第2章:毒を食らう賢者-其の三
帝都モン・セラを揺るがした国庫庁第二書記の「自首」という激震は、一夜にして宮廷の権力地図を塗り替えつつあった。
皇太子派の重要な資金源が断たれたという事実は、これまで沈黙を守っていた中立派の官吏たちに、「風向き」の変化を予感させるには十分だった。
翌朝、ジョルディ別邸の地図室。
壁一面を覆う帝国の行政区分図と、無数の帳簿に囲まれた中で、セバスティアンは憔悴した面持ちで机に向かっていた。昨夜から一睡もせず、ブライが指摘した「二重帳簿」の裏付けを、国庫庁の公式記録と照合し続けていたのだ。
「……全て、事実でした。第二書記が管理していた北方の鉄鉱山からの上がり……。記録官、いや、ブライ殿の指摘通り、年間で金貨数万枚相当の端数が、実体のない運送業者を経由して、皇太子殿下の私的な隠し口座に流れていました」
セバスティアンの声には、自らの「教え子」に裏切られた落胆と、それを見事に暴いてみせたブライへの、恐怖に近い畏敬の念が混じっていた。
「見事な初陣だったな、ブライ」
ジョルディが、上機嫌で地図室に現れた。彼は手にした銀杯を、無造作に卓上の地図へと置く。
「オリオル兄上は今頃、消えた資金の穴埋めに奔走しているだろう。……さて、次はどう動く? 弱った獣を、このまま近衛の力で叩き潰すか?」
「……いいえ、殿下。それは最悪の一手です」
影の中から、ブライの掠れた声が響いた。
彼は椅子から立ち上がることもなく、手元の細い指揮棒で地図の「北の街道」を指し示した。
「皇太子殿下は今、焦っています。手元から資金が消えれば、彼は必ず、代わりの金を『力』で手に入れようとする。……それこそが、私の狙いです」
ブライは、リタが運んできた新しい薬の香りを無視し、セバスティアンへと視線を向けた。
「セバスティアン殿。……帝都の北、バルデス侯爵が支配する穀倉地帯において、今『ある噂』が流れているのをご存知ですか?」
「……噂? いいえ、特には。今年は豊作と聞いていますが」
「その豊作こそが、罠なのです。……殿下。北方の農村部で『黒枯れ病の予兆がある』という、極めて信憑性の高い、しかし嘘の情報を市場に流しました」
ブライの瞳が、布の隙間で怪しく光る。
「人間という生き物は、豊かであればあるほど、それを失う恐怖に敏感になる。……穀物商たちは、不作の予感に怯え、一気に買い占めを始めました。その結果、市場の穀物価格は不自然に高騰し始めています」
「……待ってください」
セバスティアンが慌てて割って入った。
「価格が高騰すれば、バルデス侯爵――皇太子派の重鎮である彼の懐は、潤うはずではありませんか? それでは逆効果だ」
「……短絡的ですね、セバスティアン殿。物価が上がれば、民の不満は誰に向くと思いますか? ……そして、皇太子殿下は、手元に資金がない今、この価格高騰を見て何をすると思う?」
ジョルディが、何かに気づいたように目を見開いた。
「……増税か」
「その通りです。皇太子殿下は、潤っているはずのバルデス侯爵領に対し、臨時の『物価調整特別徴収』を命じるでしょう。……手っ取り早く、かつ大義名分のある徴収。ですが、実際には農民の手元に金はない。穀物商が買い占めているだけで、生産者は高騰の恩恵をまだ受けていないからです」
ブライは、静かに地図をなぞった。
「皇太子が自らの支持基盤であるバルデス侯爵に重税を課し、侯爵は生き残るために農民を搾り取る。……民の怒りはオリオル殿下へ向き、侯爵は殿下の強引なやり方に不信感を抱く。……血を一滴も流さず、剣を一本も振るわず。ただ、情報の『重み』を変えるだけで、盤面は自壊し始めるのです」
「……恐ろしい男だ」
ジョルディは、冷たい戦慄を覚えながらも、歓喜に震えた。
「貴公は、帝国そのものを人質に取っているのだな」
「……人質? いいえ。私はただ、この国が15年前に忘れてきた『帳尻』を合わせているだけですよ」
ブライは、不意に激しい咳に襲われた。
「ブライ様!」
リタが背中を支え、薬を口元へ運ぶ。その指先が触れたブライの肌は、氷のように冷たかった。
「……私の命は、長くはない。……だから、まどろっこしい戦はしない。……ジョルディ殿下。貴公に、一つだけ訊きたい。……民が飢え、貴公の兄が憎まれる。その先に、貴公が何を成すつもりか……。そこに『正義』などという甘っちょろい幻想を、まだ持っていますか?」
ジョルディは、ブライの冷徹な問いを真正面から受け止めた。
「……正義など、勝った者が後から書く物語に過ぎん。私が求めているのは、唯一無二の玉座だけだ」
「……よろしい。ならば、私は喜んで、貴公の『影』となりましょう」
ブライは、リタに支えられながら地図室を後にした。
その足取りは危うかったが、彼の背中には、目に見えぬ無数の糸が、帝都モン・セラ中の権力者の首に繋がっているかのような、奇妙な威厳が宿っていた。




