拶だってぎこちなくなる。
もう七月だし、夏休みが始まったら、しばらく会えないよね。
それなのにこんなの、嫌だよ。
「おはよ……」
ほら、もう返事もしてくれなくなっちゃった。
頷いただけの健太の背中が、嫌だよ。
噂なんか。
そう言えない私も弱いよ。わかってる。でも、知るのも怖いんだ。
健太、噂は本当なの?
本当じゃないなら……。
ごめん、やっぱり訊けない。
ごめん、もう口なんかきけないよ。
……四年経っても心が痛い、あの夏の噂。
テスト初日の朝の、嫌な夢。
中二の頃の弱い私。噂なんか意識しちゃって。
何も言えなくなった、もどかしい頃の自分の、嫌な夢。
忘れられないんだ。
話すことも出来なくなったの、嫌だった。
ねえ、どうしてるのかな?
あ、と目が合った。
気まずい顔するの、ひどいよね。
「よう……」
「健太、いつもこの時間?」
電車が遅延で駅のホームにあふれた人たちの間で、久々に会った。
「いや、いつもは部活があるからもっと早い」
電車が入線してきて、人がなだれ込んだ。
「わ、」
何コレ?
どうしたらいいのコレ?
通勤通学の人たちでぎゅうぎゅうすぎる電車の中。健太と向かい合って、抱き合ってるみたいなかっこうで動けなくなっちゃった。
健太の胸のどきどきが、頬にくっついて……。
え、ちょっと、ねえ。
コレどうしたらいいの……?
………………
一学期、中間テスト初日の朝。
七時三十分。
朝なのに夕暮れのような曇天。
「もう! どうしてもっと早く起こしてくれなかったの?」
夏希は母親に文句を言いながら玄関を出た。
「夏希、折畳み持ってきな」
その声に追われて傘を受け取る。
今回の中間テストの最初の科目は日本史で、一夜漬けで何とかなるかと頑張って、夜更かしをしすぎて寝坊した。
バッグを肩に掛け直し、スカートをひるがえして駅へ走る。高校三年の一学期。衣替えまでもう少し。
空気が湿って重く感じる。この時期にしては珍しい、いつ雨が落ちてきても不思議はなさそうな灰色の空だった。
改札を通り、ホームへ駆け下りる。混んでいた。
七時四十分。
普段ならちょうど通学に使う電車が来る時間のはずだった。頭上の電光掲示板を見ると、遅延のお知らせ、という文字が流れている。
「……ええ?」
息を切らせながら呟く。
(だったらもうちょっとゆっくりでも良かったのに)
そんなことを考えながら、手で髪を梳いた。さらりとクセのない長い髪は友達から羨まれている。
階段を下りて二十歩めくらいの、自動販売機付近の乗車口が夏希の定位置のはずだったが、そこで電車を待つ人の列があまりにも長い。
(まいったなぁ)
と少し前進した。
都心に近いベッドタウンの駅である。このくらいの時間帯の上り電車は慢性的に混んでいる。まして遅延などがあると、いつもの電車に乗れない人がホームにあふれてくる。
ふと、雨が降り出しているのが見えた。
(濡れなくて良かった……)
走ってきたのもまんざら無駄ではなかったと夏希は思うことにした。
あ、と目が合った。
しまった、と思った。
目が合うことがなかったのなら、彼だと見ても夏希は素通りしただろう。相手もそう思ったはずだ。
健太。
小学五年から中学二年まで、同じクラスだった。
「……よう」
小さな声だ。
健太の後ろで立ち止まったほんの一瞬の間に、夏希のあとに二人のサラリーマンが行列として続いた。人の列はさらに伸びる。今さら夏希はそこをどくこともできない。
「久しぶり」
「うん」
英単語○○という参考書を控えめに開いている。一応、受験勉強なのだろう。
「混んでるね」
「さっき踏切に人が入ったらしいよ。で、遅延」
「まじで? 誰よ?」
「知るかよ」
と健太が少し笑った。
夏希は健太の手の参考書を見ている。夏希の目の高さに本がある。同じクラスだった時よりもずいぶん背が伸びたようだ。
「M高だっけ?」
健太が着ているような黒い詰襟の学生服を制服に採用しているのは、この近辺ではそこだけで、校章など見なくてもすぐに分かった。冬服が暑苦しくなる季節のせいか、上着の前を全開にしていた。
「おまえ、T高?」
参考書から目を外して健太が言う。夏希の制服を見たようだ。濃紺のブレザーにグレーとライトブルーと黒のチェック柄のスカート。その下の膝小僧。
「じゃ、風見野?」
「うん。……いつもこの時間?」
「いや。普段は部活があるから、もっと早い時間」
健太のM高校と夏希のT高校は、最寄が同じ風見野駅である。この駅から上り方面に六つ目で、所要時間は二十分ほどだ。
M高校はその南口の方角になる。T高校は北口だった。
雨脚が強くなる。空がますます暗くなっていた。
アナウンスが響いて、列車が入線した。
こういうときには次が何分に着くかどうかわからない。遅刻をしたくないと思う人の群れが、止まった車両になだれ込む。
「わ、」
人の波に押されて、夏希も健太も、ぐるぐると人の渦に巻き込まれるように車両の中に押し込まれた。
(やだ……)
どうしよう、と夏希は思った。
満員の人々の間で、健太と向かい合わせになっている。
夏希が胸にかかえたバッグを挟んで、まるで、抱き合っているように。
健太って、夏希が好きらしいよ。
そんな噂が立ったのは、中学二年の七月だった。
「馬鹿、ちげぇよ!」
「そんなわけないじゃん」
からかう友人たちには互いに否定した。
違う、そんなわけない、二人がそう言葉にすればするほど友人たちにはからかわれ、九月になってから夏希と健太は、口をきかなくなった。
次の駅で電車が止まる。
う、と苦しそうに健太が言った。車両の揺れで身体が周囲の乗客に圧迫される。
乗降客の動きに合わせて揉まれてまた押し詰められる。開いたドアの反対側のドア脇の手すりの棒に夏希の背中が当たった。健太と向かい合っているのは変わらない。
夏希の頭が健太の顎の下に入る。
(背、伸びたんだ)
息苦しい中で、そんなことに気が付いた。
車窓に雨が当たる音がする。人と人のまっただ中に居るよりはドアのガラスから外が見えるのは気分が良い。だが背中に当たる手すりが痛かった。
「夏希、バッグ上げるよ」
身動きもとれないような満員の人々の中で、夏希のバッグが健太のみぞおちを圧迫していた。健太がもぞもぞとそれを取りあげて網棚に乗せる。ついで彼自身のバッグも夏希の物の傍らに置く。
「あ、りがとう」
夏希にもバッグの存在が苦しかったためにそう礼を言った。しかしバッグが無くなった分、余計に身体が密着した。
(うわ、どうしよう……)
ひどく暑くなった気がしてきた。耳にまで自分の鼓動の音が届いてくる。
ドアが閉まって車両が速度を上げるまでの一瞬の沈黙。車窓を叩く雨の音。それから遅延と混雑を詫びる車掌の言葉がスピーカーから流れてきた。
は、と健太は息を詰める。
頭上を撫でる空調が気休めにもならないほどに、暑い。
満員電車だから当然と言えば当然だが、それ以上に、暑いというか熱く感じる。夏希の身体が健太に押し付けられている。
触れているところがやけに熱い。
(どうしよう)
ひどく戸惑う。胸に夏希の頬があるのは解る。困った。
困った、……が、健太には、嬉しかった。
噂なんか、と今なら思える。
中二の時、十四歳の健太にはそう思うことができなかった。
からかわれることが照れくさくなって、夏希と口もきけなくなった。
友人達に「そんなわけない」と答えていた夏希の、本当の気持ちを確かめることも怖かった。
多分、それが何より怖かった。
情けないほどに、あのころの健太は人を好きになった気持ちに対して臆病だった。
その後悔をくすぶらせたまま、健太は十八歳を迎えている。
その夏希が、今、人の流れの成り行きのおかげで、健太の胸の中にいる。
満員の電車のお陰で息苦しいほど夏希が健太の近くにいる。
(すげえ、ばくばく)
健太の鼓動が早まっている。夏希に聞こえてしまうだろうか。
目線を下ろすと、夏希の綺麗な髪が見える。シャンプーなのか、良い匂いもする。背後に居るらしい男のオヤジ臭よりは夏希の髪の匂いの方が快適なのは当然だが、鼻を近づけるのも気が引ける。夏希が気持ち悪がるだろう。
(嬉しいとか言ってる場合じゃない。静まれ、俺! 静まれ、静まれ静まれ――)
この紋所が目に入らぬか、などと、おなじみの時代劇のフレーズなどを無意味に思い浮かべて気をそらした。
『停止信号です』
アナウンスとともにブレーキがかかる。遠心力で、圧迫が強くなった。
意志と反して、健太は夏希を押しつぶすようなことになってしまった。
苦しげな声が胸元に湧く。
「平気?」
「手すりが……」
固い鉄の棒が夏希の背中に食い込んでいるようだ。痛そうに、眉をしかめている顔が眼下にちらりと見えた。
『電車が動きます』
放送からすぐに、がたん、と振動が来た。
瞬時、少し開いた隙間に右手を入れて、健太は抱き寄せるようにして夏希の背をかばう。
左手は夏希の頭上の壁を押しながら、彼女にかかる重みを遮った。
「健太の手が折れちゃうよ」
「折れねーよ」
夏希の背に回した腕が鉄の手すりに当たる。痛いとは思ったが、我慢できなくもない。
ドアのガラスに雨のしずくが流れていた。
相変わらず、夕暮れのように空が暗い。
(かばってくれてるんだ)
夏希の背中にかかる圧迫がない。
健太の腕を背中に感じる。その右腕と、頭の上の左手が他の乗客たちからの圧力から夏希を守ってくれている。その胸に成り行きのままに頬を押し付けている。
(健太、けっこうたくましい……)
服の上から彼の胸の筋肉がわかるほどぎゅうぎゅうに満員の乗客たちに押し詰められている。
今、夏希の頬が熱いのは車内の温度のせいだけではないと自覚した。
健太は剣道部だった。中学の時には関東大会で準優勝をして全校集会で表彰されていたのも知っている。今でも剣道部なのだろうか。訊いてみたい気もした。が、とりあえず今はそれどころではない。
次の駅は他の路線との乗り換えがある。ドアは、健太と夏希の居る反対側の方が開いた。降りる客が多い。目を向けると、それ以上に来た電車に乗り込もうと待ち構える大勢の姿も見える。遅延のためにホームには人があふれていた。
降車する客が車両から出て、二人にかかっていた圧迫が少しゆるまる。
その隙に、夏希の肩をつかんで位置を入れ替え、健太は自分がドア脇の手すりを背にした。乗り込んでくる客でまたぎゅうぎゅうのすし詰めになる。
確かに手すりが背中に当たると痛い。これをさっきまで夏希が耐えていたのかと思うと気の毒になった。
「あ……」
夏希が溜息をついた。
同時に、健太は息を止めた。
先ほど以上の混雑のせいで、健太の膝が、夏希の膝の間に入ってしまった。腿が触れ合っている。
健太は、駅のホームで見た、夏希の可愛い膝小僧を思い浮かべた。
(どうしよう、ちょっとこの体勢って……)
(どうしよう、やばいだろ、この体勢……)
どうにもならないほど鼓動が早い。
周囲の乗客からの圧力で、普通の恋人同士の抱擁よりもきっと二人の身体は密着している。
体温を濃密に、感じる。
(静まれ、静まれっ……)
健太は自分の胸に言い聞かせる。
電車の揺れのたびに、夏希の身体が健太にぎゅっと押し付けられていた。健太のみぞおちに近いあたりに、柔らかい膨らみを二つ感じる。
(夏希、けっこう胸ある)
頭に血がかーっと上る。
(頼むから静まれ、俺! 静まれ……しずまれ? しずまれって、もしかして鎮まれって漢字か? 鎮静のチンのほう? いや、チンとか言うな自分)
受験生らしい事を考えながら、夏希の胸から気持ちを背けようとしたが、それがまた非常に難しい。よろしくない方向に意識が行ってしまう。
(あつい)
汗ばむほどになりながら夏希は健太の胸に頬を預けている。健太の鼓動が聞こえた。夏希と同じくらい、ドキドキしているような気がした。
(これって、アレよね……?)
立錐の余地も無い混雑のために健太の右足の膝が夏希の脚の間に入っている。
同じように夏希の右足も健太の脚の間にあるわけだ。
夏希の右腿の付け根に何とも言えない熱い感触の物がある。
(これって、これって、これってつまり、女の子にはないナニかだよね? だよね?)
さっきから胸を健太に押し付けているのも自覚がある。わざとではないことは解りきっているが、それを健太がどう感じているのか。それを思うと脳みそが沸騰しそうな気分になってきた。
(なんか、なんか、なんだか、健太、ちょっと、……かたくなってない?)
気付いてしまって、夏希はかあっと顔が熱くなってきた。
満員電車の中、密着した互いの身体を離す事も出来ないままで。
がたん、ごとん。
と揺れる電車の中、レールの上を鉄の車輪が軋む中。
電車は高架の線路を走っていた。
夏希の位置から車窓がわずかに見える。
窓は人いきれで少し曇っていた。
それでも外に景色が流れて行くのが見えた。
「晴れた!」
「えっ?」
夏希の声に、健太は少し首を回す。
灰色の雲間から数条の光の束が見えていた。どこか神々しいような空の景色が広がった。
車窓に当たる雨音もそういえば聞こえなくなっている。
「良かったな……」
健太の月並みすぎる感想に、夏希は思わず、ふふ、と笑った。
そのあと少し、腿に当たっていた健太のナニかの感触が柔らかになったのがわかって、夏希の妙な緊張も少し解けた。
見上げた健太の顎のあたりが汗に光っている。
ねえ健太?
あの噂、本当だった……?
すし詰めの乗客たちの圧力で、夏希は健太に押し付けられ続けている。健太の制服が少し汗臭い。三駅を発着する間、夏希はずっとそのにおいに包まれ続けていた。
鼓動が相変わらず激しいのはもう仕方がない。
今の夏希にはそれもひそかに快かった。
『次は風見野、風見野です…』
アナウンスが聞こえる。健太のM高校と夏希のT高校の最寄り駅だ。
電車が速度をゆるめ始める。
幸いに、雨が上がったようだった。外の光が強くなる。窓に向かう夏希の目には、雲の間に青い空が見えている。
夏希の肩から健太の手が静かに外れた。腕を伸ばして網棚の上のバッグを二つ取る。
二人が居るほうのドアが開く。
「降ります!」
と言いながら、弾けるように車両から吐き出された。
先に健太が出て、夏希はその後ろになった。二人分のバッグを健太が持っている。
「むっちゃ混んでたね」
「苦しかったぁ」
夏希と同じ制服の女子達がそんな言葉とともに傍らを通り過ぎた。
人の流れから少し外れたところに健太が居る。
「ありがとう」
彼に駆け寄って、夏希はバッグを受け取った。
ホームには初夏の光が暑いくらいに満ちていた。
高架構造の風見野駅の改札を学生たちが通りゆく。自動改札の電子音とともに、ガコ、とぎこちなくゲートが開く。
改札口を出て右が北口、左が南口。
夏希は右に行く。健太は左である。
人波の中で夏希は健太の背を追った。
健太の足が、左に曲がる。
「ねえ」
声を掛けた。
「ありがとう。バッグとか」
「いや……」
「それじゃ」
「うん」
欠けた言葉を交わして、互いの道へ足を向ける。
一歩、二歩、三歩、背中あわせに離れて行く。
通路の窓から明るい日差しが舞い込んだ。
「ねえ」
再び夏希は言う。
何人か、T高校の制服が夏希の傍らを過ぎて行く。
振り返った健太は唇を歪ませて、奇妙な顔になっていた。笑いそうなのをこらえている。
「明日も、あのへんに、乗る?」
「ああ」
夏希の問いに、ぱあっと笑みをこぼした健太の左右を、M高校の制服姿が流れて行く。
ゆっくりと、また夏希に背を向けた健太がその人波の中に飲まれて去った。
去り際の健太が右の拳を突き上げた。
その後ろ姿が夏希を雨上がりのような笑顔にする。
満員電車で聞いた健太の鼓動とその感触が、夏希の頬に甦る。
ねえ健太、あの噂、本当だった……?
本当だったら……。
夏希も学校に向かうため、健太のほうに背を向ける。駅を出た。
まばゆい光に目を細めながら、明日を思って微笑んだ。
朝の驟雨に洗われて、きれいに澄んだ青空が、彼らの頭上に今、果てしなく広がっている。
fin