あなたと夏の果て
私の世界は美しいもので満ちていた。
私は母と二人だった。父はいなかった。私が生まれてすぐに、交通事故で死んだという。私と母、狭いアパートの一室に、ふたり。私の視界は母しか映さず、母しかいない世界は綺麗だった。母のもとを離れてからも、目を閉じればいつでも母を思い浮かべられた。生まれてからずっと、世界は非の打ち所がないほどに美しかった。
母は美しい人だ。白い陶器のような肌に乗せられた、長い睫毛に囲まれる清らかな瞳が印象的な人。工場で慎ましく働いていてよい美貌ではなかった。もっと、人に囲まれる芸能界が似合うと思った。世間で綺麗と持て囃されている女優より、ずっと煌びやかだった。
お金がなくとも、服が汚くていじめられていても平気だった。でもこんなに美しい母がいるのは私だけだ、と心中で思うだけで、すべてどうでもよくなった。
一度、母にモデルに応募してみたらどうかと言ったことがある。なんとなく立ち読みした雑誌が募集をしていたからだ。
そうすると母は笑って、「私は大勢の前に、綺麗な人として出られるほど美しくはないわ」と笑った。そんなことはないと言っても、母は「優しい子だね」と頭を撫でた。謙虚な母は、工場と買い物に向かう以外、家を出ることはそうなかった。
母は、私だけの星だった。
今日、母は五十二歳を迎える。九月十日。夏が確かに残る日に生まれたからか、母は空のように鮮やかで、海のように深い青色がよく似合う。オオルリの羽を思わせるサロペットを着ていると、一等優美だった。
私は母を祝うために、休みを二日取った。去年は忙しく、帰省は叶わなかった。
光がそこら中にある都会の街から、生まれ育った田舎町へ二年ぶりに帰る。
電車を降りると、ヒグラシだけが私を出迎えた。廃れた無人駅に出てきたのはほかにいなかった。
ここから母の住むアパートまでは、歩いて十五分ほど。苦ではない。一歩一歩地を踏みしめ、だんだんと母のもとへ近づいているのを実感すると、心臓の声がうるさくなるだけだ。
料理が好きな母のために、プレゼントとして包丁を買った。オオルリ色の青の持ち手が美しい。美しい人は、美しいものを持つべきだ。
お母さん、お母さん。私が帰りますよ。
二年間で、人ごみに私の目は歪められてしまったのだと思った。
おかえりと笑顔で出迎えた母の顔。
何が起きているのかわからない。
目を閉じる。母の美しい顔。
目を開ける。母の優しい顔。
でも、茶色いシミがところどころに散っている顔。薄く折り目のついた顔。
母は美しくなかった。たるんだ頬と顎下の肉が、私の名前を呼ぶたびに、身動きするたびにふるふると揺れるのが目障り。
母は美しいはずだった。そのオオルリのサロペットがよく似合うはずだった。
なぜ。なぜ。
瞬間、玄関の隅のほこりが気になった。引き戸の端で巣を張る蜘蛛が気になった。
目を閉じる。
まぶたの裏、汚い母の顔が笑う。目が小さくなって、しわが大きく主張する。白髪頭で、腰は折れ曲がる。
ああ、なぜ、あなたがそんな姿に。
なぜ。
と聞かれた。
なぜお前は、大切な人を殺したのか。
母は大切な人だ。美しい、大切な人だ。
だからこそ、これ以上美しく無い姿を見たくなかった。
本当に、それだけだった。
私の星は流れ、オオルリはじきに発つ。
世界は美しかったはずだった。




