表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

第2章:毒を食らう賢者-其の三

帝都モン・セラを揺るがした国庫庁第二書記の「自首」という激震は、一夜にして宮廷の権力地図を塗り替えつつあった。

皇太子派の重要な資金源が断たれたという事実は、これまで沈黙を守っていた中立派の官吏たちに、「風向き」の変化を予感させるには十分だった。


翌朝、ジョルディ別邸の地図室。

壁一面を覆う帝国の行政区分図と、無数の帳簿に囲まれた中で、セバスティアンは憔悴した面持ちで机に向かっていた。昨夜から一睡もせず、ブライが指摘した「二重帳簿」の裏付けを、国庫庁の公式記録と照合し続けていたのだ。


「……全て、事実でした。第二書記が管理していた北方の鉄鉱山からの上がり……。記録官、いや、ブライ殿の指摘通り、年間で金貨数万枚相当の端数が、実体のない運送業者を経由して、皇太子殿下の私的な隠し口座に流れていました」


セバスティアンの声には、自らの「教え子」に裏切られた落胆と、それを見事に暴いてみせたブライへの、恐怖に近い畏敬の念が混じっていた。


「見事な初陣だったな、ブライ」

ジョルディが、上機嫌で地図室に現れた。彼は手にした銀杯を、無造作に卓上の地図へと置く。

「オリオル兄上は今頃、消えた資金の穴埋めに奔走しているだろう。……さて、次はどう動く? 弱った獣を、このまま近衛の力で叩き潰すか?」


「……いいえ、殿下。それは最悪の一手です」


影の中から、ブライの掠れた声が響いた。

彼は椅子から立ち上がることもなく、手元の細い指揮棒で地図の「北の街道」を指し示した。


「皇太子殿下は今、焦っています。手元から資金が消えれば、彼は必ず、代わりの金を『力』で手に入れようとする。……それこそが、私の狙いです」


ブライは、リタが運んできた新しい薬の香りを無視し、セバスティアンへと視線を向けた。


「セバスティアン殿。……帝都の北、バルデス侯爵が支配する穀倉地帯において、今『ある噂』が流れているのをご存知ですか?」


「……噂? いいえ、特には。今年は豊作と聞いていますが」


「その豊作こそが、罠なのです。……殿下。北方の農村部で『黒枯れ病の予兆がある』という、極めて信憑性の高い、しかし嘘の情報ノイズを市場に流しました」


ブライの瞳が、布の隙間で怪しく光る。


「人間という生き物は、豊かであればあるほど、それを失う恐怖に敏感になる。……穀物商たちは、不作の予感に怯え、一気に買い占めを始めました。その結果、市場の穀物価格は不自然に高騰し始めています」


「……待ってください」

セバスティアンが慌てて割って入った。

「価格が高騰すれば、バルデス侯爵――皇太子派の重鎮である彼の懐は、潤うはずではありませんか? それでは逆効果だ」


「……短絡的ですね、セバスティアン殿。物価が上がれば、民の不満は誰に向くと思いますか? ……そして、皇太子殿下は、手元に資金がない今、この価格高騰を見て何をすると思う?」


ジョルディが、何かに気づいたように目を見開いた。

「……増税か」


「その通りです。皇太子殿下は、潤っているはずのバルデス侯爵領に対し、臨時の『物価調整特別徴収』を命じるでしょう。……手っ取り早く、かつ大義名分のある徴収。ですが、実際には農民の手元に金はない。穀物商が買い占めているだけで、生産者は高騰の恩恵をまだ受けていないからです」


ブライは、静かに地図をなぞった。


「皇太子が自らの支持基盤であるバルデス侯爵に重税を課し、侯爵は生き残るために農民を搾り取る。……民の怒りはオリオル殿下へ向き、侯爵は殿下の強引なやり方に不信感を抱く。……血を一滴も流さず、剣を一本も振るわず。ただ、情報の『重み』を変えるだけで、盤面は自壊し始めるのです」


「……恐ろしい男だ」

ジョルディは、冷たい戦慄を覚えながらも、歓喜に震えた。

「貴公は、帝国そのものを人質に取っているのだな」


「……人質? いいえ。私はただ、この国が15年前に忘れてきた『帳尻』を合わせているだけですよ」


ブライは、不意に激しい咳に襲われた。

「ブライ様!」

リタが背中を支え、薬を口元へ運ぶ。その指先が触れたブライの肌は、氷のように冷たかった。


「……私の命は、長くはない。……だから、まどろっこしい戦はしない。……ジョルディ殿下。貴公に、一つだけ訊きたい。……民が飢え、貴公の兄が憎まれる。その先に、貴公が何を成すつもりか……。そこに『正義』などという甘っちょろい幻想を、まだ持っていますか?」


ジョルディは、ブライの冷徹な問いを真正面から受け止めた。

「……正義など、勝った者が後から書く物語に過ぎん。私が求めているのは、唯一無二の玉座だけだ」


「……よろしい。ならば、私は喜んで、貴公の『影』となりましょう」


ブライは、リタに支えられながら地図室を後にした。

その足取りは危うかったが、彼の背中には、目に見えぬ無数の糸が、帝都モン・セラ中の権力者の首に繋がっているかのような、奇妙な威厳が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ